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表現の自由ってなに? 哲学用語シリーズ15
第1章 表現の自由ってなに?
「表現の自由」という言葉を聞くと、多くの人は「好きなことを言っていい」「何を書いてもいい」というイメージを持つだろう。しかし、それはこの概念のほんの表面にすぎない。表現の自由とは、単に“発言の自由”ではなく、人間が人間であるための根本的な行為――「内なる世界を外へ出す権利」なのだ。
たとえば、誰かが怒っているとき、泣いているとき、恋をしているとき。その感情は、心の中に閉じ込めておくこともできる。しかし多くの場合、人は言葉にしたり、絵に描いたり、音にしたりして外へ出す。そこには「伝えたい」「わかってほしい」という欲求がある。表現とは、心の中の“かたちのないもの”を、何らかの形で世界へ翻訳する営みだ。
この翻訳行為は、人間だけがもつ特別な能力でもある。動物も鳴き声や動作で意思を伝えるが、それは直接的であり、象徴を介した「創造的表現」とは異なる。人間は、言葉や芸術を通じて、現実にない世界を描き出すことができる。つまり、表現とは「現実の外にもうひとつの世界を作ること」でもある。そこには創造の喜びがあり、同時に社会との摩擦も生まれる。
なぜなら、表現には「誰かを刺激する力」があるからだ。自分にとってはただの感情の吐露でも、他人にとっては攻撃や侮辱と感じられることがある。芸術や思想の歴史を振り返れば、常に「何をどこまで表現していいのか」という境界線が議論されてきた。宗教画の描き方、政治的な風刺、性や暴力の描写――そのどれもが時代によって許容されたり、禁止されたりしてきた。
では、なぜ人間はそれでも「表現の自由」を求め続けるのだろうか? それは、表現の自由が「思考の自由」とつながっているからである。考えることと表現することは、実は分離できない。言葉にしないと、考えは形にならない。絵に描かないと、イメージは霧のように消えてしまう。もし人が「考えることは自由だが、表現してはいけない」と言われたら、やがて考えることそのものをやめてしまうだろう。
哲学者ジョン・スチュアート・ミルは、『自由論』の中でこう述べた。「人が自由に意見を述べられない社会では、真理もまた死ぬ」と。つまり、私たちが自分の意見を言えるということは、間違う自由も持っているということだ。誤りを恐れて沈黙する社会では、真理に近づくこともできない。表現の自由とは、単なる「勝手にしゃべる権利」ではなく、「間違いを通じて学ぶ権利」でもあるのだ。
また、表現の自由は「社会と個人のあいだの緊張関係」でもある。社会は秩序を守るために、一定のルールを設ける。暴力的な扇動やデマ、名誉を傷つける発言などは制限されることがある。しかし、もしそのルールが過度に強くなれば、人は自分の意見を出せなくなる。国家や企業、メディアが「この考えは危険だ」と判断し、排除を始めると、社会はゆっくりと息苦しくなる。表現の自由がある社会とは、逆にいえば「異なる考えを許す余裕のある社会」なのだ。
たとえば、アメリカ合衆国憲法の第一修正は「言論・出版・宗教の自由」を明記している。これは世界中の民主主義のモデルになったが、その背景には「政府が市民の考えを検閲することへの恐れ」がある。権力をもつ者は、常に「都合の悪い意見」を封じようとする。だからこそ、表現の自由は“個人の武器”であり、民主主義の根幹でもある。
日本国憲法21条も、「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」と定めている。しかし現実には、社会的圧力や空気が、法律以上に人の口を塞ぐことがある。法律があっても、空気がそれを許さないなら、実際の自由は存在しない。つまり、表現の自由とは「制度上の問題」であると同時に、「文化の成熟度を測る物差し」でもあるのだ。
たとえば、漫画やアニメ、音楽、映画などに対して、「これは子どもに悪影響を与える」「不快だ」といった理由で表現が規制されることがある。だが、「不快だから禁止する」という考えは、危険な前例をつくる。何が不快かは人によって異なるからだ。もし社会が「誰かが不快に思うものはすべて排除する」と決めたら、残るのは“誰にも刺さらない無色透明な表現”だけになってしまう。そうなれば、芸術も思想も死ぬ。自由な表現とは、他人を不快にさせる可能性をも含んだ、きわめて脆く、しかし尊い権利なのである。
一方で、表現が完全に無制限でよいかといえば、そうではない。誰かを狙って傷つけるようなヘイトスピーチや、虚偽の情報を流して人を陥れる行為は、「自由」ではなく「暴力」に近い。表現の自由を守るには、他者の自由を侵さないという最低限の倫理が必要だ。つまり、自由とは責任とセットで成立する。これは「何を言ってもいい」という免罪符ではなく、「なぜそれを言うのか」を問う自由でもある。
私たちが現代に生きているということは、常に「誰もが発信者である時代」にいるということでもある。SNSでつぶやく、動画を投稿する、ブログに意見を書く――その一つひとつが表現であり、同時に責任を伴う行為だ。インターネットは自由を拡張したが、同時に「暴力的な言葉の洪水」も生んだ。だからこそ、今の時代には「表現の自由とは何か」を改めて哲学的に考え直す必要がある。
表現の自由は、ただ国家や法律に守ってもらうものではない。社会の中で、そして一人ひとりの心の中で、絶えず更新され、鍛えられていくべきものだ。誰かが表現の自由を主張したとき、それをすぐに「けしからん」と切り捨てる社会は、やがて自分自身の表現の自由をも失うだろう。
だからこそ、「表現の自由ってなに?」という問いは、実は「人間とはなにか?」という問いと同じなのである。人は言葉を失えば、存在の輪郭さえ曖昧になる。言葉をもって世界と関わり、自分の内面を外へ送り出すこと――それが生きるということの根幹にある。表現の自由とは、単なる政治的権利ではなく、「人間であり続けるための自由」なのだ。
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