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地裁の珍判決3 幸せ禁止裁判

第一章 国選、徳島、幸せの罪

国選弁護人に選任する、という通知は、だいたいいつも紙の白さだけが元気だ。中身はたいてい黒い。今回も例に漏れず、封筒の中から出てきた文字は、こちらの生活を平然と食い散らかす気満々だった。

事件名――「幸せ禁止事件」。

いや、待て。今、私は自分で声に出して読んだのか? 読んだな。笑いが喉の奥まで来た。そこで止めた。ここで笑うと、後で必ず痛い目を見る。法律家の直感というやつは、だいたい遅れて効く毒を嗅ぎ分ける。

徳島地方検察庁が起訴した、とある。徳島地検。地方ののどかな役所、というイメージは今日で捨てる。起訴状の一行目が、すでに世界を焼き払う勢いだった。

「県民に限らず人類は幸せを追い求めることでかえって不幸になってきた。幸せは存在せず、幸せとは不在によって知覚される。」

何だこれは。哲学サークルの新歓資料か。宗教団体のチラシか。あるいは夜中のSNSか。なのに署名は「検事」。しかも公印まで押してある。現実が一番ふざけている。

続く文が、さらに気持ち悪いくらい丁寧だった。

「我々は不在の幸せを追い求めることで血と汗を無駄に流してきた。これは許せない罪である。よって、徳島地方検察庁は幸せ、またはそれに準ずる文言を禁止するべきだとする。」

罪? 何の罪だ。幸福追求罪? 幸せ未遂罪? そんな条文は聞いたことがない。もちろん、刑法にも特別法にも、どこにもない。だからこそ嫌な予感がした。条文がないのに起訴できる理屈を、彼らは作ってしまったということだ。

私は紙をめくった。争点の欄が、まるで“こちらが言い逃れできないこと”を先回りして書き込んである。

憲法第十三条。

「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」

幸福追求。公共の福祉。いつもは、ほどよく曖昧で、ほどよく強い言葉だ。使い方を誤ると、なんでもできてしまう。万能な刃物は、使う側の倫理が落ちた瞬間に、ただの凶器になる。

今回は、その万能感を、地検が握っている。

「幸福追求は公共の福祉に反する。よって制限される」

ここまでは、まだ理解できる。たとえば他人を踏み台にする幸福追求なら、制限されるべきだ。だが徳島地検は、そこからさらに一段ギアを上げている。

「幸福追求そのものが人類を不幸にした。よって“幸せ”を禁ずる」

つまり、権利を守るための条文を、権利を潰すための根拠に使う。皮肉の精度が高すぎて笑えない。

私はペンを取って、余白にメモを書いた。癖だ。怖い文章ほど、手で触って小さくしておかないと、頭の中で巨大化して暴れ出す。

――争点:13条「幸福追求」=権利。公共の福祉=制限根拠。ただし万能ではない。

――地検の狙い:幸福追求を“害悪”へ置換して、公共の福祉にぶつける。

――最終的にやりたいこと:言葉の封殺(辞書・公的場)。

そこで、ふと、相手の名前が目に入った。担当検事――山田。

ああ、山田か。山田は厄介だ。人間としては良いのに、敵としては最悪のタイプ。人を殴る時に、殴ったあとハンカチを渡してくるようなやつ。しかも今回の山田には肩書きがついていた。

「徳島地検四天王の一人、仏の山田」

四天王って何だよ。地検が自分たちで名乗るものじゃないだろ。と思ったが、括弧書きで「報道上の通称」とある。つまり、もうメディアが好き放題つけて、本人も否定していない。やばい。こういうのは、本人が“良い人”であればあるほど厄介だ。正義の顔をした圧力は、いちばん効く。

さらに、経歴。

「かつて僧門に所属し、現在は検事」

宗教経験者が司法の側にいる。それ自体は悪いことではない。だが今回の理屈は、法律というより“救済の論理”に見える。救うために禁ずる。守るために奪う。人の心の脆さを材料にして、社会を正す――そういう匂いがした。

私は通知書を机に置き、椅子に深く座り直した。国選弁護というのは、ありがたい制度だ。金がない人にも弁護をつける。そういう建前は立派だし、実際に必要だ。だが現実の国選は、こっちの生活と精神を削ることで社会の良心を維持している。つまり、私が削られる。いつも通りだ。

ただ、今回は削られ方が違う。

通常、国選は「事実」と「法」だ。やったか、やってないか。やったならどの程度か。法的評価はどうか。そういう地面の話になる。ところが今回は、地面がない。幸せが存在するかしないか、という空中戦から始まっている。しかも検察が、空中戦を勝つ気満々で来ている。

私はスマホを見た。ニュースがすでに立っていた。

『徳島地検、幸福追求の危険性を提起 「幸せ禁止」めぐり起訴』

提起じゃない。起訴だ。提起は大学の講義でやれ。社会実験を法廷に持ち込むな。

コメント欄を開くのはやめた。人類の意見を直視して正気を保てるほど、私は強くない。そういう無駄な勇気は、法廷で使う。

代わりに、憲法13条をもう一度読んだ。条文はいつも冷たい。冷たいのが良い。熱くなると、人が死ぬ。

「最大の尊重を必要とする」

ここが武器だ。こちらは感情では勝てない。幸せビジネスの被害や、SNSの比較地獄や、疲弊や、そういう話は検察の方が得意だ。被害者が泣く。傍聴席がうなずく。テレビが編集で“正義”を作る。地検の“仏”が、穏やかな声で「禁ずるのは救いです」と言う。それで空気が固まる。

だから私は、条文の冷たさを盾にするしかない。公共の福祉は確かに強い。だが、強いからこそ、使い方に制限が要る。公共の福祉を持ち出せば何でも禁止できるなら、憲法はただの飾りだ。権利は“気分次第で取り上げていいもの”になる。

そして、地検がやろうとしているのは、禁止の対象が“行為”ではなく“言葉”だという点で、さらに悪質だ。

幸せを求める行為を規制する――まだ議論になる。たとえば詐欺的な自己啓発や悪質商法を取り締まるのは正しい。だが「幸せ」という言葉そのものを公の場で禁じ、辞書から消す。これは、思想や感情の領域を、言語という入口から締め上げるやり方だ。入口を塞げば、中身まで管理できると思っている。管理できると思っているやつが一番危ない。

私はメモを続けた。

――幸せは“存在しない”なら、禁止できるのは現象ではなく語。

――語を禁ずる=運用は恣意的。準ずる語が無限に広がる。

――「公共の福祉」は無限拡張カードではない。

書いていて気づく。これは、笑い事の形をした災厄だ。

ふと、国選名簿の紙に視線が落ちた。私の名前の横に、「選任理由:公平の観点」とある。公平。いい言葉だ。だが公平というのは、だいたい当事者にとっては“等しく痛い”という意味になる。私は平等に痛い役を引いた。

翌日の予定欄に、私は太字で書き込んだ。

「徳島地裁 初回接見 起訴状精読 山田対策」

山田対策。自分で書いて笑いそうになった。相手は検事だ。野良犬じゃない。対策というより、覚悟だろう。

窓の外は、冬の光だった。明るいのに寒い。徳島がどんな町か。阿波踊りと鳴門の渦潮くらいしかない。だが次に徳島を思い浮かべる時、私はきっとこう思う。

――幸せを禁止しに来た町。

その瞬間、胸の奥で小さく何かが鳴った。嫌な音だ。でも、逃げる選択肢はない。国選は、断れば次の誰かが削られるだけだ。なら私が行く。どうせ削られるなら、せめて言葉は残す。

「幸せ」を守るためじゃない。

「幸せ」を禁じるという、あまりにも雑で、あまりにも人間くさい暴力に、司法が加担するのを止めるためだ。

私は通知を封筒に戻し、鞄に入れた。準備は、ここからだ。仏の山田が優しい顔で刃を差し込んでくるなら、こちらは冷たい条文で受け止める。熱で戦えば負ける。冷たさでしか守れないものがある。

口の中で、小さくつぶやいた。

「……幸せってなんだろう」

幸せが存在しないなら、禁止もできない。

なのに禁止する。

――それをやるのが人間だ。

人間は、追い求めることで不幸になる。

その不幸を、さらに禁止で増やす。

たまらない。ほんとに、たまらない。

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