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絶対王政ってなに? 哲学用語シリーズ52
第一章 絶対王政ってなに?
絶対王政とは、王が国の中心に立ち、軍隊、税、法律、裁判、行政を一つにまとめていく政治の形である。王様が偉そうにしていた時代、というだけなら、絶対王政の本質には届かない。大事なのは、王という一人の人間のまわりに、国家を動かす仕組みが集まっていったことである。絶対王政は、王の強さの話であると同時に、近代国家が生まれていく過程の話でもある。
中世のヨーロッパでは、権力は今の国家のように一か所へまとまっていなかった。王は王であったが、国中のすべてを自由に動かせたわけではない。地方には地方領主がいて、自分の土地で税を取り、裁判をし、兵士を集めた。教会は教会で、人々の信仰と生活を支配する大きな権威を持っていた。都市には都市の自治があり、貴族には貴族の特権があった。つまり、同じ国の中に、いくつもの小さな権力の島が浮かんでいた。
たとえば、一つの学校を考えると分かりやすい。校長はいる。しかし、それぞれのクラスの担任が独自の校則を作り、部活動の顧問が別の命令を出し、保護者会も独自の決定権を持ち、さらに外部の宗教団体まで校内ルールに口を出しているとする。このとき、校長は学校の代表ではあるが、学校全体を一つの方針で動かすことは難しい。中世の王も、かなりこれに近い位置にいた。
絶対王政は、このばらばらな状態を変えようとする。王は、地方領主が持っていた軍事力を押さえ、貴族を宮廷へ集め、教会の影響力を調整し、税を中央で管理し、法律を統一しようとする。つまり「この国で最後に決めるのは王である」という形を作っていく。ここで重要なのは、王がただ威張るのではなく、国家の命令系統を一本化していくことである。
なぜ、そのような一本化が必要になったのか。大きな理由の一つは戦争である。戦争が小規模な争いで済んでいた時代なら、地方領主の兵や騎士の協力で対応できた。しかし戦争が大きくなり、長引き、火器や要塞や補給が重要になると、場当たり的な軍事力では足りなくなる。常に訓練された兵士、安定した兵糧、武器を買う金、命令を伝える制度が必要になる。そこで王は、国全体から税を集め、常備軍を持ち、官僚を使って国を管理しようとした。
つまり絶対王政は、王が急に欲深くなったから生まれたわけではない。もちろん、王の野心はあった。贅沢もあった。支配欲もあった。しかしそれだけではない。戦争に勝つため、内乱を防ぐため、税を安定して集めるため、商業を保護するため、国家はより強い中心を必要とした。王はその中心になった。王の権力が強くなったのは、王個人の性格だけでなく、時代そのものが強い中央を求めたからでもある。
ここに、絶対王政の面白さがある。絶対王政は、自由を押さえつける古い政治である。だが同時に、ばらばらだった社会を一つの国家へ組み替える新しい政治でもある。古いようで新しい。前近代的な王の姿をしていながら、その背後では税制、官僚制、常備軍、法律の統一、中央集権という、近代国家の部品が組み上がっている。
王が強いということは、人々にとって悪いことばかりではなかった。地方領主が勝手に税を取り、勝手に裁き、勝手に兵を動かしていた社会では、民衆は近くの権力者に苦しめられることがある。そのとき、王の裁判や王の命令が、地方の横暴を押さえる力になる場合があった。遠くの王が、近くの領主よりましに見えることもあったのである。
しかし、王が地方の権力を押さえたあと、その王自身を誰が押さえるのかという問題が残る。ここが絶対王政の危険である。ばらばらな権力は混乱を生む。だが、一つにまとまった権力は、暴走したときに止めにくい。小さな火事があちこちで起きるのも困るが、すべての火を一つの巨大な炉に集めれば、その炉が爆発したときには国全体が焼けてしまう。
絶対王政の「絶対」とは、王が宇宙の神のように何でもできるという意味ではない。実際の王は、財政、貴族、教会、慣習、法律、民衆の反発に制約されていた。どれほど強い王でも、完全に好き勝手できたわけではない。では、なぜ「絶対」と呼ばれるのか。それは、国内の他の権力に対して、王が最終的な上位者であろうとしたからである。王より上に、国内の誰も立たせない。その考え方が、絶対王政の核にある。
このとき重要になるのが、主権という考え方である。主権とは、最終的に誰が決めるのか、という問題である。戦争をするのか。税を取るのか。法律を変えるのか。反乱をどう処理するのか。教会と国家が対立したとき、どちらが上なのか。そういう決定の最後の場所を、絶対王政では王に置く。王はただの支配者ではなく、国家の最終決定点として考えられた。
たとえるなら、絶対王政とは、複数の管理者が勝手に設定を変えていたシステムに、唯一の管理者権限を置こうとする試みである。管理者が一人になれば、設定は統一される。トラブル対応も早くなる。誰の命令に従えばよいかも分かりやすくなる。しかし、その管理者が間違った設定を入れれば、全員がその影響を受ける。便利さと危険が、同じ場所から出てくる。
だから絶対王政を考えるとき、「王様は悪い」「昔の人は王に支配されてかわいそうだった」という単純な理解では足りない。もちろん、絶対王政には抑圧がある。重税があり、戦争があり、反対者への弾圧があり、身分差がある。しかし同時に、絶対王政は国家を一つのものとして作り直す力でもあった。王を批判するだけでは、なぜ人々が強い王を必要としたのかが見えなくなる。
有名な例として、フランスのルイ十四世がいる。彼は「太陽王」と呼ばれ、王を中心に国家が回るような政治を作り上げた人物として知られる。ヴェルサイユ宮殿は、ただの豪華な住まいではなかった。貴族を地方から引き離し、王の近くに集め、儀礼と序列の中で管理するための舞台でもあった。貴族は地方で勝手に力を振るう存在から、王の視線を気にする宮廷人へ変えられていった。
ここでは、建物も政治になる。広い庭、豪華な鏡の間、朝起きる儀式、服装、席順、誰が王に近づけるかという細かなルール。それらは全部、王を中心に世界が組み立てられていることを人々の身体に覚え込ませる仕組みだった。絶対王政は、剣や法律だけでなく、見せ方によっても作られる。王は命令するだけでなく、見られることによって支配したのである。
それでも、王の身体には限界がある。王は一人しかいない。国中を歩き回ることはできない。すべての村で税を集めることも、すべての裁判を見ることもできない。そこで官僚制が必要になる。官僚は王の手足であり、書類は王の声を遠くへ運ぶ道具である。王が「命じる」と言っただけでは国家は動かない。その命令を記録し、伝え、実行し、違反を処理する仕組みがあって初めて、王の権力は現実になる。
この意味で、絶対王政は王の顔をした制度である。表面には王冠をかぶった人物がいる。しかしその背後には、税を数える人間、兵を訓練する人間、道路を整える人間、法律文書を書く人間、地方を監視する人間がいる。王の絶対性は、王の人格だけではなく、こうした制度の積み重ねによって支えられていた。
では、絶対王政はいつ終わったのか。象徴的には、フランス革命が大きな転換点になる。王の権力は否定され、主権は王ではなく国民にあると考えられるようになっていく。しかし、ここで注意が必要である。王は倒れても、王が作った国家の装置は消えなかった。税を取る仕組み、軍隊を動かす仕組み、官僚が行政を行う仕組み、国土を一つの単位として管理する仕組みは残った。
つまり、絶対王政は終わったあとも、近代国家の中に影を残している。現代に王はいない。少なくとも、多くの国では、王が絶対的に命令する政治は否定されている。だが、国家が税を取り、行政が生活を管理し、非常時に政府が強い権限を持ち、国民が一つの制度の中へ組み込まれるという構造は残っている。王の椅子に座る人物は変わった。しかし、椅子そのものは残っている。
絶対王政とは、過去の王様を笑うための言葉ではない。それは、秩序を作るために権力を集中させると何が起きるのかを考えるための言葉である。権力が分散しすぎれば、社会はまとまらない。権力が集中しすぎれば、人々は逃げ場を失う。絶対王政は、その二つの危険のあいだで生まれた政治の形である。
だから、この言葉を知ることは、現代を見る目を持つことでもある。誰が最後に決めるのか。その決定を誰が支えるのか。その権力を誰が止めるのか。絶対王政という古い言葉は、今でもこの問いを投げかけている。王様はいなくなった。しかし、強い中心を求める欲望と、その中心が暴走する恐れは、まだ私たちの社会の中に残っている。
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