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ポリコレってなに? 哲学用語シリーズ65

ポリコレってなに? 哲学用語シリーズ65
ポリコレってなに? 哲学用語シリーズ65

第一章 ポリコレってなに?

 ポリコレとは、ポリティカル・コレクトネスの略である。日本語では「政治的正しさ」と訳されることが多い。けれども、この訳語だけを見ると、まるで政治家が正しいことを言うための標語のように見える。実際にはそうではない。ポリコレとは、人種、性別、民族、宗教、障害、性的指向、年齢などをめぐって、特定の人々を低く見たり、笑いものにしたり、存在しないもののように扱ったりする言葉や表現を見直そうとする考え方である。つまり、言葉の問題であり、同時に社会の問題でもある。

 たとえば、かつては「看護婦」という言葉が普通に使われていた。そこには、看護をする人は女性である、という前提が含まれている。もちろん、実際には男性の看護師もいるし、女性だけが人を世話する役割を担うわけではない。そこで「看護師」という言葉が使われるようになる。これは単なる言い換えではない。職業のイメージの中に入り込んでいた性別の偏りを、少しだけ取り除く作業である。言葉を変えることで、現実のすべてがすぐ変わるわけではない。けれども、言葉が変わらないかぎり、現実のほうも古い型に押し込められやすい。

 ポリコレの出発点には、「普通」とされてきたものへの疑いがある。社会ではしばしば、多数派の姿が中立の姿として扱われる。男性が標準、健常者が標準、多数派の民族が標準、異性愛者が標準、都市部の中産階級が標準。そういう前提は、はっきり宣言されるわけではない。むしろ、あまりにも自然なものとして空気の中に溶けている。ポリコレは、その空気に色をつける。見えなかった前提を見えるようにする。つまり「これは本当に普通なのか。それとも、ある立場の人が自分を普通だと思っているだけなのか」と問い返すのである。

 身近な例で考えるとわかりやすい。子ども向けの絵本や広告で、医者がいつも男性で、看護師がいつも女性として描かれているとする。ひとつひとつの絵は、たいした問題ではないように見える。けれども、それが何度も積み重なると、「人を治す中心人物は男性で、人を支える補助役は女性」という物語が、子どもの頭の中に静かに沈んでいく。誰かが命令したわけではない。けれども、社会はそうやって人の想像力に型をつける。ポリコレは、その型に手を伸ばす。「本当にその描き方しかないのか」と聞く。

 ここで重要なのは、ポリコレは単なる優しさではないということだ。もちろん、誰かを傷つける言葉を避けるという面はある。しかし、それだけなら「思いやりのある言葉遣い」で終わる。ポリコレが厄介で、同時に面白いのは、言葉の奥にある権力関係を見ようとするところにある。誰が名づける側なのか。誰が名づけられる側なのか。誰の笑いは許され、誰の痛みは「気にしすぎ」と片づけられるのか。そこまで見ようとするから、ポリコレは礼儀作法ではなく、社会を見るための道具になる。

 ただし、道具である以上、使い方には危険もある。ポリコレは、見えなかった差別を明るみに出す力を持っている。その一方で、道徳的な武器として使われることもある。「その言い方は差別的だ」と指摘することは必要な場合がある。だが、その指摘がいつも正しいとは限らない。ときには相手を黙らせるために使われる。ときには自分がより正しい側に立つために使われる。ときには組織や企業が、自分たちの印象をよくするための飾りとして使う。正義の看板は、弱い人を守る盾にもなるが、他人を殴る棍棒にもなる。

 この二面性を見落とすと、ポリコレは理解できない。ポリコレを嫌う人は、しばしば「言葉狩りだ」「何も言えなくなる」と言う。そこには、ただ差別的な発言を続けたいだけの人もいるだろう。しかし、すべてをそれで片づけるのは雑である。実際に、表現者が必要以上に萎縮したり、冗談や物語の複雑さが失われたり、最新の正しい言葉を知っている人だけが上から目線で裁いたりすることはある。包摂の思想だったはずのものが、新しい教養試験になることもある。入口に「多様性」と書いてありながら、合言葉を知らない者を門前払いする。これでは笑えない喜劇である。

 一方で、反ポリコレにも政治的な利用がある。「ポリコレは危険だ」と叫ぶことで、社会の変化に怒っている人々を集めることができる。映画の配役、教科書の記述、企業広告、トイレの表示、キャラクターの肌の色。そうした具体的な話題は、人々の感情を動かしやすい。税制や年金の話では眠くなる人も、自分の好きな作品が変えられたと感じると急に目が覚める。だから、ポリコレは賛成側からも反対側からも政治に利用される。正義の名で人を動員することもできるし、反正義の名で人を動員することもできる。

 では、ポリコレとは結局、よいものなのか、悪いものなのか。この問いに急いで答えようとすると、だいたい失敗する。ポリコレは、よい思想でも悪い思想でもなく、まずは社会を見るためのレンズである。レンズを通すと、これまで見えなかったものが見える。けれども、レンズに色がつきすぎれば、すべてが同じ色に見える。差別の構造を見つけるためのレンズが、やがて世界中を加害者と被害者だけに分ける眼鏡になることもある。だから必要なのは、ポリコレを信仰することでも、敵キャラとして退治することでもない。どの場面で、何を見えるようにし、何を見えにくくしているのかを考えることである。

 ポリコレの本質は、「誰が人間として数えられてきたのか」という問いにある。社会はすべての人を見ているようで、実際には見ていない人をたくさん作る。名前を呼ばれない人、いつも脇役にされる人、冗談の材料にされる人、説明抜きに異物として扱われる人。ポリコレは、そういう人々を見える場所に戻そうとする。その意味では、世界の解像度を上げる営みである。けれども、その解像度の高さを他人に見せびらかし、見え方の違う人を愚か者として切り捨てるなら、それはまた別の排除になる。

 だから、この本で扱うポリコレは、きれいな正義の話だけではない。差別を減らすための思想としてのポリコレ、創作を豊かにする技術としてのポリコレ、言葉を整えるための感覚としてのポリコレを扱う。同時に、道徳的優位を得るためのポリコレ、議論を封鎖するためのポリコレ、企業が好感度を買うためのポリコレ、反対派が怒りを集めるためのポリコレも扱う。ポリコレとは、光だけの言葉ではない。影だけの言葉でもない。社会が自分の顔を鏡で見たとき、そこに映るしみやしわまで含めて、どう受け止めるかという問題である。

 ポリコレとはなにか。ひとまず、こう答えられる。ポリコレとは、言葉や表現や制度の中に隠れている「誰を普通とするか」を点検する道具である。そして同時に、その道具自体が、政治、商売、権力闘争、道徳的な自己演出に使われることもある。包丁が料理にも脅しにも使えるように、ポリコレは世界を広げることもあれば、会話を細らせることもある。大事なのは、包丁を見て「料理はすばらしい」とだけ言わないことだ。同時に「包丁は危険だから捨てろ」とも言わないことだ。どこを切るのか、誰のために使うのか、誰がそれを握っているのか。ポリコレを考えるとは、その手元を見ることである。

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