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a=aってなに? 哲学用語シリーズ31
第一章 まずa=aって意味不明だと思う
はじめて「a=a」を見ると、多くの人は拍子抜けする。何か深いことが書いてありそうなのに、読んでみると、同じ文字が左右に並んでいるだけだからだ。そんなの当たり前ではないか、わざわざ言うことなのか、と思うのは自然である。むしろ、当たり前すぎて意味がない、と感じるかもしれない。哲学や論理学の本に出てくるから難しそうに見えるだけで、中身は空っぽなのではないか。まずはそう疑ってよい。この疑いは、出発点としてかなり正しい。
たとえば「犬は犬である」と言われても、たしかにそうですね、で終わってしまう。「東京は東京である」でも同じだし、「昨日の自分は昨日の自分である」と言われても、だから何なのだという感じが残る。情報が増えた気がしないのである。「犬は動物である」なら、まだ少し説明になっている。「東京は日本の首都である」なら、知らない人にとっては知識になる。だが「犬は犬である」は、何も前に進んでいないように見える。a=aが意味不明に見えるのは、この前に進まなさのせいである。
ここで大事なのは、意味不明には二種類あるということだ。一つは、難しすぎて分からない場合である。もう一つは、簡単すぎて分からない場合である。a=aは後者に近い。深すぎて見えないのではなく、浅すぎて、むしろ足場が見えないのだ。池の水が深くて底が見えないことはあるが、逆に水が薄すぎて、ただ地面が広がっているだけに見えることもある。a=aの奇妙さは、まさにそういう種類の奇妙さである。見えているはずなのに、何を見せられているのか分からない。
では、なぜ哲学者や論理学者は、こんな当たり前の形をわざわざ取り上げてきたのだろうか。その理由の一つは、当たり前のものほど、土台になっているからである。家の中にいるとき、人は床をあまり意識しない。床は視線を集めないし、会話の中心にもなりにくい。だが、床がなければ立つことも歩くこともできない。a=aもそれに似ている。目立たないし、単独では面白くない。だが、ものを同じものとして扱う感覚がなければ、考えることそのものが揺らいでしまう。何かを何かとして指し示すこと、それを途中で別物にしないこと、その最低限の足場に関わっている。
「a」という記号は、ここでは何か一つのものを表している。「=」は、左右が同じであることを表している。だからa=aとは、aはaである、というだけの式になる。これだけ聞くと、やはり退屈に思える。だが、実はこの退屈さの中に、見逃しにくい前提が隠れている。つまり、同じものを同じものとして扱える、という前提である。さっきまでaと呼んでいたものを、次の瞬間には別のものとして扱ってしまったら、会話も推論も成り立たない。りんごの話をしていたのに、途中から勝手に石の話にすり替わるようでは、考えることの線が切れてしまう。
日常でも、似たことはよく起きている。机の上にコップがあるとして、「そのコップを取って」と言うとき、人はそのコップが途中で突然べつのものにならないことを暗黙に信じている。もちろん、現実には時間が流れ、光の当たり方も変わり、見る角度も変わる。それでも私たちは、同じコップだとみなしている。この「同じだとみなす」働きがあるから、世界はばらばらの印象の洪水にならず、ある程度まとまりを保つ。a=aは、そのまとまりの最も裸の形を示しているとも言える。
ただし、ここで一つ引っかかることがある。もしa=aが世界の土台なら、なぜそれはこんなにも中身がないのか、という点である。土台なら、もっと豊かな内容があってもよさそうだ。だが、土台はたいてい、豊かさより先に安定を求められる。橋の飾りは美しくできるが、橋脚はまず崩れないことが大切である。a=aも同じで、何か新しい情報を大量に与えるための式ではない。むしろ、新しい情報を語る前に、そもそも何を何として扱っているのかを崩さないための形式なのである。だから、その貧しさは欠点でもあるが、同時に役割でもある。
とはいえ、それなら哲学の本にしなくてもよさそうに思える。論理の教科書で一行だけ説明して終わればいい、と感じるかもしれない。ところが、話はそこで終わらない。同じとは何か、という問いがすぐに顔を出すからである。たとえば、昨日の自分と今日の自分は同じなのか。髪を切っても、考えが変わっても、名前が同じなら同じ人なのか。古い家を少しずつ修理して、柱も屋根も床も入れ替えたあと、それはまだ同じ家なのか。ここまで来ると、a=aはもうただの退屈な式ではない。世界の中で、何を同じものとして数えるのか、という面倒で大きな問題への入口になる。
さらに面白いのは、同じであることは、違いがあるからこそ意識されるという点である。何もかもが完全に同じ世界では、そもそも同じという言葉すら目立たない。私たちが「これは同じ机だ」と言うのは、見る時点によって光も位置も使い方も変わっているからである。変化の中で、それでもなお同じだと言い張る。そこには、単純な一致だけではない判断が入っている。つまりa=aは、見た目ほど無色ではない。表面では何も起きていないように見えるが、その背後では、変化と継続、名前と対象、見かけと本体といった問題が静かに絡み合っている。
このことは、言葉の使い方を考えると少し見えやすくなる。「彼は彼だ」という言い方は、ふつうの会話でもときどき使われる。これは単に同じ人だと確認しているだけではない。周囲が何を言おうと、その人にはその人の仕方がある、という含みを持つこともある。あるいは「仕事は仕事だ」と言うとき、そこには感情から切り離して扱うべきものだ、という圧力がにじむ。つまり、同じ語を繰り返す形は、ただの繰り返しに見えて、文脈の中では独特の重みを持つことがある。a=aもまた、単独で見ると空虚だが、哲学の文脈では、考えるための最小限の骨組みとして重みを持つ。
もちろん、だからといってa=aを神秘化する必要はない。これを見て、宇宙の秘密が隠されている、などと言い出すと話が怪しくなる。まず認めるべきなのは、a=aがたしかに当たり前だということである。その当たり前さを捨てないことが大切だ。哲学は、ときどき単純なものを無理に難しくしているように見えるが、本来は逆である。誰もが見過ごしている単純さの中に、どんな働きがあるのかを丁寧に確かめる。a=aについても同じで、この式はすごく深いから大事なのではない。深く見えないのに、それでも考える土台になっているから大事なのである。
だから第一歩としては、「a=aって意味不明だと思う」という感覚を、間違いとして捨てなくてよい。むしろ、その違和感こそが入口である。なぜ当たり前のことが、わざわざ原理として語られるのか。なぜ正しいのに、内容がないように感じるのか。なぜ同じという一語が、物だけでなく、人や時間や社会の問題にまで広がっていくのか。こうした問いを順にたどっていくと、最初は白紙のように見えたa=aが、少しずつ輪郭を持ちはじめる。意味不明だから終わりなのではない。意味不明に見えるほど基本に近いからこそ、そこから哲学が始まるのである。
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