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常識ってなに? 哲学用語シリーズ49
第一章 常識ってなに?
常識とは何だろうか。いちばん簡単に言えば、それは「みんなが知っていること」のように見える。赤信号では止まる。人に会ったら挨拶する。お金を払って商品を受け取る。約束の時間には遅れない方がよい。こうしたことは、わざわざ難しい理論を持ち出さなくても、たいていの人が知っている。だから常識は、知識の一種に見える。
しかし、ここで少し立ち止まる必要がある。常識は、本当に「知っていること」なのだろうか。たとえば、朝起きて床に足をつけるとき、人は「この床は今日も私の体重を支えてくれるだろう」と考えてから立ち上がるわけではない。ドアを開けるときも、「この取っ手は回せば開くはずだ」と証明してから触るわけではない。電車に乗るときも、「駅という制度は今日も機能しているはずだ」と毎回確認しているわけではない。人は、ほとんど何も考えずに世界を使っている。
ここに常識の本質がある。常識とは、考えた結果として得られる答えではない。むしろ、考える前からすでに置かれている前提である。世界が昨日と同じように続いていること。他人がある程度は言葉を理解してくれること。机は机として使えること。店で商品を持ち帰るにはお金を払う必要があること。こうした前提は、ひとつひとつ証明されるのではなく、生活の中でそのまま使われている。
常識は、社会の空気に似ている。空気は見えないが、呼吸を支えている。ふだんは存在を意識しないが、なくなるとすぐに苦しくなる。常識も同じである。ふだんは見えない。けれど、誰かが常識から外れた行動をした瞬間、それは急に姿を現す。静かな図書館で大声を出す人がいる。列に並ばず横から入る人がいる。会議中に突然寝転がる人がいる。そのとき周囲は「なぜそんなことをするのか」と驚く。驚きによって、いままで見えなかった常識が輪郭を持つ。
つまり常識は、破られたときに見える。道路に白線が引かれていても、みんなが自然に車線を守っているあいだは、あまり意識されない。だが、一台の車が逆走すれば、そこに車線という秩序があったことがはっきりする。学校でも会社でも家庭でも同じである。守られているあいだ、常識は背景に沈んでいる。破られた瞬間、それは前景に出てくる。
常識は、便利なものである。もし日常生活のすべてを毎回考え直さなければならないなら、人はすぐに疲れ果ててしまう。朝、茶碗を見て「これは食器なのか、それとも帽子なのか」と考え始めたら、食事どころではない。コンビニのレジで「なぜ紙幣に価値があるのか」と毎回問い始めたら、買い物は進まない。常識は、無数の問いを省略するための装置である。いちいち考えなくてもよいから、人は先に進める。
その意味で、常識は社会のOSのようなものだ。OSは画面の奥で動いていて、ふだんは意識されない。アプリを開き、文字を打ち、画像を保存する。その背後で、基本的な仕組みが動いているから操作できる。常識もまた、会話、買い物、移動、仕事、家族関係の背後で動いている。人は常識というOSの上で、日常というアプリを動かしている。
ただし、OSである以上、常識には危うさもある。古いOSは、昔の環境ではうまく動いていたかもしれない。けれど、新しい機械や新しいソフトには合わなくなることがある。常識も同じである。かつては当然だと思われていた働き方、家族の形、男女の役割、年齢ごとの生き方が、時代が変わると重荷になることがある。常識は生活を助けるが、同時に生活を縛ることもある。
たとえば「大人なら働いていて当然だ」という常識がある。この言葉は、ある面では社会を支えている。働く人がいて、物が作られ、サービスが提供され、税金が集まり、社会が回る。だから働くことを当然だと考える感覚には、現実的な根拠がある。けれど、この常識は、病気、失業、介護、ひきこもり、障害、家庭事情などで働けない人を、説明する前から責める力にもなる。「なぜ働いていないのか」と問う前に、「働いていないのはおかしい」という判定が先に置かれる。
ここで重要なのは、常識がただの偏見ではないということだ。常識には、生活を安定させるための知恵も含まれている。約束を守る。危ない場所に近づかない。人の物を勝手に取らない。困っている人を助ける。こうした常識は、社会を壊れにくくする。もしすべての人が、毎日その場の気分だけで行動したら、安心して暮らすことは難しい。常識は、人と人が同じ世界に住むための共有された足場である。
けれど、常識はいつも正しいわけではない。多くの人が信じているからといって、それが真理であるとは限らない。昔は常識だったことが、後の時代から見ると残酷に見えることがある。身分の差、女性への制限、子どもへの体罰、障害への偏見、外国人への差別。どれも、その時代の人々には「普通」として受け入れられていた場合がある。だから常識は、社会の知恵であると同時に、社会の古い傷を保存する場所でもある。
常識のやっかいなところは、それが自分では見えにくいことにある。人は、自分が常識だと思っているものを、ただの現実だと感じてしまう。たとえば、日本で育った人にとって、家に入るとき靴を脱ぐことは自然に思える。だが、別の文化から来た人には、それは特定の作法である。逆に、靴を履いたまま室内に入る文化も、そこで育った人には自然に見える。どちらも本人には「ふつう」であり、外から見たときだけ、それが文化だと分かる。
このことは、常識が共同体と結びついていることを示している。家族には家族の常識がある。学校には学校の常識がある。会社には会社の常識がある。田舎には田舎の常識があり、都会には都会の常識がある。ネットにもネットの常識があり、ある掲示板、あるSNS、あるゲーム内コミュニティには、それぞれ独自の作法がある。ある場所では冗談として通じる言葉が、別の場所では失礼になる。ある場所では沈黙が礼儀になり、別の場所では沈黙が拒絶になる。
だから「常識で考えれば分かる」という言葉には注意が必要である。その常識は、誰の常識なのか。どの場所で作られた常識なのか。どの世代にとっての常識なのか。どの立場の人にとって都合のよい常識なのか。ここを問わないまま常識を持ち出すと、議論はすぐに乱暴になる。なぜなら、常識という言葉は、理由を説明しなくても相手を黙らせる力を持つからである。
たとえば「普通はこうするものだ」と言われたとき、その言葉は説明のように見える。しかし実際には、説明を省略している場合が多い。「なぜそうするべきなのか」と聞いても、「それが普通だから」と返ってくる。これでは理由になっていない。普通だから普通である、と言っているだけである。常識は便利な省略装置だが、その省略が乱用されると、思考を止める合図になる。
とはいえ、常識を疑うことは、何でも否定することではない。すべての常識を壊そうとすれば、人はかえって動けなくなる。信号を疑い、言葉を疑い、約束を疑い、他人の存在まで疑っていたら、生活は成り立たない。哲学的に疑うことと、日常生活を破壊することは違う。常識を疑うとは、常識を捨てることではなく、それがどのように働いているのかを見えるようにすることである。
たとえるなら、常識は床である。床があるから、人は立ち、歩き、机を置き、本を読むことができる。ふだん床を見つめながら生活する人はいない。だが、床が傾いていたり、穴があいていたりすれば、歩く人はつまずく。常識を問うとは、床を全部壊すことではない。自分たちがどんな床の上に立っているのか、どこが安全で、どこが古くなっているのかを確かめることである。
常識は、答えではなく足場である。人はその足場の上で、善悪を考え、正しさを語り、失礼かどうかを判断し、将来を想像する。だから常識を理解することは、社会を理解することにつながる。何が普通とされ、何が変だとされ、誰が常識的な人と呼ばれ、誰が非常識な人と呼ばれるのか。そこには、その社会が何を守り、何を恐れ、何を見ないことにしているのかが現れる。
常識とは、みんなが知っている知識ではない。それは、みんなが知っていることにしている前提である。証明される前に使われ、意識される前に働き、破られたときにはじめて姿を現す。便利で、強く、時にやさしく、時に残酷である。常識は、人をつなぐ橋にもなるし、人を閉じ込める檻にもなる。
だから、常識について考えることは、「普通とは何か」を考えることである。そして「普通とは何か」を考えることは、自分たちがどんな世界を当たり前だと思って生きているのかを問い直すことである。常識は、世界の端にある難しい概念ではない。むしろ、あまりにも近すぎるために見えなくなっている、日常のいちばん深い場所にある概念なのである。
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