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加速主義ってなに? 哲学用語シリーズ23
第一章 加速主義って結局なに?
加速主義という言葉を聞くと、だいたいの人は二択に走る。「テクノロジー礼賛のイケイケ思想でしょ」と思うか、「資本主義をぶっ壊す過激派でしょ」と思う。どっちも半分当たりで、半分ハズレだ。加速主義はまず、気分の話ではなく見立ての話である。つまり「この社会はどんな仕組みで動いていて、どこに向かってしまうのか」を、わりと露悪的に、そして妙に冷静に眺める眼鏡の一種だ。人間の努力や善意で社会をちょっと良くする、みたいな絵を描くより、社会のエンジンそのものを見て「これ、ブレーキ壊れてない?」と確認する。確認したうえで、壊れているなら止めるより、むしろ加速させたほうが別の地点に到達できるのでは、という発想が出てくる。ここがまず厄介で、そして面白い。
加速主義の核は、「近代の社会には加速を生み出す仕組みが埋め込まれている」という観察にある。技術革新、競争、市場、効率化、最適化、ネットワーク化。これらは勝手に速度を上げる。誰かがアクセルを踏むというより、踏まないと置いていかれる構造がある。企業も国家も個人も、止まりたいのに止まれない。しかも速度が上がるほど、次の速度アップを要求される。たとえばSNSの流行やAIの普及を見れば分かりやすい。昨日の常識が今日は遅い。遅いものは不利になり、不利はさらに遅れを呼ぶ。そういう自己増殖するスピードが、現代の生活感覚の中に普通に住み着いている。加速主義はこの現象を「たまたま最近そうなった」とは捉えない。むしろ資本主義と近代技術の結合が、最初からそういう運命を持っている、と見る。
ここで誤解されがちなのが、加速主義=「とにかく速くしろ」というスローガンだ。実際は違う。加速主義は、加速がすでに起きていることを前提に、そこから何を引き出すかを考える思想群である。だから同じ「加速主義」という看板でも、目的は割れる。ざっくり言えば、右加速主義と左加速主義がある。右は「市場や技術の暴走は止めるな、むしろ突き抜けろ。人間中心主義も道徳も置いてけぼりにして、新しい秩序に変わるだろう」というテンションになりやすい。左は「加速の力そのものは現実に存在する。ならばそれを市場の気まぐれに任せず、公共の側が設計して、人間の生活が改善される方向に乗せ替えろ」というテンションになりやすい。どちらも“加速”を語るが、片方は破局や変異を美学として抱きがちで、もう片方は制度と計画を持ち込みがちだ。ここを混ぜると、加速主義はただの炎上ワードになる。混ぜる人が多いので、だいたいの議論は燃える。
では、なぜ「止める」ではなく「加速させる」なんて発想が出るのか。背景には、近代以降の改革の失速がある。社会を変える方法は、だいたい三つに分かれる。現状を少しずつ改善する、強い政治で方向を変える、根本的に仕組みを変える。どれも難しくなってきた。改善は遅く、政治は対立で止まり、根本改革は実装が地獄だ。こうして「手詰まり感」が広がると、別の道が魅力的に見えてくる。つまり、今のエンジンが勝手に加速しているなら、その加速を利用して、いったん極端まで行けば、今の仕組みが自壊し、別の仕組みに“切り替わる”のではないか、という想像だ。火事になった部屋で、火を消す手段がないなら、全部燃え尽きた後の空地に家を建てるしかない、みたいな投げやりな合理性がある。もちろん、燃え尽きる途中で人が死ぬ。だからこそ加速主義は危険で、魅力的で、そして議論を呼ぶ。
加速主義のもう一つの特徴は、人間の意思や道徳を中心に置かないところだ。近代の政治思想は「人間はこうあるべきだ」「社会はこうするべきだ」と言いがちだが、加速主義はむしろ「べき」を疑う。人間が望もうが望むまいが、システムは動き、技術は伝播し、資本は流れる。止めたつもりでも、止めた結果が別の加速を生むことすらある。たとえば規制を強めると、抜け道ビジネスが栄え、監視技術が伸び、結果として統制のための技術が加速する。善意の改革が、別の速度を増やす。こういう皮肉な循環を前にすると、「正しいからやる」だけでは足りない。「やった結果、何が加速されるのか」を見なければならない。加速主義は、倫理より先に因果を見る。冷たく見えるが、冷たさが武器になる局面がある。
ただし、ここで変にカッコつけると危険だ。加速主義は「現実を見ている」ふりをしやすい。だが現実を見るというのは、数字や技術の話だけではない。加速のコストも現実だ。格差、疲弊、メンタルの摩耗、環境破壊、戦争、監視。加速はいつも誰かに請求書を回す。その請求書を「仕方ない」で済ませるのは簡単だし、思想としては派手で気持ちいい。しかし、その瞬間に加速主義は哲学ではなく、ただの強者のポエムになる。だからこの本では、加速主義を信仰として扱わない。加速主義を、社会を理解するための道具として扱う。道具は便利だが、持ち方を間違えると手が切れる。切れてから「思想って難しいですね」とか言っても遅い。最初から注意するほうが賢い。まあ、賢さは売れないけど。
加速主義を理解する第一歩は、あなた自身の生活感覚を観察することだ。時間が足りない、情報が多すぎる、流行が速い、仕事や創作の基準が毎年更新される、昔のやり方が通じない。これらは個人の怠けではなく、社会の速度の反映である。速度はあなたの外側にありながら、あなたの内側に侵入してくる。焦りや疲れとして。加速主義は、その感覚を「気のせい」ではなく構造として言語化しようとする。だから加速主義は、現代の不眠症と相性がいい。眠れない人ほど、世界の回転数が見えるからだ。笑えないが、かなり当たっている。
では結局、加速主義とは何か。まとめるならこうなる。加速主義は、近代社会のエンジンが生む自己増殖的な速度を前提にし、その速度を止めるのではなく、利用し、転用し、ときに突き抜けることで、社会の形を変えようとする思想群である。右と左で方向は割れ、倫理の扱いも割れ、政治への接続も割れる。だから加速主義は一枚岩ではない。しかし共通しているのは、世界が「ゆっくり良くなる」物語を信じにくくなった時代に、スピードそのものを思考の対象にした点だ。ここから先は、その系譜と分岐を丁寧に見ていく。加速主義を賛美するためではなく、あなたが加速に飲まれず、加速を理解して使えるようになるために。もちろん、使えたからって人生が楽になるとは限らない。加速の世界は、そういう甘さを置いてきた。
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