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権威主義ってなに? 哲学用語シリーズ33
第一章 権威主義ってなに?
権威主義とは、社会や集団を安定させるためには、強い権威に人々が従うべきだと考える立場である。ここでいう権威とは、ただ力が強いというだけではない。上に立つ者が命じ、下にいる者が従うことが自然であり、正しいとみなされる状態を指す。権威主義は、自由そのものを完全に否定するとは限らないが、自由より秩序を優先しやすい。異論や反対が続くと社会は乱れる、だからある程度は黙って従ったほうがよい、という感覚がその土台にある。
この考え方は、独裁とほとんど同じものだと思われがちだが、実際には少し違う。独裁は政治の形の一つであり、権力が一人や少数に集中している状態を指す。それに対して権威主義は、政治体制だけでなく、人の考え方や社会の空気にも現れる。選挙があり、議会があり、表向きは民主主義でも、国民の多くが強い指導者を求め、反対意見を迷惑だと感じ、少数者の権利より多数の安心を優先するなら、その社会には権威主義的な傾向があると言える。つまり権威主義は、制度の名前である前に、秩序への欲望の形でもある。
権威主義を理解するためには、まず権威と権力を分けて考える必要がある。権力は、相手を動かす力のことである。金でも暴力でも法律でも、人を従わせるものは広い意味で権力に入る。それに対して権威は、従う側がその支配をある程度は正当だと認めている状態を含んでいる。教師の指示に生徒が従うとき、医師の判断に患者が従うとき、そこには単なる力だけではなく、その立場に対する承認がある。権威主義は、この権威を社会の中心に置こうとする。そして、権威が疑われること自体を危険だとみなしやすい。
たとえば学校を考えてみよう。授業中に私語が多く、教師の話を誰も聞かず、決まりも守られない教室では学習が難しくなる。このとき、一定の規律は必要である。だが権威主義は、規律を保つために必要な範囲を超えやすい。生徒が質問すること、判断に異議を唱えること、校則の妥当性を考えることまで、面倒なものとして退けがちになる。先生が言ったのだから従え、昔からそうだから変えるな、全員が同じであるべきだ、という発想が強くなると、そこでは規律が教育を支えるのではなく、服従それ自体が目的になっていく。
家族や職場でも同じことが起こる。親が子に最低限のルールを教えることは必要であるし、会社に上下関係があること自体も珍しくない。だが、年長者だから常に正しい、上司の命令には理由がなくても従うべきだ、空気を乱す者は排除されても仕方がない、という感覚が広がると、そこには権威主義が入り込む。権威主義の特徴は、命令の中身より、従うという姿勢そのものを高く評価する点にある。逆に言えば、自分で考え、理由を問い、必要なら異議を述べる態度は、しばしばわがままや反抗として処理される。
では、なぜ人は権威主義に引かれるのか。その理由の一つは、不安である。社会が不安定なとき、人は自由より安心を求めやすい。景気が悪い、犯罪が増えたと感じる、戦争や災害の気配がある、価値観がばらばらで先が見えない。そうした状況では、議論や調整はまだるっこしく見える。そのとき、強い指導者が現れて、私に任せろ、秩序を取り戻す、敵を排除する、と語ると、多くの人がそこに救いを見る。権威主義は、恐怖や混乱の中で魅力を増す。自由は責任を伴うが、服従は判断の重さを軽くしてくれるからである。
ここで重要なのは、権威主義はいつも露骨な暴力の姿で現れるわけではないという点である。むしろ最初は、常識、礼儀、伝統、治安、安心といった、もっともらしい言葉を通じて広がることが多い。もちろん伝統や礼儀そのものが悪いわけではない。問題は、それらが問い直しを許さない形で使われるときである。伝統だから従え、非常時だから黙れ、みんなが不安になるから異論を出すな、といった言い方が増えると、社会は表面上は静かでも、内側では思考の自由を失っていく。権威主義は、しばしば善意の顔をして近づいてくる。
この点で、権威主義は全体主義とも区別される。全体主義は、国家が人々の生活全体にまで深く入り込み、思想や文化や私生活まで統制しようとする傾向を持つ。それに比べると、権威主義はそこまで全面的ではない場合もある。政治への口出しさえしなければ、ある程度は私的生活を許す体制もある。しかし、だから安全だとは言えない。政治への関心を奪い、異議申し立てを抑え、秩序への服従を習慣にするだけでも、人はかなり深く支配される。静かであることと自由であることは同じではない。
また、権威主義は上から押しつけられるだけではなく、下から支えられることも多い。人々が自発的に強い支配を求め、異なる意見を持つ者を嫌い、少数者を疑い、単純で力強い言葉に安心するとき、権威主義は根を張る。そこでは支配者だけを批判しても足りない。従いたいという欲望、考えなくてすむ状態への誘惑、複雑な現実を敵と味方に分けてしまいたい気分もまた、権威主義の一部だからである。権威主義は、外から来る圧力であると同時に、人間の内側にある弱さとも結びついている。
だから権威主義を考えることは、ただ悪い政治を非難することでは終わらない。私たちは秩序を必要としているし、社会には一定の権威も必要である。問題は、どこで必要な権威が権威主義へ変わるのかという線引きである。命令に理由が示されているか。異議を述べる余地があるか。少数者の権利が守られているか。上に立つ者が批判にさらされているか。こうした点が失われるとき、権威は支えではなく拘束になる。権威主義とは、秩序を守ろうとするあまり、自由に耐える力を失ってしまった社会の傾きだと言える。
権威主義という言葉は、しばしば政治学や社会学の専門用語のように見える。だが本当は、もっと身近なところにある。家庭のしつけ、学校の空気、職場の上下関係、世論の圧力、危機のときに強まる同調。そうした場面で、考えることより従うことが重くなり、正しさより一体感が優先されるとき、権威主義は姿を見せる。この言葉を学ぶ意味は、遠い国の独裁者を批判するためだけにあるのではない。私たち自身が、安心のためにどこまで自由を手放そうとしているのかを見抜くためにあるのである。
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