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マルチチュードってなに? 哲学用語シリーズ61

マルチチュードってなに? 哲学用語シリーズ61
マルチチュードってなに? 哲学用語シリーズ61

第一章 マルチチュードってなに?

 マルチチュードとは、一つにまとめきれない多数者のことである。ただし、ただ人がたくさんいるという意味ではない。駅前の交差点に人があふれていても、それだけではマルチチュードとは呼びにくい。そこにいる人びとが、同じ命令に従って整列しているわけでもなく、同じ意見に染まっているわけでもないのに、何か共通の力を生み出しているとき、マルチチュードという言葉が必要になる。つまりこれは、ばらばらな人びとが、ばらばらなまま何かを作る力を指す概念である。

 この言葉を考えるとき、まず「人民」との違いが重要になる。人民とは、国家や政治の中で一つに数えられる人びとのことである。「われわれ人民」「国民の意思」「民意」といった言葉は、たくさんの人びとを一つの声のように扱う。もちろん、それは政治にとって便利である。選挙をし、代表を選び、法律を作るためには、人びとの声をどこかでまとめる必要がある。しかし、その瞬間に、まとめられない声、代表されない違い、同じ名前の中に入れられた異物が生まれる。マルチチュードは、その異物の側から政治を見直す言葉である。

 たとえば、災害が起きたあとに、各地からボランティアが集まる場面を考える。そこにいる人びとは、同じ職業でも、同じ思想でも、同じ地域の住民でもない。大学生もいれば、会社員もいる。退職した人もいれば、近所から来た人もいる。誰か一人の司令官が全員を完全に支配しているわけではない。それでも、炊き出しをする人、泥をかき出す人、情報を整理する人、車を出す人が、それぞれの能力に応じて動き始める。ここには、一つの体のように統一された集団ではなく、違いを残した協働がある。このとき見えてくる多数者の力が、マルチチュードである。

 では、マルチチュードは「群衆」と同じなのか。これも少し違う。群衆という言葉には、その場に集まった人びとという響きがある。ライブ会場の観客、駅に押し寄せる通勤客、バーゲンに集まる客は、群衆と呼べる。けれど群衆は、しばしば一時的で、感情に流されやすいものとして見られる。マルチチュードは、それよりも持続的で、創造的で、政治的な含みを持つ。人が集まるだけではなく、言葉を交わし、技術を共有し、生活を支え、何か共通の世界を作る。その働きに注目するための言葉である。

 もう一つ近い言葉に「大衆」がある。大衆は、新聞、テレビ、広告、市場などを通じて、同じような欲望や意見を持つ人びととして描かれやすい。大衆社会という言葉には、画一化された人びとという匂いがある。みんなが同じ商品を欲しがり、同じ番組を見て、同じ流行に乗る。そこでは、多数者は力を持つが、その力はしばしば操られやすいものとして考えられる。マルチチュードは、この見方に抵抗する。多数者は、ただ流されるだけの存在ではない。知り、作り、助け合い、時には制度の外側から新しい形を生み出す存在でもある。

 身近な例でいえば、インターネット上の共同作業がある。誰かが文章を書く。別の誰かが誤字を直す。さらに別の誰かが資料を追加する。プログラムなら、ある人がコードを書き、別の人が不具合を見つけ、また別の人が使い方を説明する。そこでは、全員が同じ能力を持っている必要はない。むしろ違う能力があるから、全体として豊かになる。オープンソースの開発、百科事典的な知識共有、二次創作の文化、災害時の情報マップなどは、マルチチュードを考えるためのよい入口になる。多数者は、受け身の群れではなく、作り手にもなりうる。

 ここで大事なのは、マルチチュードが「みんな仲良し」という甘い概念ではないことである。ばらばらな人びとが、ばらばらなまま動くのだから、当然ながら衝突も起きる。意見は割れる。方向性もずれる。声の大きい人が場を支配することもある。善意で始まった活動が、炎上や排除に変わることもある。多数者の力は、きれいな光だけではない。火と同じで、料理も作れば家も焼く。だからマルチチュードを考えることは、人びとの力をただ賛美することではなく、その危うさも含めて、現代の政治や社会を読むことである。

 この概念の背景には、近代政治の大きな問いがある。人びとはばらばらである。そのばらばらな人びとを、どうやって社会にするのか。ホッブズのような思想家は、強い主権者が必要だと考えた。多数者がそのまま存在すれば、争いが起き、恐怖が広がり、社会は壊れる。だから人びとは、自分たちの力を主権者へ預け、一つの人民になる。これは近代国家の基本的な発想である。マルチチュードは、この発想に別の問いをぶつける。人びとは本当に、誰かにまとめられなければ、共通の世界を作れないのか。

 スピノザ以後の流れでは、多数者は単なる危険物ではなく、社会を支える力として見られる。人間は理性だけで動く存在ではない。怒り、不安、希望、嫉妬、愛着、誇りによって動く。だから多数者は、ときに暴走する。しかし同時に、人びとは共通の感情や利益を通じて結びつき、制度を作り、知識を共有し、生活を守る。国家が人びとを上から作るだけではない。人びとの結びつきが、下から社会を作っている。この視点に立つと、政治は議会や政府の中だけにあるのではなく、日々の協働の中にもあることになる。

 マルチチュードを現代的な概念として広めたのは、アントニオ・ネグリとマイケル・ハートである。彼らは、グローバル資本主義の時代には、支配も国境を越えて広がると考えた。企業、金融、軍事、メディア、国際機関、法律、情報ネットワークが絡み合い、単純な一国の支配では説明できない秩序ができる。その中で抵抗する主体も、昔ながらの労働者階級だけでは説明しにくくなる。移民、非正規労働者、知識労働者、ケア労働者、学生、創作者、ネット上で協働する人びとが、違いを抱えたまま共通の力を作る。これが、彼らのいうマルチチュードである。

 パオロ・ヴィルノも、マルチチュードを考えるうえで重要である。ヴィルノは、現代の労働が、工場で物を作るだけではなく、言葉、知識、感情、態度、コミュニケーションを使うものになっていると見た。接客で空気を作る。会議で提案する。SNSで発信する。文章を書く。人の不安を受け止める。こうした働きは、完成品だけで測りにくい。人びとは、まるで舞台上の演奏者のように、その場で能力を発揮する。そうした社会では、人びとは国家の中に一つの人民として収まるだけでなく、さまざまな場所で協働し、すれ違い、つながる多数者として現れる。

 したがって、マルチチュードとは「一つにならない力」である。一つになれない弱さではなく、一つに潰されない強さである。全員が同じ旗を持ち、同じ歌を歌い、同じ命令で動く集団とは違う。むしろ、違う仕事、違う言葉、違う傷、違う欲望を持った人びとが、共通の問題を前にして、どこかでつながる。そのつながりは、いつも美しいとは限らない。混乱し、壊れ、失敗することもある。それでも、そこには代表や命令だけでは説明できない社会の力がある。マルチチュードとは、その力に名前を与える言葉である。

 この言葉を知ると、世界の見え方が少し変わる。ニュースでデモを見るとき、それをただ群衆の騒ぎとは見なくなる。ネット上の共同作業を見るとき、それをただ暇人の集まりとは見なくなる。地域の助け合いを見るとき、それをただ善意の美談とは見なくなる。そこには、違いを持った人びとが、制度の内側と外側を行き来しながら、共通のものを作る姿がある。人民、群衆、大衆という言葉では取り逃がしてしまうものをつかむために、マルチチュードという概念がある。世界は一枚岩ではない。むしろ、無数の島々が海の下でつながっている。マルチチュードは、その海底の連なりを見るための言葉なのである。

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