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唯心論ってなに? 哲学用語シリーズ21

第1章 「世界って、ほんとに外にあるの?」

いきなり変なことを言うけど、あなたが今「世界」を見ているとして、その世界は本当に“外側”にあるんだろうか。机、スマホ、窓の外の空、遠くの車の音、腹の減り、眠気。ぜんぶ確かにある感じがする。いや、感じがするどころか、あるとしか思えない。ここで一歩引いて、「ある」と言っているのは何なのかを、いったんバラしてみよう。

まず、あなたが直接つかんでいるのは、目に入ってくる色や明るさ、輪郭、動きだ。耳には音、鼻には匂い、舌には味、皮膚には触れた感じ。もっと言えば、痛みや熱さ、だるさ、焦り、安心、そういう内側の出来事も混ざっている。これらは全部、あなたの“経験”として起きている。経験は確実だ。少なくとも「いま、こう感じている」という事実だけは否定しづらい。誰かに「そんなふうに感じてないよ」と言われても、感じている側からすると「いや、感じてるし」としか言えない。

ここで、よくある反射的な返事が出てくる。「当たり前だろ、外に世界があるから感じるんだ」と。もちろん、普段はそれで困らない。むしろその前提があるから生活が成立する。机に手を伸ばせば触れる。熱い鍋に触ると痛い。赤信号で止まる。人と話す。ぜんぶ“外側の世界”が安定して存在しているからできる。だけど哲学は、生活を壊すために疑うんじゃない。生活の土台になっている前提を、どこまで正当化できるかを調べる。つまり「外に世界がある」は便利な前提だけど、それは“証明済みの事実”なのか、それとも“うまくいく仮定”なのか、そこを区別しようという話だ。

たとえば夢。夢の中でも、あなたは世界を見ている。街があり、人がいて、音がして、体があって、物を持てたり走れたりする。夢の中のあなたは、たいていそれを疑わない。疑わないどころか、怖がったり喜んだり、本気で反応する。目が覚めた瞬間、「ああ夢だった」と思う。ここで厄介なのは、夢の“内部”にいる時点では、それが夢だと見抜くのが難しいという点だ。つまり「いま見えている世界が外にある」という確信は、夢の中でも成立してしまう。確信が成立することと、本当に外にあることは、別問題になってしまう。

錯覚も同じだ。まっすぐな線が曲がって見える図、同じ色なのに違って見える図、止まっているのに動いて見える図。目は嘘をつく、というより、目は“解釈”をしている。脳は、入ってきた情報をそのまま写真みたいに保存しているわけじゃない。必要な形にまとめて、補って、予測して、「こういう世界だろう」と素早く推定している。だから私たちは、世界を“受け取っている”というより、“作り上げている”側面がある。ここまで来ると、外側の世界があるかないか以前に、私たちが普段「世界」と呼んでいるものが、すでに心の働きと絡み合っていることがわかる。

さらに今っぽい例でいけば、VRやARだ。ヘッドセットをかぶって、仮想空間で高いところに立たされると、足がすくむ。理屈では床が安全だと知っていても、体は反応する。これは「現実だから反応する」ではなく、「現実っぽく経験されるから反応する」に近い。経験の説得力は、対象が外にあるかどうかと、ズレる。説得力は、経験の構造から生まれる。つまり「外にある」ことは、経験の中に直接は書いてない。

じゃあ、外の世界なんてないのか。ここで急に結論へ飛ぶと、読者は置いてけぼりになる。今日は結論を急がない。大事なのは、問いを正しく立てることだ。「外に世界があるか?」という問いは、実は二段階に分かれている。第一に、私たちは何を根拠に「外」を言っているのか。第二に、その根拠はどれくらい強いのか。この二つを混ぜると、すぐケンカになる。「あるに決まってるだろ」対「いや全部幻想だよ」の殴り合いだ。哲学は殴り合いではない。少なくとも本書では、相手の拳を避けながら、論点をきれいに机の上に置き直す。

そこで、ひとつの確かな出発点を作ろう。それは「経験は起きている」という点だ。何かが見える、聞こえる、感じる、考える。これ自体は否定しにくい。デカルトの有名な発想に近いが、ここでは難しい話は脇に置く。とにかく、あなたの意識の中で出来事が起きているのは確かだ。問題はその出来事が、外の物によって引き起こされているのか、それとも意識の側が自前で編成しているのか、あるいは両方が絡んでいるのか、そこだ。

「外の物が原因だ」と言いたくなるのは自然だ。だって、目を閉じれば見えないし、耳をふさげば音が減る。体の状態が変われば味も匂いも変わる。薬で気分が変わる。睡眠不足で世界が暗くなる。こういう事実は、外の世界と身体が、経験に影響している証拠に見える。実際、科学も医療も、そういう前提で大成功している。だから唯心論が出てくると、「そんなの現代では無理だろ」と思うのも自然だ。けれど唯心論は、科学を否定するために登場したわけじゃない。むしろ、科学が扱っている“物”が、そもそもどんな意味で物なのか、そこに踏み込む。つまり、科学がうまくいくことと、世界が心と独立に存在することは、同じ話ではない、と言い始める。

ここでひとつ、日常の感覚が持っている強い武器を紹介しよう。それは「みんな同じ世界を見てる」という直感だ。あなたが机を見る。隣の人も机を見る。「そこに机があるね」と一致する。だから机は外にある。これもまた、普段は十分強い。しかし哲学的に見ると、この一致は“経験の一致”であって、外側の物そのものを直接つかんでいるわけではない。あなたが見た机の色と、隣の人が見た机の色が、本当に同じかはわからない。名前が同じなだけかもしれない。さらに言えば、隣の人が本当に同じように経験しているか自体も、直接は確かめられない。あなたが確かめられるのは、隣の人が「机がある」と発言した、という出来事までだ。ここから「外に机がある」を導くのは、推論になる。

推論は悪ではない。むしろ人間は推論の動物だ。ただ、推論は推論として扱う必要がある。つまり「外に世界がある」は、絶対確実な事実というより、非常に強力で、生活と科学を支える、最良の説明である可能性が高い。問題は、哲学がそこでもう一段深く突っ込むことだ。「最良の説明である」から「世界は心と無関係に存在する」に飛べるのか。飛べないなら、どこまで言えるのか。ここで唯心論が顔を出す。唯心論は、経験の確かさに比べて、外の物の確かさは一段落ちる、と言う。外の世界は、経験から推論で立てた仮説にすぎない、と言う。あるいはもっと強く、外の物という考え方は不要で、心の側だけで世界を説明できる、と言う。

この章の目的は、唯心論を正しいと言うことではない。唯心論が出てくる“入口の扉”を見せることだ。扉はこう書いてある。「あなたが確実に持っているのは、心の中の経験である。外の物は、その経験の説明として立てたものではないのか?」この問いは、あなたの生活を壊さない。でも、あなたの世界観の足元にライトを当てる。床板の下に、配線が見える。普段は見えない配線だ。見えないままでも電気はつく。でも、配線の存在を知った瞬間、あなたは“ついている電気”を別の目で見るようになる。

次の章では、唯心論を一言で言い切る。なぜそんな立場が生まれるのか、何を主張して、何を主張しないのか。つまり、この扉をくぐった先の部屋の形を、まずは明るくしてみよう。

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