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リデル・ハート入門 哲学入門シリーズ203

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リデル・ハート入門 哲学入門シリーズ203

第一章 リデル・ハートってどんな人?

 何かを力ずくで押し通そうとして、かえって事態が固くなってしまうことがある。強く言えば言うほど相手は身構え、正しいことを言っているはずなのに、話が前へ進まなくなる。重い扉を正面から押しているのに、実は横に小さな取っ手があった。あるいは、鍵のかかった扉を壊そうとしていたのに、窓が開いていた。あとから振り返れば、なぜあんなに正面だけを見ていたのかと思う。けれど、その場にいる時は、力を入れる方向を変えるという発想が出てこない。

 リデル・ハートという人物を理解する入口は、まさにその感覚にある。彼は、戦争をもっと激しくするための思想家ではない。むしろ、力をまっすぐぶつけることへの疑いから出発した思想家である。勝つために力が必要なことは、彼も否定しない。だが、力をただ正面へ向ければよいのか。敵がもっとも待ち構えている場所へ、もっとも分かりやすい形で進むことは、本当に賢いのか。その問いが、彼の生涯を貫いている。

 バジル・ヘンリー・リデル・ハートは、一八九五年に生まれたイギリスの軍事思想家、軍事史家、戦略論者である。若いころに第一次世界大戦を経験し、その後は軍人としてよりも、書く人、論じる人、戦争を歴史の中から読み直す人として知られるようになった。彼の名を有名にしたのは「間接アプローチ」という考え方である。これは、敵の強い正面にまともにぶつかるのではなく、敵の予想、配置、心理、補給、通信をずらし、相手が力を出せない状態を作る発想である。

 ただし、この概念だけを先に覚えると、リデル・ハートは小器用な抜け道の人に見えてしまう。そこには注意が必要である。彼が言いたかったのは、単に「裏をかけ」ということではない。相手の背後を突くとか、側面へ回るとか、奇襲するとか、そういう戦術の一覧だけでもない。もっと深いところでは、人間や組織は、自分が準備している形で攻められると耐えやすく、自分の予想していない形で揺さぶられると崩れやすい、という洞察がある。戦争とは兵器の衝突である前に、判断する人間の衝突なのだ。

 この考えは、机の上だけで生まれたものではない。リデル・ハートは第一次世界大戦の西部戦線を体験した。第一次世界大戦と聞くと、地図上の矢印や国家間の争いが先に思い浮かぶかもしれない。だが、前線の兵士にとってそれは、泥、鉄条網、砲撃、塹壕、毒ガス、そして終わりの見えない消耗だった。正面へ進めという命令が出る。兵士たちは開けた場所へ出る。すると、敵の機関銃と砲撃が待っている。少し前へ進むために、信じられない数の人間が失われる。そこでは勇気がないから死ぬのではない。勇気を出して、命令通りに進むから死ぬのである。

 ここに、リデル・ハートの戦略思想の原点がある。彼は戦争の勇ましさに酔った人物ではなかった。むしろ、勇ましい言葉が人間をどれほど粗末に扱うかを知っていた。正面攻撃は、外から見ると分かりやすい。敵がいる。そこへ向かう。押し切る。突破する。言葉にすれば単純で、命令もしやすい。しかし、敵もまたそこを守る。強いところに強くぶつかれば、こちらの損害も大きくなる。努力の量が増えれば結果がよくなるとは限らない。方向を間違えた努力は、損害を増やすだけになる。

 日常でも似たことはある。たとえば、相手を説得したい時に、正面から「あなたは間違っている」と言う。こちらの主張は正しいかもしれない。けれど、相手はすぐに防御する。自尊心を守り、反論を探し、こちらの言葉を敵の攻撃として受け取る。すると、議論は中身ではなく、面子の争いになる。そこで別の入り方をする。相手が何を恐れているのか、どこなら譲れるのか、どの前提なら共有できるのかを探る。これは卑怯な逃げではない。目的を見失わないために、力の向きを変えることである。

 リデル・ハートにとって戦略とは、敵を壊す技術ではなく、目的へ至るために力をどう使うかを考える技術だった。戦闘に勝つことと、戦争の目的を達成することは同じではない。目の前の敵を打ち破っても、自国の社会が疲れ果て、次の憎悪を生み、政治的な目的が消えてしまうなら、それは本当に勝利なのか。この問いがあるから、彼の戦略論は単なる軍事技術を越える。勝てばよいのではない。どれだけの犠牲で、何を守り、何を失わずに勝つのかが問題になる。

 彼の思想には、第一次世界大戦後の時代の重さも刻まれている。戦争は、将軍だけの仕事ではなくなっていた。国家の経済、工場、新聞、世論、植民地、国民生活まで巻き込む総力戦になっていた。戦争が大きくなりすぎれば、勝った側も傷つく。たとえば、家の中に一匹の害虫がいるからといって、家ごと燃やしてしまえば問題は解決したように見える。しかし、住む場所も失われる。リデル・ハートが嫌ったのは、まさにそのような勝利だった。

 だから彼は、敵の殲滅だけを目的にする考え方を疑った。もちろん、戦争において敵の戦力を削ることは避けられない。だが、敵の兵士を一人残らず倒すことだけが勝利ではない。敵の指揮官が状況を読めなくなる。補給が途切れる。通信が混乱する。退路が危うくなる。味方同士の連携が崩れる。そうなれば、敵はまだ物理的には残っていても、戦う力を失っていく。彼が重視したのは、相手の身体を先に壊すことではなく、相手の均衡を先に崩すことだった。

 この「均衡を崩す」という感覚は、彼を理解するうえでとても大切である。人間は、立っている時、自分でも意識しないまま重心を保っている。正面から押されると、踏ん張る準備ができる。しかし、横から少しずらされると、力の大きさは小さくても体勢が崩れることがある。戦略も同じである。大きな力を正面へぶつけるより、相手の重心を見つけ、そこをずらす方が効果的な場合がある。リデル・ハートの間接アプローチは、この身体感覚を戦争の理論にしたものだと言える。

 ただし、リデル・ハートは完全な聖人でも、いつも正しかった人物でもない。彼には強い自負があり、自分の理論がどれほど後世に影響を与えたかを大きく見せようとした面もある。とくにドイツの機甲戦や電撃戦との関係、ロンメル像の形成をめぐっては、後年の研究で批判も受けている。つまり彼は、ただ崇拝すればよい思想家ではない。むしろ、鋭い洞察と自己演出が同居した、二重の人物として読む必要がある。

 この二重性は、彼の弱点であると同時に、面白さでもある。思想家は、純粋な真理だけを運んでくるわけではない。自分が見たもの、自分が傷ついたもの、自分が認められたいものを、理論の形にして世に出す。リデル・ハートもそうだった。ソンムのような消耗戦への嫌悪、正面攻撃への疑い、機械化戦への期待、歴史から法則を取り出したい欲望、そして自分の影響力を歴史に刻みたい願い。これらが混ざって、彼の戦略論は作られている。

 だから、リデル・ハートを読むことは、単に戦車や戦争の歴史を知ることではない。もっと広く、力の使い方を考えることである。強く押す前に、どこを押しているのかを見る。勝とうとする前に、何を勝利と呼ぶのかを考える。相手を倒す前に、相手がなぜ耐えられるのかを理解する。正面から突破できない時、世界が閉じたように見える。だが、実際には正面しか見ていないだけかもしれない。リデル・ハートは、その視界の狭さに対して、別の角度からものを見るように促した思想家だった。

 彼を一言でいえば、戦争の中で「まっすぐ進むことの危うさ」を考え続けた人である。勇気を否定したのではない。力を否定したのでもない。彼が疑ったのは、勇気と力があれば正面から押し切れるという、あまりにも人間的な思い込みだった。重い扉の前で汗だくになっている時、少し離れて蝶番を見る。鍵を見る。壁の薄い場所を見る。そもそも、その部屋に入る必要があるのかを考える。リデル・ハートの思想は、その一歩引いた視線から始まっている。

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