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注意経済ってなに? 哲学用語シリーズ55

注意経済ってなに? 哲学用語シリーズ55
注意経済ってなに? 哲学用語シリーズ55

第一章 注意経済ってなに?

 注意経済とは、人間の注意が奪い合われる社会の仕組みである。ここでいう注意とは、ただ何かをぼんやり見ることではない。目を向けること、耳を傾けること、考えること、気にすること、怒ること、欲しがること、不安になることまで含んでいる。人間は一日に無限のものを考えられるわけではない。朝起きてから夜眠るまでに、どれだけのものを見て、どれだけのことを考え、どれだけの感情を動かせるかには限りがある。だから注意は、時間やお金と同じように限られた資源になる。

 経済という言葉を聞くと、多くの人はお金を思い浮かべる。しかし経済の根本には、限られたものをどう配分するかという問題がある。食べ物が足りない時代には、食べ物をどう分けるかが大きな問題になる。土地が大切な時代には、誰が土地を持つかが問題になる。工場や石油が力を持つ時代には、生産力やエネルギーが争われる。そして情報があふれる時代には、人間の注意が争われる。情報そのものは増えすぎるほど増えた。だが、それを見る人間の目と心は増えない。ここに注意経済の出発点がある。

 昔なら、情報を手に入れること自体が難しかった。本を買うには本屋へ行かなければならず、新聞は一日に一度しか届かず、テレビ番組は決まった時間にしか見られなかった。情報には入口があり、終わりがあり、距離があった。ところが今は、スマホを開けばニュース、動画、SNS、広告、メッセージ、ランキングが一斉に押し寄せてくる。しかも、それらは静かに並んでいるだけではない。通知音を鳴らし、赤い数字を見せ、次の動画を自動で出し、こちらが反応しそうな投稿を次々に差し出してくる。

 このとき人間は、ただ情報を選んでいるようでいて、情報の側から選ばれてもいる。たとえば動画サイトで一つの動画を見る。すると次に似た動画が出てくる。少し怒りを誘う動画を見れば、さらに怒りを誘う動画がすすめられる。かわいい猫の動画を見れば、また猫が出てくる。政治、芸能、陰謀論、ゲーム、料理、投資、健康法、どんな分野でも仕組みは似ている。サービスは人間の本心を読んでいるわけではない。ただ、どこで止まり、何を押し、何を長く見たかを記録し、次に反応しそうなものを並べている。

 ここで重要なのは、注意はただ奪われるだけではなく、形作られるということだ。最初は少し興味があっただけかもしれない。だが毎日同じ種類の情報を見せられると、自分の関心そのものがその形に寄っていく。人は自分が好きなものを見ていると思っている。しかし、見せられ続けたものを好きになっている場合もある。これはスーパーで目立つ棚の商品をつい手に取るのに似ている。自分で選んだつもりでも、店内の配置、照明、値札、通路の流れによって、選び方はあらかじめかなり誘導されている。

 注意経済では、この誘導が心の中で起こる。棚に並べられているのは商品だけではない。怒り、不安、羨望、安心、笑い、正義感、孤独、欲望までが並べられている。人間は感情が動いたものに注意を向けやすい。だから穏やかで正確な説明より、強い言葉のほうが目立つことがある。丁寧な議論より、敵と味方をはっきり分ける投稿のほうが広がることがある。これは人間が愚かだからではない。人間の注意が、危険や変化や対立に反応しやすくできているからである。

 たとえば、道を歩いていて普通の石が落ちていても、ほとんど気にしない。だが蛇のようなものが見えれば、すぐに目が向く。生き延びるためには、危険に注意を向ける力が必要だった。ところが現代の画面の中では、この性質が利用される。怒りを誘う見出し、不安を煽るニュース、極端な意見、誰かの失敗、誰かの炎上は、心の中の警報装置を鳴らす。警報が鳴れば、人は見る。見れば、滞在時間が増える。滞在時間が増えれば、広告が表示される。こうして感情は、経済の燃料になる。

 ここで注意経済の怖さが見えてくる。人間は無料でサービスを使っているように見える。だが本当に何も払っていないわけではない。お金を払っていない代わりに、時間を払っている。集中力を払っている。怒りや不安を払っている。自分の生活の中で、本来なら読書や休息や会話や創作に向けられたかもしれない注意を、別の場所へ流している。つまり注意経済では、人間の一日の断片が細かく切り分けられ、測定され、広告や影響力の市場へ流し込まれる。

 もちろん、すべてが悪いわけではない。注意経済のおかげで、多くの人が自分の作品や意見を広められるようになった。大企業やテレビ局に頼らなくても、個人が読者や視聴者に届く可能性が生まれた。無名の作家、研究者、漫画家、動画制作者、個人商店でも、注意を集めることができれば、生活を変える機会を得られる。昔なら見つけてもらえなかった人が、たまたま誰かの目に留まり、そこから広がっていくこともある。この意味で注意経済は、閉ざされた世界を開く力も持っている。

 だが同時に、それは新しい競争を生む。誰もが見てもらいたい。読んでもらいたい。買ってもらいたい。評価されたい。すると、静かなもの、遅いもの、複雑なもの、すぐには分からないものは不利になる。短い言葉、強い画像、分かりやすい敵、すぐに笑えるもの、すぐに怒れるものが有利になる。注意を集める技術が上がるほど、注意に値するかどうかとは別の基準で、世界が並べ替えられていく。

 ここで哲学の問題が始まる。何に注意を向けるかは、単なる趣味の問題ではない。人間は、自分が注意を向けたものによって少しずつ作られる。毎日怒りの情報を見ていれば、世界は敵だらけに見えてくる。毎日他人の成功だけを見ていれば、自分の人生は不足だらけに見えてくる。毎日短い刺激だけを追っていれば、長い文章や複雑な思考に耐える力は弱くなる。逆に、毎日少しでも本を読み、散歩し、考えをノートに書き、人と落ち着いて話せば、世界の見え方も変わってくる。

 注意とは、心の向きである。心の向きが変われば、世界の形も変わる。同じ部屋にいても、汚れに注意を向ける人は汚れを見つけ、光に注意を向ける人は光を見つける。同じ社会にいても、敵ばかりを見る人には敵が増え、学ぶものを見る人には材料が増える。もちろん現実を無視して、都合よく見ればよいという話ではない。むしろ逆である。何に注意を向けるかを他人任せにしていると、自分の現実感覚そのものが他人に作られてしまうという話である。

 注意経済とは、現代社会の見えない水路である。水が低いところへ流れるように、人間の注意も刺激の強いところへ流れやすい。その流れを設計する者は、人々の時間、感情、欲望、判断に大きな影響を持つ。だから注意経済を知ることは、スマホを見すぎないためだけではない。自分の怒りはどこから来たのか、自分の欲望は誰に育てられたのか、自分の一日は誰の利益のために使われているのかを考えるためである。

 この言葉が重要なのは、現代の自由を問い直すからである。選択肢が多いことは、たしかに自由に見える。だが選択肢の並べ方が他人に支配され、注意の向け方が仕組みに誘導され、気づけば一日が終わっているなら、それはどこまで自由なのか。自由とは、ただ選べることではない。何を見るか、何を見ないか、何を考え続けるかを、自分で取り戻すことでもある。

 注意経済の時代に生きるとは、自分の注意を守りながら、それでも世界とつながることである。完全に画面を捨てる必要はない。情報を拒絶する必要もない。ただ、自分の注意が有限であり、それが人生の材料であることを忘れてはならない。注意を払うとは、人生を払うことである。何に注意を向けるかは、何に生きるかを少しずつ決めている。注意経済とは、その当たり前すぎて見えにくい事実を、現代の中心問題として浮かび上がらせる言葉なのである。

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