文学・思想の一丁目一番地
絶対精神ってなに? 哲学用語シリーズ45
第一章 絶対精神ってなに?
絶対精神という言葉をはじめて見ると、まるで宇宙のどこかに巨大な霊がいて、世界全体を動かしているように思えるかもしれない。けれども、ヘーゲルのいう絶対精神は、そのような怪しい存在ではない。人間の外側に立つ超能力のようなものでもない。むしろそれは、人間が世界の中で生き、制度をつくり、芸術を生み、宗教を信じ、哲学によって考え、その全体を通じて自分自身を理解していく運動である。
ごく短く言えば、絶対精神とは、精神が自分自身を理解する最高の形である。ただし、ここでいう精神は、ひとりの人間の心の中だけにあるものではない。喜んだり、悲しんだり、悩んだりする個人の内面も精神ではあるが、ヘーゲルが問題にする精神は、それよりも広い。言葉、習慣、法律、学校、家族、仕事、国家、芸術、宗教、学問といった、人間が共同でつくりあげてきた意味の世界全体が、精神の働きとして考えられる。
たとえば、ある町に祭りがあるとする。祭りの日には、人々が神輿を担ぎ、音楽を鳴らし、決まった衣装を着て、昔から伝わるしきたりに従って歩く。そこには、ただの騒ぎ以上のものがある。その町で生きてきた人々の記憶、願い、恐れ、共同体のつながり、死者への思い、自然への感謝が、目に見える形で現れている。祭りを見るとき、人々はただ外から行事を眺めているのではない。自分たちが何を大切にしてきたのかを、あらためて見ている。
ここに、絶対精神への入口がある。人間は、ただ生きるだけではない。自分たちの生を形にし、その形を眺め、そこに意味を見いだす。絵を描く。歌を歌う。神話を語る。祈る。歴史を書く。哲学する。そうやって、人間は自分の内側にあるものを外へ出し、外へ出されたものを見つめ返す。この往復のなかで、精神は自分が何者であるかを少しずつ知っていく。
絶対精神という言葉の難しさは、「絶対」と「精神」の両方が、日常語とは少し違う意味を持つところにある。まず「精神」は、幽霊や気合いではない。人間が意味を持って世界を生きる働きである。次に「絶対」は、ただ強いとか、何でもできるとか、絶対に正しいという意味ではない。ヘーゲルにおける絶対とは、外側に切り離されたものを残さず、対立や他者を含み込みながら、自分自身を理解する全体性を指す。
子どもが成長していく場面を考えるとわかりやすい。幼いころ、人は家族の中にいて、家族の言葉や習慣を当然のものとして受け入れる。やがて成長すると、その習慣に反発することがある。なぜこんな決まりに従わなければならないのか、なぜ親の考えに合わせなければならないのか、と感じる。だが、さらに時間が経つと、ただ従うのでも、ただ反抗するのでもなく、自分がどのような環境で育ち、何を受け取り、何を引き継ぎ、何を変えようとしているのかを考えられるようになる。
この最後の段階では、もとの家族をそのまま肯定しているわけではない。反抗をなかったことにしているわけでもない。従属も、反抗も、自分の成長の一部として含み込まれている。そこで初めて、人は自分の来歴を少し自由に理解できる。ヘーゲル的に言えば、精神は自分を外へ出し、その外へ出たものと対立し、その対立を通じて、より深く自分を理解する。
絶対精神も、これに似ている。ただし、それは個人の成長ではなく、人類の文化全体の自己理解である。人間は自然の中に生まれ、道具をつくり、家族をつくり、社会をつくり、法律をつくり、国家をつくる。その中で、単に食べて眠るだけではなく、「この世界にはどんな意味があるのか」「人間は何のために生きるのか」「死とは何か」「自由とは何か」「美とは何か」と問う。その問いに対して、精神は三つの大きな形式で答える。芸術、宗教、哲学である。
芸術において、精神は真理を感覚的な形で表す。彫刻、絵画、音楽、詩、演劇、映画などは、単なる娯楽ではない。そこでは、人間が自分自身の理想や苦しみを、目に見えるもの、耳に聞こえるもの、身体で感じられるものとして表している。英雄の像は、その社会が何を偉大だと感じているかを示す。悲劇は、人間が逃れられない矛盾を形にする。美しい音楽は、言葉ではつかみきれない感情や秩序を響かせる。
宗教において、精神は真理を物語や信仰として表す。神、創造、罪、救済、死後の世界、祈り、儀礼といったものは、単に非科学的な迷信として片づけられるものではない。そこには、人間が自分の有限性をどう受け止めるか、世界の全体をどう意味づけるか、苦しみや死をどう理解するかという問題が含まれている。葬式を考えれば、それはよくわかる。人の死は、生物学的には生命活動の停止である。しかし人間は、それだけでは終われない。言葉をかけ、花を手向け、祈り、故人の人生を思い出す。宗教は、そうした意味づけを共同の形にしたものである。
哲学において、精神は真理を概念として理解する。芸術は真理を見えるようにし、宗教は真理を物語として生きる。哲学は、それらが何を意味していたのかを、考えることそのものによって明らかにしようとする。絵を見て感動することと、なぜその絵が人間の自由や悲しみを表しているのかを考えることは違う。祈ることと、祈りの中で人間が何を求めているのかを概念として考えることも違う。哲学は、芸術や宗教を馬鹿にするのではなく、それらの中にあった真理を、より自覚的な形で理解しようとする。
この三つが、絶対精神の領域である。精神はまず世界をつくる。次に、その世界の中で生きる。そして最後に、自分がつくり、自分が生きている世界の意味を理解する。絶対精神とは、この最後の自己理解の場面である。だからそれは、世界の外側にある神秘ではない。人間の歴史と文化の中で、精神が自分自身を見つめる働きである。
鏡にたとえると、さらにわかりやすい。普通の鏡は、顔や姿を映す。文化は、精神を映す鏡である。神殿、絵画、音楽、法律、物語、儀式、哲学書は、人間が自分自身を映し出す鏡である。ただし、この鏡は受け身ではない。映すだけではなく、映された姿を通じて、人間の自己理解を変えてしまう。ある物語を読んで、自分の苦しみが言葉になることがある。ある音楽を聴いて、これまで曖昧だった感情に形が与えられることがある。ある哲学の言葉によって、自分が置かれている時代の構造が見えることがある。
絶対精神とは、このような文化の鏡が、最も深い仕方で働く場所である。人間は芸術によって自分を感じ、宗教によって自分を物語り、哲学によって自分を考える。感じること、物語ること、考えることは、ばらばらではない。それらはすべて、精神が自分を理解するための異なる道である。
ただし、ここで注意しなければならないのは、絶対精神がすべての悩みを消してしまう完成状態ではないという点である。ヘーゲルのいう理解は、対立のない平穏ではない。むしろ、対立を通ってしか深まらない。自由を求めるからこそ、制度との衝突が生まれる。個人でありたいからこそ、共同体との関係が問題になる。死を意識するからこそ、宗教や哲学が生まれる。絶対精神は、そうした矛盾を見ないふりするのではなく、矛盾を通じて自分自身を理解する。
現代の例で考えれば、映画や小説や漫画が、時代の不安を映すことがある。ある作品が広く受け入れられるとき、そこには単なる流行以上のものがある。人々がまだうまく言葉にできていなかった孤独、怒り、希望、違和感が、その作品の中で形を得る。作品を見た人々は、「これは自分のことだ」「これは今の社会のことだ」と感じる。その瞬間、文化はただ消費されるものではなく、精神が自分自身を見つける場所になる。
絶対精神を理解するうえで大切なのは、巨大な言葉におびえないことである。そこにあるのは、人間が自分の世界をつくり、その世界に悩み、その世界を表現し、その表現を通じて自分自身を知っていくという、ごく根本的な運動である。家族の物語、町の祭り、学校の校歌、国家の式典、映画の名場面、宗教儀礼、哲学書の一文。それらはすべて、人間が自分の存在を映し、意味づけ、考え直す場になりうる。
絶対精神とは、世界の外から降りてくる答えではない。人間の歴史と文化の中で、精神が自分自身を理解していく運動である。芸術はそれを目に見える形で示し、宗教はそれを物語として生き、哲学はそれを概念として考える。だから絶対精神とは、文化が自分自身を考え始める地点であり、人間が自分のつくった世界の中で、自分とは何かを知ろうとする最高の営みなのである。
哲学用語シリーズ一覧に戻る
うしPのページに戻る