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一般意志ってなに? 哲学用語シリーズ20

第一章 一般意志ってなに?

「一般意志」という言葉を最初に聞いたとき、多くの人は首をかしげるだろう。「意志」とは誰の意志なのか? それは国家のものなのか、それとも国民全体のものなのか。あるいは、誰のものでもない、抽象的な理念なのか。フランスの哲学者ジャン=ジャック・ルソーが『社会契約論』(1762年)でこの言葉を提示したとき、それは単なる政治理論ではなく、「人間はいかにして自由なまま社会の中で生きられるか」という根源的な問いへの答えだった。

ルソーは、人間は生まれながらにして自由であるが、いたるところで鎖につながれている、と書き出す。この「鎖」とは、社会が人間に課す束縛のことだ。人は社会の中で他人と関係を結び、法や制度に従って生きる。だが、その中で自分の自由を失ってしまうのなら、なぜ人は社会に属さなければならないのか。ルソーはこの矛盾を解決するために、「社会契約」という考えを打ち立てた。つまり、すべての個人が自らの意志で契約を結び、みんなの共同体をつくる。そのときに成立する「全員の意志」を、ルソーは「一般意志」と呼んだ。

一般意志とは、単なる「多数の意見」ではない。多数決で勝った側の意見が正しいというのではなく、すべての人が「公共の善(共通善)」を目指すときに生まれる、理性的で普遍的な意志のことだ。人はみな自分の利益を考える「特殊意志」を持っている。だが、社会の中で生きる以上、個々の利益を超えた「全体の幸福」も意識しなければならない。ルソーにとって、一般意志とはこの「全体の幸福」を志向する心のあり方であり、国家の正当性を支える原理でもあった。

ここで重要なのは、ルソーが「自由」と「服従」を対立させなかったことだ。一般的に、他人に従うことは自由の喪失を意味する。だが、ルソーにとっては違った。彼にとって、もし人が「自分が属する共同体の法」に従うなら、それは「自分自身に従うこと」でもある。なぜなら、その法は自分も含めた全員が合意した「一般意志」に基づいているからだ。したがって、一般意志に従うことは他人に服従することではなく、「自らが自らに課したルールに従う」ことになる。これがルソーの有名な逆説、「一般意志に服従する者は自由である」の意味である。

この考えは一見すると理想的すぎるように思えるかもしれない。なぜなら、実際の人間社会では、人々が常に「共通善」だけを考えて行動するとは限らないからだ。私たちは日々の生活の中で、自分の利益や感情、好き嫌いによって判断する。税金をもっと下げてほしい、公共事業より自分の給料を上げてほしい、そんな欲求も「意志」には違いない。ルソーはそのような個人的な利害を「特殊意志」と呼んで区別した。もし社会が特殊意志ばかりに従えば、国家は分裂し、富める者が貧しい者を支配するような不正義が生まれる。だからこそ、全員が「自分の利益を超えたところで社会の幸福を考える」必要がある。それが一般意志の精神である。

一般意志は、単なる「みんなの平均的な意見」でもない。ルソーが言う「一般」とは、統計的な「全体」ではなく、「普遍性」のことだ。つまり、特定の階級や集団、地域や宗派に偏らない、全員にとって正しいと考えられる方向を指す。たとえば、法律をつくるときに「誰にとっても公平であるように」と考えるのが、一般意志的な発想である。自分にとって得か損かではなく、「このルールが全員に適用されても受け入れられるか?」という視点を持つこと。これは今日の民主主義や人権思想にも通じる原理だ。

しかし、この「一般意志」は非常に危うい概念でもある。なぜなら、「一般意志」を名乗れば、誰でも「これはみんなのためだ」と主張できてしまうからだ。歴史を振り返れば、国家が「国民全体の意志」を掲げて個人を抑圧した例は数多くある。ルソー自身はそのような抑圧を望んでいなかったが、彼の思想がのちに全体主義的な政治思想に利用されたことは否定できない。だからこそ、一般意志を理解するには、「誰がそれを代表するのか」という問いを避けてはならない。ルソーにとっての理想は、誰か一人の指導者や少数のエリートが「一般意志」を代弁することではなく、すべての市民が「一般意志を共有する主体」として政治に参加する社会だった。

一般意志の核心には、「共通善」への信頼と「市民の成熟」への期待がある。人々が自分の欲望を少し抑え、他者とともに生きる世界を思い描けるなら、一般意志は成立する。しかし、人々が分断し、利害の対立が激しくなれば、一般意志は見えなくなる。現代社会でしばしば語られる「世論の分断」や「ポピュリズムの台頭」は、このルソー的理想が崩れた状態のひとつの現れかもしれない。

 では、私たちは一般意志をどのように取り戻せるのだろうか。それは単に「みんなが同じ意見を持つこと」ではない。むしろ、多様な意見がありながらも、「自分の意見が間違っているかもしれない」と認める謙虚さの中に、一般意志の萌芽はある。公共の利益を考えようとする姿勢、他者の自由を尊重しながら自分の自由を実現しようとする態度。それこそが、現代に生きる私たちがルソーの「一般意志」から学ぶべき倫理である。

ルソーが『社会契約論』で求めたのは、完璧な国家でも、全員が一致する社会でもなかった。彼が求めたのは、「自由な個人たちが、互いを尊重しながら共に生きられる仕組み」だった。そのためにこそ、人々は「一般意志」という名のもとに結び合わなければならない。つまり、一般意志とは外から押しつけられるものではなく、内から湧き上がる「共に生きたいという意志」なのである。

一般意志は政治学の概念であると同時に、倫理の問題でもある。それは、国家の仕組みを考えるだけでなく、日常の中で「他人のために行動するとは何か」「自分の幸福と社会の幸福はどう結びつくのか」を問う言葉だ。ルソーの時代から二百年以上が経ったいまも、この問いは色あせない。なぜなら、どれほどテクノロジーが進んでも、人間が共同体をつくり続ける限り、「一般意志」という理想は、私たちの社会を支える目に見えない軸として生き続けているからだ。

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