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平和ってなに? 哲学用語シリーズ27
第一章 平和って、戦争がないだけ?
「平和」って言うと、多くの人は反射で「戦争がない状態」と答える。まあ分かる。爆撃も銃声もなく、ニュースで死者数が増えない。そういう日常はありがたい。だけど哲学の立場から見ると、この定義は便利すぎて危ない。便利すぎる道具って、だいたい指も一緒に切るからね。
まず、「戦争がない」という言い方は、平和を“何かが起きていない状態”として捉えている。哲学用語っぽく言えば「不在による定義」だ。病気じゃない=健康、みたいなノリに近い。たしかに直感的で分かりやすいし、政治や外交の場ではこの定義がしょっちゅう使われる。条約が結ばれた、停戦した、侵攻が止まった。よし平和だ、と言いたくなる。なぜなら、戦争は分かりやすい悪夢で、なくなった瞬間に“良くなった感”が出るからだ。
でも、ここで第一の疑問が湧く。戦争がないだけで、本当に平和と言っていいのか。たとえば、銃声はしないけど、街のあちこちで誰かが常に怯えている社会はどうだろう。表では静か、でも裏では暴力がある。あるいは、暴力というほど派手なものじゃなくても、生活が壊れていく仕組みが回っている。食べられない、住めない、働いても報われない。声を上げたら消される。こういう状態は「戦争」ではないかもしれないが、「平和」と呼ぶには抵抗がある。少なくとも「平和という言葉で隠していいのか?」という嫌な感じが残る。
つまり、「戦争がない=平和」という定義は、平和を“戦争の反対語”にしてしまう。すると平和は、戦争の影にぶら下がる概念になる。戦争が起きていないことだけを確認して、はい平和、と言ってしまう。けれどもそれは、平和の中身を問うことをやめる態度でもある。哲学はここで嫌味を言う。「あなたの平和、薄くない?」と。
ここで整理したいのは、「戦争」と「暴力」と「平和」の関係だ。戦争は暴力の一形態で、しかも国家や集団が組織立って行う大規模なものだ。だから戦争が止まれば、暴力の最大級の噴火が鎮まる。それは大きい。だが、暴力は戦争だけではない。個人の暴力、集団の暴力、制度の暴力、空気の暴力。殴らないけど追い詰める。殺さないけど壊す。戦争ほど派手じゃないが、人間の人生を確実に削るタイプの暴力がある。戦争がないのに人が壊れていくなら、その社会は「平和」というより「静かな損耗」に近い。
だから、「戦争がないだけか?」という問いは、「平和とは暴力がないことか?」という問いに広がっていく。ここでまた厄介になる。暴力がゼロの社会なんて可能なのか、という問題が出る。警察は暴力装置だと言われるし、法律は強制力を持つ。税金も強制。罰も強制。教育や文化の規範も、ときに人を縛る。暴力を完全に消すのは現実的じゃない。なら「平和=暴力ゼロ」も幻想になりかねない。じゃあ平和って何なの?はい、ここからが面倒で、そして面白いところだ。
哲学的には、平和を「暴力が完全にない状態」と置かない方が良い。なぜならそれは理想としては美しいが、現実に適用するとすぐ破綻するからだ。そうすると人はこう言い出す。「完全じゃないけど、まあ平和だよね」。この“まあ”が危険だ。曖昧な言葉は、権力側に都合よく使われる。「これでも平和なんだから文句言うな」となる。だから平和を考えるなら、「どんな暴力が許されず」「どんな強制が例外として認められ」「それをどう監視し」「どう修正するか」まで含めて定義しないといけない。平和は雰囲気ではなく、設計の問題になる。
もう一つ、平和を「戦争がない」だけで済ませると、戦争が起きた瞬間だけに関心が集まるという弊害が出る。戦争は起きてから止めるのが難しい。起きる前の段階で、憎悪や不信や資源の奪い合いが積み上がっていく。その積み上げを見ないで、「まだ戦争じゃないから平和」と言っていると、ある日いきなり破裂する。だから平和の定義は、予防のためにも重要だ。平和を“ゼロかイチか”で見ると、ゼロが続いている間に危険が育つ。
さらに言えば、「戦争がない」状態は、しばしば「勝者が支配し、敗者が沈黙する」状態でもある。停戦が成立しても、不満や屈辱が残る。国でも家庭でも会社でも、争いが表に出ないのは、解決したからではなく、言えないからかもしれない。表面が静かでも、内部が腐敗しているなら、それは平和というより、次の争いの準備期間だ。だから「争いがないこと」と「平和」は同じではない。争いがないのは、話し合いがうまくいっているからかもしれないし、話す権利が奪われているからかもしれない。
ここまでの話を一回まとめると、第一章で言いたいのは単純だ。「平和=戦争がない」は出発点としてはいいが、到着点にしてはいけない。出発点にする理由は分かりやすいからだ。読者はまずそこから入る。だが到着点にしてしまうと、平和という言葉が“口をふさぐ道具”になる。「戦争じゃないんだから平和だろ」という圧力が生まれる。背景には、言葉が政治的に使われる現実がある。平和は美徳の顔をしている分、相手を黙らせる力が強い。「平和のために我慢しろ」「平和のために従え」「平和のために疑うな」。こういうフレーズが出たら、だいたい裏で誰かが得をしている。そこに哲学の出番がある。平和という言葉を、ただの飾りから引きずり下ろして、条件と構造として再定義する必要がある。
この章では、平和をめぐる最初の足場として、「不在の平和」の限界を見た。次の章では、もう少し踏み込んで、「戦争がない」だけの平和を「消極的平和」と呼び、それとは別に「積極的平和」という考え方が出てくる理由を扱う。言い換えれば、平和を“事故が起きてない状態”から、“安全に暮らせる設計”へと押し広げる。その方が、綺麗事に見えて実は現実的だ。なにせ、事故は起きてから騒ぐより、起きないように作った方が安い。人間社会もだいたい同じで、血が出てから平和を叫ぶのは遅い。
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