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イリイチ入門 哲学入門シリーズ199

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イリイチ入門 哲学入門シリーズ199

第一章 イリイチってどんな人?

 人は、助けてもらうと楽になる。重い荷物を持ってもらえば、肩の痛みは消える。難しい手続きを代わりにやってもらえば、頭の中のもやもやも消える。だが、その助けが何度も続くと、少し違う感覚が生まれてくる。自分で持てたはずの荷物を、自分で持つのが怖くなる。自分で読めたはずの書類を、専門家がいないと読めなくなる。最初は自由になるための助けだったものが、いつのまにか、自分の手足を細くしている。

 イヴァン・イリイチは、その違和感を見つめた思想家だった。学校、病院、交通、開発、福祉、労働、読書。彼が扱ったテーマは広い。けれども、彼が本当に見ていたものは一つだった。人を助けるために作られた制度が、ある大きさを超えると、逆に人の力を奪い始める。その反転の瞬間である。学校は学びを助ける。病院は健康を助ける。自動車は移動を助ける。援助は生活を助ける。だが、それらが巨大な仕組みになり、人がそこを通らなければ生きられないようになると、助けは支配に変わる。

 たとえば、子どもは学校で多くのことを学ぶ。文字、計算、歴史、友人との関係、集団の中でふるまう感覚。だから学校は、ただ悪いものではない。イリイチの面白さは、学校を単純に否定したところにあるのではない。むしろ、学校があまりに強くなると、学校の外で学んだことが学びとして認められにくくなる、と考えたところにある。独学で何かを身につけても、資格がなければ軽く見られる。近所の職人から技を教わっても、修了証がなければ説明しにくい。ここで問題になるのは、学ぶことそのものではなく、学びが学校の証明書に閉じ込められていくことである。

 病院についても同じことが言える。病院は人を救う。手術、薬、検査、救急医療は、多くの命を支えている。だが、身体の変化、老い、痛み、不安、死までもが、すべて医療の管理する問題になると、人は自分の身体を自分で感じる力を失っていく。少し眠れない。少し気分が沈む。年齢とともに体力が落ちる。そのたびに、専門家の言葉がなければ自分の状態を理解できない。治療を受けているのに、健康であるという感覚だけが遠ざかる。イリイチは、こうしたねじれを見た。

 このねじれを、彼は「逆生産性」として考えた。ある制度や道具が、最初の目的を助ける段階を超えて、逆にその目的を壊し始めることだ。教育の制度が、学ぶ力を弱める。医療の制度が、健康に生きる力を弱める。交通の制度が、移動の自由を弱める。

 身近な例でいえば、スマートフォンにも似たところがある。地図アプリは便利だ。道に迷わず目的地へ行ける。けれども、毎日それに頼っていると、町の形を身体で覚える感覚が弱くなる。駅から東へ歩く、川を渡る、古い喫茶店の角を曲がる、という記憶が薄くなる。道具が悪いのではない。道具があることで、自分の中にあった能力が使われなくなり、少しずつ痩せていくことが問題なのである。

 イリイチは、一九二六年にウィーンで生まれた。ヨーロッパで神学と哲学を学び、カトリック司祭となり、アメリカ、プエルトリコ、メキシコで活動した。机に座って社会を眺めた人ではない。移民、宣教、教育、開発援助の現場を見た人だった。だから彼の批判は、外から制度を罵る言葉ではない。むしろ、善意の制度の内側をよく知っていたからこそ、その善意がどう反転するかを疑った。

 ここで大事なのは、イリイチが「悪い人たちが社会を壊している」と考えたわけではないことだ。彼が見たのは、むしろ善意の危険だった。子どもを教育したい。病人を救いたい。貧しい地域を助けたい。交通を便利にしたい。どれも、出発点はよい。だが、よい目的を持つ制度ほど、自分がよいことをしていると信じやすい。そして、自分を疑わなくなる。疑われない制度は大きくなり、大きくなった制度は、自分なしでは人は生きられないと考え始める。

 これは、親切すぎる人に似ている。最初はありがたい。料理を作ってくれる。掃除をしてくれる。予定を決めてくれる。けれども、すべてを代わりにやられると、受け取る側はだんだん動けなくなる。やがて、自分で料理をしようとすると「危ないからやめておきなさい」と言われ、自分で掃除をしようとすると「効率が悪い」と言われ、自分で予定を立てようとすると「失敗する」と言われる。助けられているのに、生活の主導権がなくなっていく。イリイチが制度に見たのは、この親切すぎる支配だった。

 そのため、イリイチは単なる反近代の思想家ではない。昔に戻れ、と言っただけの人でもない。彼は、道具や制度が人間を助ける範囲を見極めようとした。人が道具を使っているのか、それとも道具の都合に人が合わせられているのか。人が制度を利用しているのか、それとも制度に認められるために生きているのか。その境目を問うたのである。

 この問いから出てくるもう一つの重要な言葉が「コンヴィヴィアリティ」である。日本語では「自立共生」や「共愉」などと訳されることがあるが、感覚としては、人が道具に使われず、道具を自分たちの手に取り戻している状態に近い。誰か一人が支配するのではなく、人びとが互いの力を奪わず、必要な道具を理解し、使い、時には直し、分け合える状態である。高価で複雑で、専門家しか触れない装置ではなく、人が自分の能力を広げるために使える道具。イリイチは、そうした道具と社会のあり方を探した。

 たとえば、自転車はコンヴィヴィアルな道具として考えやすい。もちろん、道路や整備の問題はある。だが、自転車は自分の身体の延長として使える。自分でこぎ、自分で止まり、自分で直す余地もある。移動を専門家や巨大インフラへ完全に預けない。一方で、車なしでは買い物にも病院にも行けない町では、自動車はただの便利な道具ではなくなる。生活全体が車を前提に組み替えられ、人は車を選んでいるようで、車を選ばされている。ここにイリイチの視線が入る。

 彼の生涯をたどると、宗教、教育、医療、技術、開発、読書へと関心が移っていったように見える。だが、それは気まぐれな移動ではない。入口が変わっただけで、見ている問題はつながっている。学校では、学ぶ力が制度に吸われる。病院では、健康に生きる力が専門職に吸われる。交通では、移動する力が高速システムに吸われる。開発では、地域の暮らす力が外部の援助に吸われる。イリイチは、さまざまな場所で、人間の自律がどのように細っていくかを見ていた。

 だから、イリイチを読むときに必要なのは、制度を嫌うことではない。制度が何を助け、どこから奪い始めるのかを見分けることである。学校はどこまで学びを支え、どこから学びを証明書に変えるのか。病院はどこまで健康を支え、どこから人生の苦痛をすべて医療の案件に変えるのか。交通はどこまで移動を支え、どこから移動しなければ暮らせない社会を作るのか。この境目を見る目が、イリイチを読むことで手に入る。

 イリイチの影響は、はっきりした学派として残ったというより、問題の立て方と言葉として残った。脱学校、逆生産性、急進的独占、コンヴィヴィアリティ、シャドウ・ワーク、ヴァナキュラー価値。これらの言葉は、教育だけでなく、医療、技術、環境、開発、共同体論へ広がっていった。彼の影響関係は、直接の師弟関係よりも、対話、批判的受容、概念の再利用として残っている。

 イリイチは、制度を壊せと叫ぶ破壊者ではない。便利さの中で細っていく身体感覚に、名前を与えた思想家である。自分で学ぶ力。自分で歩く力。自分の痛みを感じる力。隣人と助け合う力。道具を自分たちの手で扱う力。そうした力は、騒がしく失われるのではない。むしろ、親切で、効率的で、よく整った制度の中で、静かに使われなくなる。イリイチは、その静かな喪失に耳を澄ませた。

 彼を読むということは、現代社会を一度ゆっくり見直すことである。これは本当に便利なのか。それとも、便利さのために別の自由を差し出しているのか。これは本当に助けなのか。それとも、助けられる側を無力にしているのか。これは本当に進歩なのか。それとも、進歩という名前で、別の暮らし方を消しているのか。イリイチの問いは古びていない。むしろ、道具と制度に囲まれて生きる現代ほど、鋭く響く。便利な社会の中で、自分の手足がまだ自分のものかどうかを確かめるために、イリイチは読まれるべき思想家なのである。

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