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権威主義的資本主義ってなに? 哲学用語シリーズ57

権威主義的資本主義ってなに? 哲学用語シリーズ57
権威主義的資本主義ってなに? 哲学用語シリーズ57

第一章 権威主義的資本主義ってなに?

 権威主義的資本主義とは、市場をなくさずに、市場を統治の道具として使う体制である。そこでは、私有財産があり、企業があり、投資があり、株式市場があり、外国企業も活動している。街には商店が並び、人々は給料を得て、スマートフォンを買い、住宅ローンを組み、起業することもできる。だから外見だけを見ると、普通の資本主義に見える。しかし政治の中心には、権力の交代を許しにくい国家があり、言論、市民社会、司法、メディア、企業統治に強い影響を及ぼしている。つまり、経済は市場で動いているように見えるが、その市場の上には、いつでも介入できる政治権力が乗っている。

 この概念で大事なのは、国家が経済に関わること自体を問題にしているのではない、という点である。どんな資本主義国でも、国家は税を集め、道路を作り、教育に投資し、銀行を規制し、景気が悪くなれば財政出動をする。災害や感染症が起きれば、民間企業だけでは社会を支えられない。だから「国家が市場に介入するから悪い」と言ってしまうと、議論は粗くなる。問題は介入の有無ではない。問題は、その介入が公共目的のために行われ、批判され、修正され、場合によっては選挙で変えられるのか、それとも政権維持のために企業や資本や情報を組み替えるのかである。権威主義的資本主義の本質は単なる経済介入ではなく、国家が市場の審判ではなく主要プレーヤーとなり、その統制が政権維持と結びつく点にある。

 たとえば、サッカーの試合を考えると分かりやすい。通常の国家は、審判や競技場の管理者に近い。ルールを決め、反則を取り締まり、観客席の安全を守る。もちろん審判が完璧とは限らないが、少なくとも建前としては、どちらのチームにも同じルールを適用する。しかし権威主義的資本主義では、審判が特定チームの監督でもあり、スポンサーでもあり、選手の移籍先を決める代理人でもある。試合は続いている。観客もいる。ゴールも入る。けれども、どのチームが有利な笛をもらうのか、どの選手が干されるのか、どのニュースが流されるのかは、競技の外側にある政治的力によって左右される。

 資本主義という言葉は、しばしば自由と結びつけられてきた。市場で自由に売買できるなら、人々は国家から解放される。私有財産が守られるなら、個人は自立できる。企業が競争するなら、効率が上がり、豊かさが広がる。こうした考え方には、たしかに根拠がある。市場は、中央からの命令だけでは集めきれない情報を、価格や需要や利益を通じて社会に流す。パン屋がどれだけパンを焼くか、工場がどの商品を増産するか、投資家がどの会社に資金を出すかは、無数の小さな判断の集まりで決まる。市場は巨大な相談会のようなもので、誰か一人が全体を知っていなくても、社会はそれなりに動いていく。

 しかし、市場があることと、政治的自由があることは同じではない。ここが、この章の最初の急所である。商品を選ぶ自由があっても、政権を批判する自由がない社会はありうる。会社を作る自由があっても、政府の方針に逆らえば許認可や融資や取引先を失う社会はありうる。外国企業が投資できても、裁判所が政治権力から十分に独立していなければ、最後の安全装置は弱い。新聞が売られていても、重要な争点を報じられず、記者が逮捕や訴訟を恐れるなら、情報市場は自由ではない。つまり、消費者としての自由と、市民としての自由は、重なることもあるが別物なのである。

 権威主義的資本主義は、この二つの自由のずれを利用する。人々に商品選択の自由を与え、所得上昇の可能性を与え、都市の発展やインフラ整備を見せる。その一方で、政治的競争、独立メディア、市民団体、大学、司法、労働組合など、権力を問い直す回路を細くする。すると社会は、外から見ると活気がある。新しいビルが建ち、高速鉄道が走り、巨大企業が世界市場で競争し、若者はネット通販で買い物をする。だが、その活気の下で「この政策は間違っている」「この統計はおかしい」「この企業優遇は腐敗ではないか」と公然と言える場所が狭まっていく。

 中国型を考えると、この構造は見えやすい。改革開放以後の中国は、市場を導入し、外資を受け入れ、輸出産業を伸ばし、巨大な都市化を進めた。これは単純な計画経済ではない。民間企業もあり、起業家もおり、世界企業と競争する産業もある。しかし同時に、党が国家と企業の上位に立ち、国有企業、地方政府、政策金融、データ統制を通じて経済の方向を決める。民間企業も、純粋に民間の空間にいるわけではない。市場のエンジンは回っているが、ハンドルには党と国家の手が置かれている。

 ロシア型では、別の顔が見える。資源、軍需、国有企業、治安機構、政商が結びつき、政治権力に近い者が巨大な利益を得やすい。そこでは所有権があっても、それは完全に安全な盾ではない。政権に忠実である限り資産は守られるが、政治的に危険な存在になれば、裁判や規制や接収によって奪われることがある。資本主義は存在する。しかし、それは法の下での競争というより、権力への距離によって利益の流れが変わる資本主義である。市場はあるが、その市場には見えない身分差がある。

 シンガポール型は、さらに複雑である。高い官僚能力、清潔な行政、政府系投資会社、教育投資、住宅政策によって、非常に高い経済成果を実現してきた。だから、権威主義的資本主義は必ず失敗する、と言い切ることはできない。むしろ重要なのは、成功の理由を取り違えないことだ。成長を生むのは、抑圧そのものではない。国家能力、制度設計、国際市場への接続、教育、人材、金融、地理的条件が成果を生む。統制は、その成果を政治的正統性に変える装置として働く。つまり「自由が少ないから成長した」のではなく、「高い国家能力で成長し、その成果によって自由の制約を正当化した」と見るほうが正確である。

 ハンガリー型では、選挙が残っていても権威主義的資本主義が進むことが分かる。投票箱があるからといって、競争が公正だとは限らない。メディア所有、国家広告、規制機関、公共調達、補助金、大学や市民団体への圧力を通じて、政権側に有利な環境を作ることができる。野党は存在する。企業も存在する。新聞も存在する。けれども、資金、情報、制度の流れが片側へ傾くと、形式上の競争は残りながら、実質的な交代可能性は弱まる。独裁は、必ずしも軍靴の音とともに来るわけではない。広告費の配分、放送免許、大学認可、税務調査の形で来ることもある。

 では、権威主義的資本主義の何が危ないのか。第一に、資本配分が歪む。成長しそうな企業ではなく、政権に近い企業へ資金が流れる。社会に必要な事業ではなく、統治に都合のよい事業が優先される。第二に、情報が歪む。悪いニュースが上がらなくなり、統計が飾られ、記者や研究者が沈黙する。第三に、自己修正が遅れる。民主主義は騒がしく、非効率に見えることも多いが、失敗を批判し、責任者を交代させる回路を持っている。権威主義的資本主義は、短期的には速く動けるが、間違った方向へ走り始めたとき、ブレーキが弱い。

 この点は、会社の経営にも似ている。強い社長がいて、全員が黙って命令に従えば、会議は短くなり、意思決定は速くなる。業績が伸びている間は、それが優秀な組織に見える。しかし現場が不良品を報告できず、経理が赤字部門を隠し、若手が顧客の不満を言えず、役員が社長の顔色だけを見るようになれば、組織は静かに壊れていく。権威主義的資本主義も同じである。沈黙は安定に見える。だが、沈黙は納得とは限らない。異論が聞こえない社会は、問題がない社会ではなく、問題を言えない社会かもしれない。

 それでも、この体制が魅力を持つ理由はある。民主主義国では、政策決定に時間がかかる。反対派が批判し、裁判が起き、地方自治体が抵抗し、選挙のたびに方針が変わる。巨大インフラ、半導体、AI、軍事技術、気候変動対策のような分野では、国家が長期戦略を持ち、資金を集中させ、迅速に実行する体制が強そうに見える。だから権威主義的資本主義は、混乱した民主主義への対抗モデルとして現れる。「議論ばかりの自由社会より、結果を出す強い国家のほうがよい」という誘惑を生むのである。

 しかし、強い国家と、訂正されない国家は違う。国家が強いこと自体は、悪ではない。災害に対応し、貧困を減らし、教育を支え、産業を育てるには、国家能力が必要である。けれども、その国家が誰に説明するのか、誰から批判されるのか、どのルールで権力を制限されるのかが問われなければならない。権威主義的資本主義を理解するとは、国家介入をすべて拒否することではない。国家の力が、市民のための道具なのか、政権のための道具なのかを見分けることである。

 したがって、権威主義的資本主義を一文で言えば、こうなる。市場を残したまま、国家が資本、企業、情報を握り、経済の活力を政権維持に結びつける体制である。そこでは、資本主義は自由の味方であるとは限らない。市場は、人々を豊かにすることもあれば、支配を洗練させることもある。商品が自由に売られているからといって、社会が自由だとは限らない。高層ビルが建ち、株価が上がり、起業家が成功していても、誰が沈黙させられているのか、誰が資金を得ているのか、誰が失敗を認められないのかを見なければならない。

 権威主義的資本主義という言葉は、現代世界を読むための警報器である。それは「市場か国家か」という古い二択ではなく、「市場を誰が、何のために使っているのか」と問い直すための言葉である。市場はエンジンである。国家はハンドルを握ることがある。問題は、ハンドルが公共の道路を走るために握られているのか、それとも運転席に座る者を永遠に降ろさないために握られているのかである。権威主義的資本主義を考えるとは、この違いを見抜くことである。

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