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誤読・誤配ってなに? 哲学用語シリーズ50

誤読・誤配ってなに? 哲学用語シリーズ50
誤読・誤配ってなに? 哲学用語シリーズ50

第一章 誤読・誤配ってなに?

 誤読とは、文字どおりにいえば、読み間違えることである。だが、哲学や批評の言葉として考えるなら、それは単なるミスではない。作者がこう読んでほしいと思っていた意味、学校や専門家が正しいと認める意味、ある時代の読者が当然だと思っていた意味から、読者の理解がずれていくこと。それが誤読である。たとえば、作者は社会批判のつもりで小説を書いたのに、ある読者はそこに恋愛の切なさを読む。作者は笑わせるつもりで書いた場面を、別の読者は痛ましい場面として読む。このとき読者は、ただ間違っているのだろうか。そうとは言い切れない。なぜなら、読者は文字だけを読むのではなく、自分の経験、自分の傷、自分の時代を通して読むからである。

 読書は、透明なガラス越しに作者の頭の中をのぞく作業ではない。むしろ、曇った窓に向かって、外の景色と自分の顔を同時に見るような行為である。そこには作品が映っている。しかし、読者自身も映り込んでいる。だから、同じ文章を読んでも、人によって見えるものが違う。若いころに読んだ小説と、年を取ってから読み返した小説が、まったく別の本に感じられることがある。それは本が変わったからではない。読む人間の時間が変わったからである。誤読は、この読む人間の時間が、文章の中へ入り込むことで生まれる。

 もちろん、誤読という言葉には、どこか悪い響きがある。試験で問題文を読み間違えれば、答えは不正解になる。契約書を読み間違えれば、損をする。薬の説明を読み間違えれば、危険なことにもなる。だから、誤読を何でも肯定するわけにはいかない。けれども、文学や思想や芸術の世界では、間違って読むことが、ただちに悪いとは限らない。むしろ、後の時代の読者が、最初の読者には見えなかった意味を読み取ることで、作品が生き延びることがある。古い物語が、現代の孤独、労働、ジェンダー、戦争、家族の問題として読まれるとき、そこには一種の誤読がある。しかし、その誤読によって、古い作品は現在の言葉になる。

 誤配とは、届くはずだった相手とは違う相手に、言葉や情報や作品が届いてしまうことである。郵便でいえば、住所を間違えた手紙が別の家に届くことに近い。だが、この言葉もまた、単なる配送ミスだけを意味するのではない。ある文章、ある本、ある投稿、ある思想が、想定していなかった読者のもとへ届いてしまうこと。それが誤配である。研究者向けに書かれた難しい本が、大学とは関係のない読者に届く。身内に向けて書いたSNSの投稿が、まったく知らない人々のあいだで広がる。小さな同人誌の一文が、遠く離れた誰かの人生を変える。これらは、すべて誤配の例である。

 誤読が「読む側で起きるずれ」だとすれば、誤配は「届く道筋で起きるずれ」である。誤読では、読者が意味を曲げる。誤配では、言葉そのものが行き先を外れる。だが、この二つは深く結びついている。なぜなら、想定外の読者に届いた言葉は、たいてい想定外の読み方をされるからである。作者が専門家に向けて書いた文章を、まったく別の生活をしてきた人が読むなら、その読者は専門家とは違う場所に線を引く。専門用語よりも、何気ない一文に救われるかもしれない。中心的な議論ではなく、たとえ話のほうを覚えて帰るかもしれない。誤配された言葉は、誤読されることで、その人のものになる。

 たとえば、一冊の哲学入門書があるとする。著者は、ある概念を正確に説明するつもりで書いている。けれども、読者の一人は、その概念の説明よりも、途中に出てきた「人は自分の言葉を持たないと、他人の言葉で苦しむことになる」という一文に強く反応する。その一文は、著者にとっては補足だったかもしれない。しかし、その読者にとっては本の中心になる。これは誤読である。さらに、その本が本来想定していなかった読者、たとえば大学で哲学を学んだことのない人に届いたなら、それは誤配でもある。けれども、その誤読と誤配がなければ、その読者は哲学という言葉に出会わなかったかもしれない。

 ここで大事なのは、言葉は送り手の所有物であり続けることができない、ということである。人が何かを書くとき、そこにはたしかに意図がある。こう伝えたい、こう理解してほしい、こう受け取ってほしいという願いがある。しかし、いったん言葉が外に出ると、その言葉は読む人の時間、場所、感情、知識、偶然の状況にさらされる。夜中に読む文章と、朝に読む文章では印象が違う。失恋した日に読む詩と、退屈な授業中に読む詩では刺さる場所が違う。つまり、言葉は作者の手を離れた瞬間から、別の人生の中を移動し始める。

 この移動は、川の流れに似ている。山から流れ出した水は、まっすぐ海へ向かうように見える。しかし実際には、石にぶつかり、土を削り、横道へ流れ込み、途中で濁り、別の水と混ざっていく。作者の意図は、山から流れ出す最初の水に似ている。たしかに出発点ではある。しかし、読者のもとに届くまでに、言葉はさまざまな場所を通る。時代という地形、文化という川岸、読者の経験という石にぶつかりながら、少しずつ形を変える。この形の変化を、ただ汚れとして見るか、それとも新しい流れとして見るかで、誤読・誤配の見え方は大きく変わる。

 誤読・誤配を考えることは、正しさを否定することではない。むしろ、正しさだけでは説明できない言葉の動きを見ることである。辞書的な意味、作者の意図、歴史的な文脈、専門的な解釈は、どれも大切である。それらを無視して、何でも好きに読めばいいという話ではない。けれども、正しい意味だけを守ろうとすると、言葉が実際に人々のあいだでどう生きているのかが見えなくなる。言葉は標本箱の中の昆虫ではない。意味はピンで固定されているのではない。読まれるたびに、語られるたびに、引用されるたびに、少しずつ動いている。

 このことは、インターネットの時代にはさらに見えやすくなっている。投稿者は、フォロワーに向けて軽い冗談を書いたつもりかもしれない。ところが、その投稿が外へ流れ、文脈を知らない人に読まれ、怒りや笑いとともに広がっていく。ここでは誤配が起きている。さらに、読んだ人々がそれぞれの立場から意味をつけ加え、元の発言とは違う話として受け取っていく。ここでは誤読が起きている。もちろん、それは炎上や中傷の危険も持つ。だが一方で、まったく知らない人に作品が届き、新しい読者が生まれることもある。ネットは、正確な配達装置であると同時に、大きな誤配装置でもある。

 誤読・誤配が面白いのは、人間の自由と不自由が同時に見えるからである。人は自由に読む。しかし、完全に自由に読めるわけではない。自分の経験や社会の常識に縛られて読む。言葉は自由に広がる。しかし、完全に自由に広がるわけではない。媒体、広告、検索、評判、偶然のタイミングに左右される。つまり、読むことも届くことも、意志だけでは決まらない。そこには、ズレ、偶然、遅れ、勘違い、出会いそこない、出会ってしまうことが混ざっている。

 だから、誤読・誤配は、失敗の名前であると同時に、可能性の名前でもある。正しく読まれることだけを望むなら、言葉は狭い場所に閉じ込められる。正しい相手にだけ届くことを望むなら、作品は予定された読者の中で終わる。だが、言葉はしばしば、予定を外れて届く。そして、予定を外れて読まれる。そのとき、作者の知らないところで、新しい意味が生まれる。読み間違えられた言葉が、誰かにとっては正しい言葉になる。宛先を間違えた言葉が、誰かにとっては必要な言葉になる。

 誤読とは、意味が読者の人生にぶつかって曲がることである。誤配とは、届くはずのなかったものが届き、出会うはずのなかったものを出会わせることである。この二つを考えると、言葉はただの情報ではなくなる。言葉は移動するものになる。曲がり、遅れ、ずれ、別の場所で芽を出すものになる。人が本を読むこと、文章を書くこと、誰かに何かを伝えることは、いつもこの不確かな移動の中にある。正しく届く言葉だけが世界を変えるのではない。ときには、間違って届いてしまった言葉こそが、世界の見え方を変えるのである。

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