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ナショナリズムってなに? 哲学用語シリーズ29

第一章 ナショナリズムとは何か:国・国民・国家を分ける

ナショナリズムって何か。だいたいの人は「愛国心のこと?」とか「右翼っぽいやつ?」とか、便利な雑まとめで済ませる。うん、その雑さが一番ナショナリズムの餌になる。なぜならナショナリズムは、細部の区別を雑にして一つの大きな“私たち”にまとめあげる技術だからだ。雑にすればするほど強くなる。なんて厄介な概念だろう。まるで手抜きがパワーになるチートみたいだ。

まず、最初に切り分けないと話が始まらない三つがある。国、国民、国家。この三つを混ぜると、ほぼ確実に議論が炎上する。逆に言うと、混ぜると炎上するから、政治家も広告も戦争も、混ぜたがる。火がつくから。人間は火が好きだね。暖かいし、明るいし、よく燃える。

ここでの「国」は、日常語としての国だ。日本という国、フランスという国、みたいなやつ。地図に色が塗られていて、パスポートがあって、国歌があって、代表チームがある。多くの人が「国」と聞いて思い浮かべるのはこれだ。しかし哲学や政治思想の文脈だと、この“国”はだいたい二つに分かれる。国家と国民である。国家は制度で、国民は物語だ。もちろん物語だけで国が運営できるわけじゃないし、制度だけで人が死ねるわけでもない。だから混ざる。混ざると危ない。だけど混ざると強い。はい、面倒くさい。

国家とは何か。国家は、ざっくり言えば、暴力を合法化して管理する装置だ。税金を取り、法律を作り、警察と軍隊を持ち、裁判をし、領土の中で「これはOK」「これはダメ」を決める。国家は冷たい。冷たいというか、温度がない。あなたが泣こうが笑おうが、住民票は発行されるし、納税通知書は届く。国家の顔は役所の窓口だ。書類を持ってこい、印鑑を押せ、期限を守れ。国家は感情よりも手続きが好きだ。そうしないと巨大な人口をさばけないからだ。背景として、近代国家は大量の人間を統治し、徴税し、時に徴兵するために設計されている。効率が命。感情はバグ。

では国民とは何か。国民は、同じ国家の下にいる人々、というだけではない。単に同じパスポートを持つ人々の集合なら、それは行政区分でしかない。国民という言葉には、もっと粘度の高い何かが入っている。同じ言語、同じ歴史、同じ文化、同じ痛み、同じ誇り。つまり「私たちはこういう人間だ」という自己像だ。国民は想像される。もちろん、想像だからといって嘘というわけではない。恋愛だって大半は想像でできているのに、心臓はちゃんと痛むだろう。人間にとって想像は現実の一部だ。国民も同じだ。ある共同体が「私たちは同じだ」と思うとき、その思いは実在の力を持つ。祝祭で泣けるし、スポーツで叫べるし、戦争で死ねる。国家が制度で人を動かすなら、国民は物語で人を動かす。

そして「国」という日常語は、この国家と国民が絡み合った状態を指していることが多い。だからややこしい。国家と国民が一致しているとき、人は安定する。「この制度は私たちのものだ」と感じるからだ。逆に一致していないとき、不安が増える。「この制度は誰のためにある?」という疑いが生まれる。ナショナリズムは、この一致を作ろうとする力として現れることが多い。国家を国民のものにしたい、国民を国家にふさわしいものにしたい。ここがナショナリズムの基本的なエンジンだ。

ナショナリズムという言葉は、しばしば「国を愛すること」と説明される。でもそれだと、犬を撫でるみたいな平和な話に聞こえる。現実はもう少し工学的だ。ナショナリズムは、国民という共同体を最重要の価値に置き、その共同体を維持・拡大・保護するために政治や倫理を再配置する考え方だ。何を優先するか、という序列の問題である。家族を優先するのか、人類を優先するのか、個人の自由を優先するのか。ナショナリズムはここで「国民共同体を優先する」と言う。すると何が起きるか。共同体の内部では連帯が強まる。外部には境界が引かれる。境界が引かれるというのは、壁を作るというより、線を引くということだ。線を引けば内側は守れるが、外側はこぼれる。ナショナリズムが持つ二面性は、だいたいこの線引きに由来する。

ここでありがちな誤解を一つ潰しておく。ナショナリズムはいつも悪いのか。いや、そうとも限らない。近代史では、ナショナリズムは圧政や植民地支配に対する抵抗の旗印にもなった。「私たちは私たちの国を持つ権利がある」という主張は、自由や尊厳の言葉にもなる。国家が外から押し付けられているとき、国民という物語は自分たちを守る盾になる。だからナショナリズムを一括で悪魔扱いすると、歴史が読めなくなる。一方で、ナショナリズムは簡単に排外主義にも変わる。「私たちは特別だ」が「他は劣っている」へ、「守る」が「追い出す」へ、「誇り」が「侮辱の復讐」へ。変質が速い。変質が速いのは、共同体の感情に直結しているからだ。感情はアクセルもブレーキも効きにくい。背景として、近代の大衆政治は感情の動員に依存してきた。大勢を動かすには、複雑な政策説明より、分かりやすい物語が必要だった。ナショナリズムはその物語の王様だ。

じゃあ哲学用語としてのポイントは何か。第一に、ナショナリズムは自然な感情ではなく、社会的に編まれた枠組みだという点だ。人は生まれた瞬間から「国民」ではない。家族がいて、地域があって、言葉を覚えて、学校で歴史を習って、旗を見て、歌を歌って、だんだん「私たち」ができる。これを陰謀論みたいに言う必要はない。むしろ当たり前の社会化だ。ただ、その“当たり前”が、政治や戦争の燃料にもなる。だから哲学は、当たり前を一度ばらす。国民という共同体は、誰がどんな手続きで作ってきたのか。何を含み、何を排除してきたのか。これを問う。

第二に、ナショナリズムは国家と国民の関係の調整装置だという点だ。国家が国民を作ることもある。教育制度、標準語、徴兵、国民的祝日。逆に国民が国家を要求することもある。独立運動、自治、憲法制定。どちらが先かは状況による。だから「国民がいて国家ができた」みたいな単純な話ではない。むしろ相互作用だ。国家が国民を育て、国民が国家を正当化する。二人三脚みたいで仲良さそうだが、足並みが揃わないと転ぶ。転ぶと内戦とか革命とかになる。笑えない。

第三に、ナショナリズムは倫理の優先順位を変えるという点だ。例えば「人は平等だ」という原理があるとして、ナショナリズムはそこに「でもまず同胞を守る」を足す。同胞優先は、家族優先に似ている。家族を大事にするのは普通だろう、という感覚があるから、同胞も大事にしようが自然に見える。だが家族の外側には他人がいる。同胞の外側には外国人がいる。その外側の扱いをどうするかで、倫理は割れる。ナショナリズムはここで、「外側にも配慮はするが、内側が先」と言いがちだ。問題は、この“先”がどこまで許されるかだ。税金、福祉、移民、難民、戦争。全部この優先順位に刺さる。

最後に、ナショナリズムは近代とセットで強くなった、という背景も押さえておきたい。近代は、身分や宗教よりも「国民」というカテゴリーで人をまとめる時代だった。市場が広がり、教育が普及し、戦争が総力戦になり、巨大な人口を一つの単位として動員する必要が出た。そのとき必要になったのが「私たちは一つだ」という物語だ。ナショナリズムは、近代の巨大な機械を動かすための潤滑油であり、時に爆薬でもあった。潤滑油としては優秀だ。爆薬としても優秀だ。優秀すぎて困る。

ここまでで、第一章の狙いは達成だ。ナショナリズムは、国を好きになる可愛い気持ち、だけではない。国家という制度と、国民という物語をつなぎ、その共同体を最重要の価値として置く思想である。だからこそ、政治にも倫理にも感情にも深く刺さる。次章では、その国民という物語が、どうやって生まれ、どうやって“本物”の顔をして歩き回るのかを見ていく。想像された共同体が、なぜ現実より強い顔をするのか。人間の都合って、だいたいそこに出る。

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