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ルッキズムってなに? 哲学用語シリーズ66

ルッキズムってなに? 哲学用語シリーズ66
ルッキズムってなに? 哲学用語シリーズ66

第一章 ルッキズムってなに?

 ルッキズムとは、外見を理由にして、人間の価値や能力や性格まで判断してしまう考え方のことである。日本語では外見至上主義、あるいは外見差別と訳されることが多い。顔が整っている、背が高い、痩せている、若く見える、清潔感がある。そういう特徴が、本人の努力や人格や仕事の能力と結びつけられてしまう時、そこにはルッキズムがある。

 もちろん、美しいものを美しいと思うこと自体が、すぐに悪いわけではない。花を見て美しいと思う。映画俳優を見て格好いいと思う。好きな人の横顔に見とれる。そういう感覚まで消そうとするなら、人間はずいぶん味気ない生き物になる。問題は、美しさを楽しむことではない。問題は、外見を人間の中身を読むための答案用紙にしてしまうことである。

 たとえば、就職活動で証明写真を見た時、「この人は明るそうだ」「きちんとしていそうだ」「営業に向いていそうだ」と感じることがある。写真一枚で、声も、考え方も、働きぶりも、まだ何もわかっていない。それでも人は、顔つきや髪型や服装から、勝手に物語を作る。そこでは外見が、能力の代理指標になっている。代理指標とは、本当は別のものを見たいのに、それを直接見るのが難しいため、代わりに使われる目印のことである。

 この代理指標という考え方は、ルッキズムを理解するうえで大事である。人間は、他人の内面を直接見ることができない。だから、表情、声、服装、姿勢、話し方などから、相手がどういう人間かを推測する。それ自体は、日常生活に必要な働きでもある。道で怒鳴っている人に近づかない。店員の表情を見て、いま話しかけてもよさそうか判断する。初対面の相手に、失礼のない距離を測る。人間は外側の情報を使わなければ、社会の中で動けない。

 しかし、その推測が固まりすぎると、偏見になる。顔が怖いから乱暴だろう。太っているから自己管理ができないだろう。若く見えないから魅力がないだろう。肌が荒れているから不健康だろう。背が低いから頼りないだろう。見た目が派手だから軽いだろう。こうした判断は、すべて外見から人格や能力を読んだつもりになる行為である。顔は情報を持つが、顔だけで人生の全巻を読めるわけではない。せいぜい帯文を見ただけである。

 ルッキズムがややこしいのは、差別でありながら、日常の感覚に深く入り込んでいるところにある。人種差別や性差別なら、少なくとも建前としては悪いことだと認識されやすい。ところが、外見への評価は、「好み」「第一印象」「清潔感」「努力不足」「身だしなみ」という言葉に包まれやすい。そのため、差別が差別として見えにくい。外見を理由に不利に扱っていても、「感じがよくなかった」「華がなかった」「うちの雰囲気に合わない」と言い換えられる。

 たとえば、同じ内容の発言でも、見た目によって受け取られ方が変わることがある。整った外見の人が沈黙していれば、落ち着いていると思われる。そうでない人が沈黙していれば、暗いと思われる。美しい人が怒れば、芯が強いと思われる。そうでない人が怒れば、面倒くさいと思われる。同じ行動なのに、外見が解釈の色を変える。これは、外見が単なる飾りではなく、意味を生産しているということである。

 学校では、この構造がもっと露骨に現れる。顔、体型、身長、髪質、肌、声、服装は、しばしば笑いの材料になる。本人が嫌がっていても、「いじりだから」「冗談だから」「みんな笑っているから」と処理される。けれども、外見を笑われた人は、自分の身体を外から眺めるようになる。鏡を見る時、ただ自分を見るのではない。誰かの笑い声、クラスの空気、過去につけられたあだ名まで一緒に見る。身体は自分のものなのに、他人の視線が住みついてしまう。

 この時、ルッキズムは単なる差別ではなく、自己認識の問題になる。他人が自分をどう見るかを、いつの間にか自分自身が内面化する。太っている自分はだらしない。老けて見える自分は終わっている。顔がよくない自分は、恋愛を望んではいけない。そういう声が、外からの評価なのか、自分の本心なのか、だんだんわからなくなる。人は鏡を見ているつもりで、実は社会の採点表を見ていることがある。

 恋愛や婚活では、さらに難しい問題が出てくる。誰を好きになるかは、個人の自由である。魅力を感じるかどうかを、法律や道徳で完全に命令することはできない。好きでもない相手を好きになれと言われても、それは無理である。だから、恋愛における外見の問題は、採用や教育の問題とは同じようには扱えない。

 だが、恋愛が市場の形をとると、外見は急に点数になる。マッチングアプリでは、写真が入口になる。身長、年齢、体型、年収、趣味が一覧になり、人間は条件検索の対象になる。そこで外見は、出会う前にふるい落とすためのフィルターとして働く。好みの自由は残っている。だが、その自由が数字と画像の棚に並べられる時、人間は商品に近づいてしまう。ここに、現代のルッキズムの生々しさがある。

 SNSもまた、外見の価値を増幅する装置である。写真は加工できる。肌はなめらかにできる。輪郭は変えられる。目は大きくできる。日常の一場面ですら、見せるために編集される。しかも、その編集された外見に、いいね、再生数、フォロワー数という数字がつく。これによって、美しさは感覚ではなく、成績のように見えてくる。誰かの投稿が伸び、誰かの投稿が伸びない。人間の存在に、広告のクリック率みたいなものが貼られる。なんとも資本主義の手つきが細かい。

 ここで大事なのは、ルッキズムを「美しい人への嫉妬」にしないことである。美しい人が得をすることがあるとしても、美しい人そのものが悪いわけではない。美貌を持つ人もまた、美しさを維持しろ、老いるな、太るな、劣化するなという圧力の中に置かれることがある。ルッキズムは、美しくないと見なされる人だけを傷つけるのではない。美しいと見なされる人にも、美しさを失ったら価値が落ちるという恐怖を植えつける。

 つまり、ルッキズムとは、外見によって不利になる人を生むだけでなく、外見によって有利になる人まで、その外見に縛りつける仕組みである。美しさが特権になる社会では、美しさは同時に義務にもなる。若さが価値になる社会では、老いはただの時間の経過ではなく、敗北のように見なされる。痩せていることが自制心の証拠にされる社会では、体型は身体の特徴ではなく、道徳の成績表にされる。

 では、ルッキズムに反対するとは、何を意味するのか。それは、美しいと言うなということではない。外見に無関心になれということでもない。服装を整えるな、化粧をするな、筋トレをするな、写真を撮るなということでもない。むしろ問題は、外見を楽しむ自由と、外見で人を裁く暴力を区別することである。

 美しいものを美しいと言うことと、美しくないと見なした人を低く扱うことは違う。好みを持つことと、好みに合わない人を人格的に劣っていると見なすことは違う。身だしなみを整えることと、整えられない事情を持つ人をだらしないと決めつけることは違う。この違いを丁寧に分けることが、ルッキズムを考える第一歩になる。

 人間は外見を持って生きている。声だけの存在でも、純粋な魂だけの存在でもない。顔があり、体があり、年を取り、太ったり痩せたりし、病気になり、傷がつき、疲れも出る。外見はその人の一部である。だから、外見をまったく見ない社会はありえない。だが、外見をその人のすべてにしてしまう社会は、かなり危うい。

 ルッキズムとは、外見を見ることではない。外見しか見なくなることである。あるいは、外見を見た瞬間に、人格、能力、努力、魅力、将来性までわかった気になることである。そこでは、人間が一枚の写真に圧縮される。履歴書の写真、プロフィール画像、集合写真の端の顔、動画のサムネイル。そこから、人間の厚みが削られていく。

 この本では、ルッキズムを、単なるマナーの問題としてではなく、社会が人間をどう評価するかという哲学の問題として考える。なぜ人は外見で判断してしまうのか。なぜ美しさは得になり、時には義務になるのか。なぜ身体は自分のものなのに、他人の視線に支配されるのか。なぜ現代社会では、顔や体まで市場に出されるのか。

 ルッキズムを考えることは、美を否定することではない。美に、人間の価値を決める裁判官の席を与えないことである。顔は顔であり、身体は身体である。そこには魅力も、歴史も、個性も、生活の跡もある。だが、それだけで人間の価値を判決してよいわけではない。美は人生を彩ることがある。しかし、美に人生の身分証明書を作らせてはいけない。

 ルッキズムとは何か。ひとことで言えば、外見を、人間の価値を測るものさしにしてしまうことである。そして、そのものさしは、あまりに日常的で、あまりに便利で、あまりに気づきにくい。だからこそ危険である。人は他人の顔を見ているつもりで、社会から借りたものさしを当てていることがある。そのものさしを一度手に取って眺めること。そこから、この問題は始まる。

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