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ミームってなに? 哲学用語シリーズ53
第一章 ミームってなに?
ミームとは、人から人へコピーされる文化の型である。もう少しやわらかく言えば、誰かの頭や口や手を通って、別の誰かへ移っていく考え方、言葉、しぐさ、物語、流行、記号のことである。たとえば、ある冗談が学校や職場で流行る。最初に言った人は一人でも、それを聞いた人が真似をし、少し言い方を変え、別の場面で使う。するとその冗談は、最初の人の所有物ではなくなり、集団の中を勝手に動き回るものになる。このような「人間を通って増えるもの」を、ミームと呼ぶ。
ミームという言葉を有名にしたのは、リチャード・ドーキンスである。彼は遺伝子が生物の身体を通じてコピーされるように、文化にもコピーされる単位があるのではないかと考えた。遺伝子は親から子へ受け継がれ、身体の特徴や性質に影響を与える。一方、ミームは人から人へ受け継がれ、考え方や行動の型に影響を与える。歌、祈り、流行語、服装、礼儀、作法、神話、キャラクター、政治スローガンなどは、すべてミームとして考えることができる。
ただし、ミームは遺伝子そのものではない。遺伝子はかなり正確にコピーされるが、ミームはもっと曖昧に伝わる。ある昔話が語り継がれるとき、細部は変わる。ある言葉が流行するとき、使われる場面も意味も少しずつ変わる。ネットの画像ミームも同じである。最初は一枚の画像だったものが、文字を変えられ、文脈を変えられ、別の人物や別の事件に貼り替えられていく。ミームはコピーされるが、コピーされるたびに変形する。
この「変わりながら増える」というところが、ミームの面白さである。ミームは標本箱の中に保存された昆虫のようなものではない。むしろ、川を流れる葉のようなものである。上流で落ちた一枚の葉が、流れの途中で枝に引っかかり、また流れ出し、泥をつけ、形を崩しながら下流へ向かう。ミームもまた、人間の会話、記憶、誤解、欲望、メディアの流れの中で、姿を変えながら運ばれていく。
たとえば「親ガチャ」という言葉がある。この言葉は、親を選べないという現実を、ゲームのガチャになぞらえて表現している。そこには、家庭環境、貧困、努力論への疑い、人生の不平等といった重い問題が含まれている。しかし、この言葉が広がった理由は、社会学の論文のように厳密だったからではない。短く、覚えやすく、現代のゲーム文化に接続していて、自分の不満や違和感を一言で言い表せたからである。つまり、言葉そのものにコピーされやすい形があった。
ここで重要なのは、正しいものが広がるとは限らないという点である。ミームとして強いものは、必ずしも真理に近いとは限らない。むしろ、わかりやすいもの、怒りを呼び起こすもの、笑えるもの、誰かを敵にできるもの、仲間意識を作れるものが広がりやすい。複雑な説明は、正しくても広がりにくい。短い断言は、雑でも広がりやすい。だからミームを考えることは、文化の中で「なぜそれが正しいのか」だけでなく、「なぜそれが広がったのか」を考えることでもある。
この違いは、広告を見ればわかりやすい。商品そのものの性能を長く説明する広告よりも、短いフレーズ、印象的な色、覚えやすいキャラクターの方が記憶に残ることがある。たとえば、ある飲み物の味を細かく説明されても忘れてしまう。しかし、決まった音楽、決まった色、決まった表情のキャラクターが何度も出てくると、それだけで商品を思い出すようになる。商品情報ではなく、思い出し方そのものがコピーされているのである。
宗教も、ミームとして見ることができる。宗教は、ただ教義の文章だけで伝わるのではない。祈りの言葉、建物の形、祭り、歌、衣装、食事の決まり、聖人の物語、身体の動かし方を通じて伝わる。子どもは最初から難しい神学を理解しているわけではない。それでも、手を合わせる、頭を下げる、特別な日に集まる、特定の言葉を唱えるという行動を通じて、その文化に参加していく。ミームは頭だけではなく、身体にも入り込む。
国家も同じである。国というものは、目で直接見ることができない。見えるのは、国旗、地図、国歌、教科書、祝日、制服、パスポート、ニュースの言葉である。人間はそれらを通じて、自分がどこかの国に属していると感じる。国とは抽象的な制度であるが、その抽象は具体的な記号によって支えられている。ミームは、抽象的なものを具体的な形にして、人々のあいだに流通させる働きを持つ。
ネットミームは、この構造を極端にわかりやすくしたものである。一枚の画像に短い文字をのせる。誰かがそれを真似する。別の人が場面を変える。さらに別の人が皮肉に使う。やがて、その画像や文体を見ただけで、説明しなくても意味が伝わるようになる。ネットミームは、言葉と画像と文脈がセットになった文化の圧縮ファイルのようなものだ。小さな画像の中に、共通の記憶、笑い、怒り、皮肉、仲間内の合図が詰め込まれている。
ただし、ネットミームだけがミームなのではない。むしろネットミームは、ミームという考え方の一部にすぎない。昔から人間は、物語を語り、流行を真似し、ことわざを使い、英雄を讃え、敵を笑い、しきたりを守ってきた。ネットによって変わったのは、ミームが生まれ、広がり、変形する速度である。かつては村や学校や家庭の中でゆっくり広がっていたものが、いまでは数時間で世界中に届くことがある。
ミームを考えると、人間の主体性も揺らいで見えてくる。普通、人間は「自分が考えている」と思っている。しかし、その考えの材料はどこから来たのか。使っている言葉は、誰かから受け取ったものである。怒り方も、笑い方も、夢の語り方も、どこかの文化から学んだものである。自分だけの意見に見えるものの中にも、テレビ、SNS、家庭、学校、本、友人、広告から受け取った無数のミームが入り込んでいる。
もちろん、だからといって人間はただの操り人形だ、ということにはならない。人間はミームを受け取るだけでなく、選び、組み替え、拒み、育てることもできる。ある言葉に出会っても、それをそのまま広げる人もいれば、皮肉に変える人もいる。ある物語を読んで、信じ込む人もいれば、別の物語を書き直す人もいる。人間はミームの乗り物であると同時に、ミームの編集者でもある。
ここに、ミームという概念の哲学的な重要性がある。ミームは、文化を「人間が作ったもの」としてだけでなく、「人間を通って増えていくもの」として見る視点を与える。これは少し怖い視点である。なぜなら、自分の中にある考えが、本当に自分のものなのか疑わしくなるからである。しかし同時に、これは自由につながる視点でもある。自分の中でどんなミームが動いているのか見えるようになれば、それにただ流されるだけではなくなる。
ミームとは、人間が持つ考えではなく、人間を通って増える考えである。この一文を出発点にすると、世界の見え方は少し変わる。流行語を見るとき、広告を見るとき、政治スローガンを見るとき、宗教儀式を見るとき、ネットの画像を見るとき、あるいは自分の口ぐせに気づいたとき、それがどのようにコピーされ、どのように変形し、なぜ残っているのかを考えられるようになる。ミームとは、文化の中を流れる見えない生命のようなものである。そして人間は、その生命が通り抜けていく場所なのである。
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