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文学・思想の一丁目一番地
地裁の珍判決2 フライドポテト禁止裁判
第一章 被告人、フライドポテト
私は国選弁護人だ。胸を張って言うと聞こえはいいが、実態は「誰もやりたがらない案件の最後尾」を引き受ける係である。企業法務の世界なら、名刺を出した瞬間に先生先生と持ち上げられ、会議室の椅子はやたらと柔らかく、出てくるお茶も高級になる。だが国選は違う。机は固い。書類は重い。依頼人はだいたい理不尽で、たまに完全に意味不明だ。そして今日、私は意味不明の上澄みをすくうことになった。
徳島地方検察庁――略して徳島地検が、フライドポテトを訴えた。
聞き間違いではない。企業ではない。店舗でもない。人間でもない。フライドポテト、そのものだ。紙の上では「被告人」となっている。被告“人”と書いてあるのに中身は揚げ芋である。法が泣くとか笑うとか以前に、まず言葉が困っている。
事件記録の表紙を開いたとき、私は条件反射で閉じかけた。手が勝手に「はい、これ無理」と言っている。国選にも、断る権利は一応ある。精神的に耐えられないとか、特別な事情があるとか、そういうやつだ。今回ばかりは、特別な事情がありすぎる。事件名に油の匂いがする。いや、匂いどころか脂が書類から滲み出ている気がする。
罪状は「県民を太らせた罪」。
起訴状は真顔で書いてあった。ふざけていない。むしろ真剣さが怖い。人は本気になればなるほど面白くなる、という最悪の真理がここにある。検察はこう主張する。徳島県民はフライドポテトの過剰摂取により肥満化し、医療費が増え、社会の健全性が損なわれた。フライドポテトはその嗜好性により自制心を麻痺させ、県民を“選択できない状態”に追い込んだ。ゆえに責任を負うべきである――。
私はため息をついた。理屈としては、あまりにも大きい話を、あまりにも小さい犯人で説明しようとしている。世界を救うにはポテト一本で十分、みたいな顔をしている。しかも検察という国家の顔で。
だが、もっといやらしいのは、徳島には「県民健康保護特別条例」がある、ということだった。私は記録の中でその条文を見つけた。名称からして、すでに悪い予感しかしない。そこには、こう書かれていた。「県民の健康を著しく害するおそれのある高嗜好性食品について、当該食品の提供者及び当該食品自体に対し、必要な措置を命ずることができる」。食品“自体”って何だ。食品に命令するのか。芋に向かって「おまえは反省しろ」と言うのか。条例って、そんな自由だったっけ。
それでも、条文が存在している以上、手続きとしては裁判の形をとれてしまう。法は、外から見れば賢そうな顔をしているが、内部は案外「書いてあることしかできない」ロボットだ。たとえ内容が、フライドポテトに自白を迫るような条文でも、書かれていれば動く。その結果がこれだ。
私はコーヒーを口に運んで、ぬるい苦味で現実を確認した。さて、どうする。普通なら断る。断って、別の国選に回す。私は今まで何度もそうしてきた。私は善人ではない。むしろ、自分の時間を守る能力だけは高い。国選だからといって人生を削る趣味はない。削るなら芋だけにしてほしい。
だが、ページをめくるごとに、変な背筋の寒さが増していった。
この起訴は、ただの健康キャンペーンではない。証拠の並べ方が、妙に組織的だ。統計資料、医療費の推移、学校検診の記録、県議会での議事録、報道機関への説明資料。しかも時系列が整っている。つまり、事件が起きたから動いたのではなく、動くために事件を作った可能性がある。いや、可能性どころか、その匂いが濃い。油より濃い。
さらに悪いことに、世間はこの手の話が大好きだ。「太りすぎ」「健康」「依存」「悪い食べ物」。みんな正義の衣装を着て石を投げられる話題だ。被告が人間ならまだ同情の余地もある。だが被告がフライドポテトとなると、同情する側がバカに見える。だから世論は容赦しない。安全に叩けるサンドバッグ。最高だ。
私は書類を閉じた。いったん閉じた。閉じることで、世界から距離を取れると思ったのだ。だが無理だった。頭の中に「油禁止」の四文字が焼き付いている。検察の求刑案だ。フライする時は油の使用を禁止する。つまり、揚げるなと言っているのと同じだ。フライドポテトをフライドポテトでなくせ、と言っている。定義を殺す求刑。言葉を殺す判決の予告。これは、食品裁判の顔をした文化戦争だ。
私は上司――というほど立派な存在ではないが、国選の割り振りを担当する事務官に電話をかけた。「この件、私は外れます。無理です」。彼は驚くほど淡々と、「理由は」と訊いた。私は一瞬迷い、正直に言った。「フライドポテトが被告だからです」。沈黙があった。少し笑いが混じったような気もした。しかし彼は記録を確認し、「…確かに被告人はフライドポテトですね」と言った。淡々と。そこが一番怖かった。
電話を切って、私は事務所を出た。冬の空気が刺さる。徳島の街は静かだ。川の匂いと、遠くの店の揚げ物の匂いが混ざっている。歩きながら、私は自分の言い訳を反芻した。断って当然。こんな裁判、誰がやっても同じ。勝てるわけがない。そもそも勝つ負ける以前に、成立しているのがおかしい。だから私は正しい。そう言い聞かせていた。
そのとき、背後から声がした。
「先生、ちょっと、待ってください」
振り返ると、男が立っていた。三十代後半くらい。背は高くないが、姿勢が妙に整っている。作業着ではない。スーツでもない。どこか工場の人間っぽいのに、道具を持っていない。顔つきは疲れているが、目だけが真剣だった。私は反射で「どちらさまですか」と訊いた。国選弁護士の習性だ。まず相手を分類しないと怖い。
「フライドポテトの……フライヤーのエンジニアです」
私は眉を上げた。フライヤー。飛ぶ方ではない。揚げる機械の方だ。そんな専門職がいるのか、と言いかけて、世の中には何でもいるのだと思い直した。私は小説家じゃないが、人生はだいたいジャンル混在で進む。
「今回の裁判、先生が弁護人だって聞きました」
「違います。断りました」
私はできるだけ短く言った。相手に余計な期待を持たせないためだ。国選は、期待を持たせた瞬間に地獄が始まる。依頼人の絶望を引き受ける仕事だから。だが男は引かなかった。
「お願いです。断らないでください。油禁止になったら、終わるんです」
「……何が」
「フライヤーが。仕事が。店が。あと、フライドポテトが」
最後だけ妙に悲壮だった。私は笑いそうになった。ポテトが終わる、という言い回しが面白すぎる。だが彼は笑っていない。むしろ、笑えないからここにいるのだ。
男は続けた。「フライドポテトは、バーガー屋だけじゃないんです。給食も、屋台も、病院の売店も、駅の売店も。冷凍の工場も。フライヤーは、温度と時間の管理が生命線で、油の循環や安全基準もあって……油が禁止されたら、技術的に成立しません。油なしで揚げる? それは揚げじゃない。別の料理です。だから油禁止は、実質的にフライドポテトの禁止です。禁止を“禁止”と言わずにやる手口です」
私は黙って聞いた。理由は簡単だった。彼の言葉が、バカげた裁判に初めて“現実の人間”を連れてきたからだ。私は今まで、フライドポテトを被告として眺めていた。紙の上の被告。笑える被告。だが、この男の生活は、紙の外にある。油禁止が決まれば、彼の仕事がなくなる。生活がなくなる。笑いの外にいる人間が、笑いの中に巻き込まれて焼け死ぬ。
私は思った。これが、国選の意味ではないか。無辜の人間が、制度の狂気に巻き込まれるとき、誰が止める。企業法務なら、契約書を綺麗にして終わりだ。だが国選は、綺麗にできないものを扱う。世の中の汚れの方。笑えない冗談の方。
私は男に言った。「あなた、名前は」
「……名前は山名です。山名啓介」
変な偶然だ。山名、山田。山が続く。嫌な予感がする。私は手袋の中で拳を握った。まだ受けるとは言っていない。言っていないのに、もう足が少しだけ重くなっている。人は、決める前から負け始める。
「山名さん。私は一度、断った。だからあなたが止めても無理かもしれない」
「それでも、お願いします。先生しか――」
「先生って呼ばないで。まだ何もやってない」
言った瞬間、私は自分で嫌になった。先生と呼ばれたいくせに、呼ばれると腹が立つ。人間ってほんと面倒だ。私は冷たい空気を吸い込んで、肺の中で整理した。ここで帰れば楽だ。帰ってコーヒーを飲んで、別の事件の書類を開けばいい。だが、それは逃げだ。しかも、逃げた先がまた別の地獄という、いつものやつだ。
私は視線を上げた。遠くに裁判所の建物が見える。あそこが、次に“珍判決”を生む場所になる。誰かが止めないと、あの条例は「食品も被告にできる」という前例になる。そうなった瞬間、世界はゆっくり狂う。今日はポテト、明日はラーメン、明後日は白米。県民を太らせた罪、糖を上げた罪、幸福にしすぎた罪。正義の皮を被った規制が増えていく。私は笑いながら、それを怖いと思った。
私は男に言った。
「分かった。明日、担当の事務官に連絡して、戻せるか確認する。戻せたら受ける。戻せなかったら……そのときは別の弁護士を探す。それでも、できることはする」
男の顔がぱっと明るくなった。希望というやつは、簡単に人を救う。だからこそ危険だ。最後に奪われたときの落差がすごい。
「ありがとうございます、先生」
「だから先生って呼ぶなって」
私は軽く睨んでみせたが、内心ではもう半分、覚悟していた。国選弁護士としての、変な矜持という名の呪いが、背中から這い上がってくる。こういう無辜の人を助けるために国選をやっているんじゃないか。言うと綺麗すぎて気持ち悪いが、たぶん本音だ。
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