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自由意志ってなに? 哲学用語シリーズ35
第一章 自由意志ってなに?
自由意志という言葉を聞くと、多くの人はまず「自分で選べること」を思い浮かべる。右に行くか左に行くか、言うか黙るか、続けるかやめるか。たしかに自由意志は選択に関わるが、哲学で問題になるのは、ただ選べるかどうかだけではない。もっと深いところで問われているのは、その行為を本当に「自分の行為」と呼べるのか、ということである。
たとえば、朝に目覚ましが鳴ったのに二度寝してしまい、遅刻したとする。そのとき人は「起きようと思えば起きられた」「いや、疲れすぎていて無理だった」と考える。この短いやり取りの中に、すでに自由意志の問題が入っている。自分は別の行動を選べたのか、遅刻はどこまで自分の責任なのか、あの瞬間の自分を責めるのは正しいのか。自由意志とは、こうした場面で顔を出す問いの名前である。
ここで大事なのは、自由意志を「好き勝手にできる力」だと思わないことである。人間は空を飛べないし、昨日に戻ることもできない。金がなければ買えないものもあり、病気や疲労や環境に縛られることもある。それでも私たちは、ある程度は自分で決めて生きていると感じている。この感覚は、全能であることから生まれるのではなく、制約の中でもなお、自分の理由で動いているという感覚から生まれる。
つまり自由意志は、何でもできるという意味の自由ではない。そうではなく、行為の出どころがどこにあるのかをめぐる問題である。誰かに脅されて財布を渡したとき、人はふつうそれを「本心からの行為」とは言わない。逆に、迷った末に自分で決めて謝罪したときには、その行為を自分のものとして引き受けやすい。ここで見えてくるのは、自由意志とは行為の結果よりも、行為がどのように生まれたかに関係しているということだ。
この点から見ると、自由意志の問題は責任の問題と深く結びついている。私たちは日常で、人をほめたり責めたりしている。「努力したからえらい」「嘘をついたから悪い」「あの人はわざとやった」と言うとき、そこには相手が自分で行為したという前提がある。もし行為が完全に外から操られたものなら、ほめることも責めることも弱くなる。自由意志とは、人に責任を問うことが正当かどうかを支える土台でもある。
しかし話はそれほど単純ではない。人の行為には、性格、育ち、癖、欲望、恐怖、体調、過去の経験が強く関わっている。怒りっぽい人が怒るとき、その怒りは突然空から落ちてきたのではない。その人の気質や習慣や記憶が、そこに積み重なっている。そうだとすると、私たちの選択はどこまで自由なのか、という疑問が出てくる。自分で決めているつもりでも、実はかなりの部分が、すでに形づくられているのではないか。
ここで哲学は、自由意志をめぐる二つの強い感覚の間に立つことになる。一つは、私たちは自分で選んでいるという感覚である。もう一つは、どんな行為にも原因があるという感覚である。コーヒーを飲むかお茶を飲むかを決めるときでさえ、好み、眠気、習慣、季節、直前に見た広告まで影響しているかもしれない。では、その選択は本当に自由なのか。それとも、原因の鎖の中で起きた出来事にすぎないのか。この衝突が、自由意志の問題を難しくしている。
ただし、原因があることと、自由がないことは同じではない。ここはとても重要である。たとえば、友人にひどいことを言ってしまい、あとで反省して謝るとする。その謝罪にも原因はある。後悔したからかもしれないし、相手を失いたくなかったからかもしれない。それでも、その謝罪をまったく自由でないとは言い切れない。むしろ、自分の反省や判断に基づいて行動したからこそ、その謝罪は自分のものだと感じられる。哲学ではここから、原因があっても自由は成り立つのではないか、という考えが生まれる。
逆に、原因がないなら自由だとも言えない。もし自分の行為が、何の理由もなく、ただ偶然に飛び出しただけなら、それもまた「自分の行為」とは言いにくい。サイコロの目のように行動が決まるなら、それは自由というより、むしろ気まぐれな出来事である。自由意志が問題になるのは、行為が単なる機械的な結果でもなく、単なる偶然でもなく、自分の理由や判断とどう結びついているかが問われるからだ。
この「自分の理由」という点も、さらに掘り下げる必要がある。人は欲しいものを手に入れられれば自由だと思いがちだが、欲望そのものが自分にとって異物のように感じられる場合もある。やめたいのにやめられない、怒りたくないのに怒ってしまう、見たくないのに見てしまう。こうした場面では、行為はたしかに自分の中から出ているのに、それを素直に自分のものと言えない感じが生まれる。自由意志とは、外からの強制だけでなく、自分の内部のねじれにも関わる言葉なのである。
だから自由意志を問うことは、単に抽象的な理論遊びではない。これは、人をどう理解するか、自分をどう裁くか、失敗したあとにどこまでやり直せると思うか、そうした生き方の感覚に直結している。もし人間がまったく自由でないなら、非難はかなり弱まるだろう。だが同時に、決意や努力や成長という言葉も危うくなる。逆に、人間が完全に自由だと考えすぎると、環境や不運や弱さへの理解を失いやすい。自由意志の問題は、この両極のあいだで人間をどう捉えるかを考える試みでもある。
自由意志とは何か。この問いに対して、最初の答えとして言えるのはこうである。自由意志とは、ただ選択肢があることではなく、自分の行為を自分のものとして引き受けられるかどうかをめぐる問いである。その行為は外から押しつけられたのではないか、その選択は自分の理由に基づいていたのか、別の仕方で行動できたと言えるのか。自由意志という言葉は、こうした問いをまとめて指し示している。
そして、この問いが消えないのは、人間が結果だけで生きていないからである。私たちは何をしたかだけでなく、なぜそうしたのかを気にする。人の行為を見て、事故だったのか、わざとなのか、仕方なかったのかを区別したがる。自分の過去を思い返しても、成功したか失敗したかだけでは終わらず、あのとき本当はどうすべきだったのかを考えてしまう。自由意志とは、その「どうすべきだったのか」という反省が可能であるための条件を問う、哲学の中心的な概念なのである。
次の章では、この問いをさらに押し進めて、人は本当に別様に行為できたのかを考える。自由意志を信じる多くの人は、選んだ瞬間に別の道も開かれていたはずだと感じている。だが、その「できたはずだ」は、いったい何を意味しているのか。ここから自由意志の議論は、本格的に始まっていく。
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