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平等ってなに? 哲学用語シリーズ39
第一章 平等ってなに?
平等という言葉は、だれでも一度は使ったことがあるはずだ。学校でも会社でも政治でも、この言葉はしばしば正しいものとして掲げられる。けれども、いざ平等とは何かと聞かれると、意外にうまく答えられない。みんなを同じにすることだ、と言えば話は簡単そうだが、現実にはそれだけでは済まない。背の高さも違えば、得意なことも違うし、生まれた家庭の環境も違う。平等は、違いのある人間たちを前にして、それでもなお何を同じにすべきかを考える言葉なのである。
たとえば、学校でテストが行われる場面を思い浮かべてみよう。全員に同じ問題が配られ、同じ時間が与えられるなら、それは一見すると平等に見える。だが、ある生徒は静かな家で毎日勉強でき、別の生徒は家の事情で落ち着いて勉強する時間を持てないかもしれない。同じ問題を同じ条件で解かせることは、たしかに一つの平等ではある。けれども、その前段階に大きな差があるなら、その平等はほんとうに十分なのだろうか。ここで見えてくるのは、平等とは単に同じ扱いをすることではなく、どの段階で何をそろえるべきかを問う考えだということである。
この点をはっきりさせるために、まず平等には少なくとも二つの意味があると考えるとわかりやすい。一つは、同じルールで扱うという意味での平等である。これを形式的な平等と呼んでもよい。法律の前では身分にかかわらず同じように裁かれるべきだ、という考えはその代表例だろう。もう一つは、実際の不利や格差に目を向け、それを小さくしようとする意味での平等である。こちらは実質的な平等に近い。前者は線をまっすぐ引く平等であり、後者はそもそも地面が傾いていないかを疑う平等だと言ってもよい。
この違いは、競走にたとえるとよく見える。全員を同じスタートラインに立たせて笛を鳴らせば、形式の上では公平に見える。だが、ある人は軽い靴を履き、ある人は足に重りをつけられていたらどうか。ある人はゴールの位置を知っていて、ある人は知らないままだったらどうか。そのとき、同じ合図で走らせるだけでは足りないと感じるだろう。平等を求める感覚は、ただ同じルールを配ることよりも、最初から埋め込まれている不利に気づくところから生まれることが多い。
もっとも、ここで話は終わらない。なぜなら、平等を強く求めれば求めるほど、今度は別の価値との衝突が起きるからである。たとえば、自由との衝突がある。ある人が努力してたくさん働き、たくさん稼ぐ自由を持つなら、その結果として所得の差が広がることはありうる。その差を税や制度で大きくならないように抑えようとすれば、今度は自由に稼ぎ使う余地が狭くなる。平等は正しい、だから最大限に進めればよい、と単純に言い切れないのはこのためだ。平等はたいてい、自由や効率や多様性とせめぎ合いながら考えられる。
さらに難しいのは、何を平等にするのかという問いである。お金を平等に配ればよいのか。教育の機会を平等にするべきなのか。政治に参加する力や、社会の中で尊重される度合いまで平等の問題に含めるべきなのか。この問いに答えるしかたで、平等の意味は大きく変わる。たとえば、収入が同じでも、病気を抱える人と健康な人では生活のしやすさが違う。選挙権が同じでも、発言しても相手にされにくい人がいるなら、政治的な平等は不十分かもしれない。平等は、数字だけでは測れない面を持っている。
ここで、平等とよく似た言葉として公平を考えてみよう。日常では二つがほとんど同じ意味で使われることも多い。だが、哲学では少しずれる。平等は、同じに扱うことへ視線を向けやすい。これに対して公平は、事情の違いも見たうえで、釣り合いの取れた扱いを求める傾向がある。たとえば、病院で重症の人が先に診察されるのは、順番が同じでないという意味では平等ではない。しかし、必要の大きい人を優先するのは公平だと感じられる。ここからわかるのは、平等が常に機械的な同一処理を意味するわけではないということだ。何が適切な同じ扱いなのかを考え始めると、そこにはすでに価値判断が入りこんでいる。
では、そもそも人はなぜ平等を大切にするのだろうか。その根には、人間を人間として同じ重さで数えるべきだという感覚がある。他人の苦しみも、自分の苦しみと同じように無視してはならない。身分が高いから、金があるから、男だから、あるいは多数派だからという理由で、一人の人間の価値を重くし、別の人間の価値を軽くしてはならない。この感覚は近代以降の政治や道徳の土台になった。平等とは、能力や成果の差がある世界の中で、それでも人としての重みまでは差をつけてはならないという宣言でもある。
ただし、人としての価値が等しいことと、あらゆる結果が等しいことは同じではない。ここで多くの混乱が起きる。平等を口にすると、すぐにみんな同じ給料にするのか、努力した人が損をするのか、といった反発が出ることがある。だが、平等論の多くはそんな単純な同一化を主張しているわけではない。むしろ問われているのは、どのような不平等なら認められ、どのような不平等は不当なのかという線引きである。医者と患者、教師と生徒、親と子のあいだには役割の違いがある。その違いをすべて消すことはできないし、消すべきでもないかもしれない。けれども、その違いが支配や侮辱や機会の剥奪に変わるなら、そこでは平等が問題になる。
この線引きを考えるうえで、よく出てくるのが能力と努力と運である。人は、自分でがんばった成果は自分のものだと思いやすい。たしかにそれには強い説得力がある。だが、努力できる体力、集中できる性格、よい教師に出会える環境、失敗しても立て直せる家庭の支えは、本人だけの力で手に入れたとは言いにくい。すると、成功の中には運の要素がかなり混ざっていることになる。平等の議論が鋭くなるのはこの点である。何が本人の責任で、何がそうではないのか。その境界をどう引くかによって、社会が受け入れるべき格差の幅は変わってくる。
ここまで見てくると、平等とは単純な答えを与える言葉ではなく、むしろ問いを深くする言葉だとわかる。何を同じにするのか。どこにある差を問題にするのか。その差は自然な違いなのか、それとも制度が作った不当なものなのか。平等を考えるとは、こうした問いを一つずつ丁寧に立てることである。だから平等の議論では、すぐに賛成か反対かを決めるよりも、まずどの平等について話しているのかを確かめることが大切になる。
平等という言葉が現代でも力を持ち続けるのは、それが社会の見えにくい傷をあぶり出すからでもある。表向きは同じルールがあるのに、ある人たちだけがいつも不利な位置に置かれる。だれにでも道は開かれていると言われながら、実際には入れない場所がある。そうしたとき、平等という言葉は、表面のきれいさをはがし、本当に人が人として扱われているかを問い直す。平等は、世界を均一に塗りつぶすための言葉ではない。むしろ、人の違いを前提にしながら、その違いが不当な支配や排除に変わらないようにするための言葉である。
だから第一歩として覚えておきたいのは、平等とはみんなを同じ形に切りそろえる思想ではないということだ。そうではなく、違いのある人びとがともに生きる社会で、だれが軽く扱われ、だれが重く扱われているのかを見つめ、何をそろえるべきかを考える思想なのである。平等を問うことは、人間の違いを消すことではない。違いがあってもなお、だれも見下されず、だれも最初から除外されない社会は可能かと問うことである。この問いの中に、平等という言葉の本当の重さがある。
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