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功利主義ってなに? 哲学用語シリーズ38
第一章 功利主義ってなに?
功利主義とは、ある行為や制度がよいか悪いかを、その結果によって判断しようとする考え方である。もっと正確に言えば、できるだけ多くの幸福を増やし、できるだけ多くの苦痛を減らすことを道徳の基準にしようとする立場だ。難しく見えるが、発想そのものは意外なくらい身近である。たとえば、ある薬に副作用があっても、多くの人の命を救えるなら使う価値があると考えるとき、あるいは少し不便でも事故を大きく減らせるルールなら守るべきだと考えるとき、そこにはすでに功利主義に近い感覚がある。目の前の行為を、それが生み出す結果から見ようとするのである。
この立場のいちばん大きな特徴は、行為の中身そのものより、行為のあとに何が起きるかを重視するところにある。うそをつくことは一般には悪いことだと考えられているが、功利主義はそこで立ち止まらない。たとえば、暴力をふるおうとしている人物が、隠れている被害者の居場所を尋ねてきたとする。そのとき正直に答えれば、大きな不幸が生まれるかもしれない。ならば、うそをついてでも人を守るほうがよいのではないか。こういう問いに対して、功利主義はかなり自然に「結果として苦痛を減らすなら、そのうそは正当化されうる」と答える。善悪を決める鍵は、形式ではなく結果にあるというわけだ。
ここで重要なのは、功利主義が「好き勝手にやってもよい」と言っているわけではないことだ。むしろ逆である。行為の結果をまじめに考えるからこそ、自分の気分や思いつきではなく、だれにどんな影響が出るかを広く見なければならない。自分だけが得をするならよいのではなく、関係する人々全体の幸福と苦痛をできるだけ公平に見ようとする。ここに、功利主義の厳しさと魅力がある。感情に流されず、身分や伝統にも頼らず、「それで本当に人々の生はよくなるのか」と問い続けるのである。
功利主義という名前は、少しとっつきにくい。日本語の「功利」には、ずるがしこく利益を追うような響きがあるからだ。しかし哲学でいう功利主義の「功利」は、単なる金もうけや自分の得ではない。ここで問題になっているのは、英語でいう utility、つまり効用であり、人間にとってのよさや望ましさである。多くの場合、それは幸福や満足、苦痛の少なさとして考えられる。だから功利主義とは、「みんなにとってのよさを、結果から考えようとする倫理学」だと言ったほうが、誤解が少ないかもしれない。
この考え方をわかりやすくするために、簡単な例を考えてみよう。大雨の被害を受けた地域に、毛布を百枚送れるとする。一つの避難所に百枚すべてを送れば、その場所の人々はかなり快適になる。しかし別の避難所では寒さに苦しむ人が残る。逆に、二つの避難所に五十枚ずつ分ければ、一か所の快適さは少し下がるが、全体としてはより多くの苦痛を減らせるかもしれない。功利主義はこうした場面で、「どちらがより大きな幸福、あるいはより小さな苦痛を生むか」と考える。ここで大事なのは、公平に全体を見ることである。自分の知り合いがいるかどうかや、声の大きい人が得をするかどうかではなく、全体の結果に注目するのである。
こうした考え方は、とくに法律や政策の場面で力を持つ。限られた予算を医療、教育、福祉のどこにどれだけ配分するかを決めるとき、ただ「大事そうだから」という理由だけでは足りない。どの使い方が、より多くの人の生活を改善し、より大きな苦痛を防ぐのかを考えなければならない。功利主義は、そうした判断に一つの明確な基準を与える。もちろん現実には、幸福をきれいに数字で測ることは難しい。それでもなお、結果を比較しようとする姿勢は、現代社会の多くの制度の背後で働いている。
ただし、功利主義はわかりやすいぶん、すぐに不安も呼び起こす。全体の幸福が増えるなら、少数の人が犠牲になってもよいのか。ひとりの無実の人を苦しめれば、百人が安心するとして、それでも正しいと言えるのか。こうした反論はとても強い。実際、功利主義は古くから「人を数としてしか見ていないのではないか」と批判されてきた。幸福の総量だけを見るなら、一人ひとりの権利や尊厳が押しつぶされるのではないか、という疑いである。この批判は、功利主義を考えるうえで避けて通れない。
だが、その批判が成り立つのも、功利主義がまじめな立場だからである。もし功利主義が単なる自己中心主義なら、わざわざそんな反論は生まれない。功利主義はあくまで「みんなの幸福」を考えようとする。だからこそ、そこには大きな理想がある。自分に近い人だけを大切にするのではなく、遠くの他人の苦痛もまた苦痛として数える。身分が高い人の幸福を重く見たり、弱い立場の人の苦しみを軽く見たりしない。全員を一応は同じ重さで考えようとする。この平等な視線は、近代の倫理学において非常に重要だった。
功利主義の魅力は、道徳を神秘的な命令ではなく、説明可能な判断にしようとしたところにもある。「なぜそれはよいのか」と問われたとき、「昔からそうだから」でも「偉い人がそう言ったから」でもなく、「そのほうが人々の幸福を増やし、苦痛を減らすからだ」と答えられる。この説明のしかたは、近代社会にとてもよく合っていた。身分や伝統が揺らぎ、だれもが理由を求める社会では、道徳にも公共的な説明が必要になる。功利主義はその要求に応えようとしたのである。
もっとも、ここでいう幸福が何なのかは簡単ではない。おいしいものを食べて楽しい気分になることも幸福だし、よい本を読んで視野が広がることも幸福かもしれない。短い快楽と長い満足は同じなのか、本人が望むならそれでよいのか、苦痛を避けることと積極的に喜びを得ることはどう違うのか。功利主義は幸福を基準にするがゆえに、その幸福の意味を問い続けなければならない。ここに、この思想の深さがある。単純に見えて、実は人間にとって何がよいのかという根本問題に触れてしまうのである。
功利主義を理解するためには、「みんなが得をするなら正しい」という雑な標語で終わらせないことが大切だ。功利主義は、結果を見よと言う。だが、その結果は短期的な得だけではない。長い目で見た信頼、制度への安心感、恐怖の少ない社会、弱い人が見捨てられない仕組みもまた結果の一部である。たとえば、無実の人を処罰すれば一時的に不安は静まるかもしれないが、そんな社会ではだれも安心して生きられない。ならば長期的には、むしろ大きな不幸を生む。こう考えると、功利主義は表面的な多数決とはかなり違うことが見えてくる。
結局のところ、功利主義とは「人々の生を本当に少しでもよくできるのか」という問いを、正面から引き受ける思想である。正しさを空中に置かず、現実の幸福と苦痛に結びつけようとする。そこにこの立場の強さがある。同時に、人間を結果の計算だけで扱ってよいのかという不安もまた消えない。だから功利主義は、単純な答えではなく、考えるための強力な道具だと言ったほうがよい。何が正しいのかを考えるとき、「その行為はだれを苦しめ、だれを助け、全体としてどんな世界を生むのか」と問い返す視点を与えてくれるからである。
功利主義とは何か。この問いへの第一の答えはこうなる。功利主義とは、善悪を結果から考え、できるだけ多くの幸福とできるだけ少ない苦痛を目指そうとする倫理学である。そしてそれは、わたしたちが何を大切にして生きるべきかを、もっとも現実的なかたちで問い直そうとする思想なのである。
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