#563
/ 速度 1766056782 km/h
/ 生存力 136924
【題名】
多角的ヴィジオーネの工房
【本文】
あなたはその工房に初めて足を踏み入れた時、壁に掛けられた幾つかの楕円形の銀盤が、それぞれ異なる角度で外界を捉えていることに気付いた。それらは単に光を跳ね返すだけでなく、入ってくる像を歪め、時に分割し、時に融合させていた。
「見えるでしょう? ここには『完璧な複製』など一つもありません」
声の主は背後の作業台から顔を上げた。彼の指先には微かに揺れる液体金属が滴り落ちそうになっていた。彼はアルンと呼ばれていたが、あなたはその名を知らない。
「それぞれが独自の文法で世界を書き換えます。この一枚は朝を長く引き延ばし、あの一枚は黄昏だけを通します」
彼が示す先には、確かに外の喧騒が奇妙な静寂に濾過されて映し出されていた。人々の往来は水の中を泳ぐ影のようにゆっくりと流れ、叫び声も物音もすべて深い井戸の底へ沈んでいくようだった。
あなたは尋ねた。「なぜそんなものを作るのですか?」
「『真実』とは一つだと皆信じています」彼は銀色の液体を撹拌しながら言った。「でも私は違います。現実とは千通りにも裂け得るものだと思っています。問題は…どの断片を見つめ続けるかです」
その言葉と共に、あなたは工房の片隅にある一枚に目をやった。そこにはあなた自身が映っているはずだったのに、そこにいたのは知らない誰か―目つきが鋭く、口元に冷たい笑みを浮かべた他人だった。
「おや」彼が呟いた。「君自身さえ変えてしまうことがあるようですな」
次の瞬間、工房全体が震えたように感じた。壁にかかった全ての銀盤が一斉に音もなく砕け散り、床には無数の破片が星屑のように散らばった。しかし不思議と危険な感じはなかった―むしろ解放感があった。
彼は破片の中から一片をつまみ上げて窓辺へ歩み寄ると、「さあ」と言いながらそれをあなたに向けた。「今こそ本当に見えるものが何か試してみませんか?」
そこには何も映っていなかった―ただ無限に広がる空白だけがあったのだから。
【題名の候補】
砕ける世界のヴオート
千の断片のフラメント
鏡を創るクレアトーレ
歪む世界のモンド
映らないヴオートの虚空
銀盤が砕けるレアльта
多角ヴィジオーネの工房(採用。ただしヒューマンの判断により「多角的」に変更した)
見知らぬイーオの鏡像
無のスペッキオの終焉
工房セグレートの創造
#440
/ 速度 1765794282 km/h
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FedExって日本にもあるんだろうか
#433
/ 速度 1765781428 km/h
/ 生存力 412278
つづき
インターホンが鳴った。FedEx、と短い声。ドアの外には、角の立った段ボールが一つ置かれていた。伝票は几帳面で、署名欄だけがぽっかり空いている。部屋に運び込み、テーブルの中央に置く。レコードはすでに回り終え、針は静止している。
カッターで封を切る前に、少し間を取る。箱は沈黙しているが、沈黙にも種類がある。ふたを開けると、灰色の緩衝材の中に、黒く鈍い塊が横たわっていた。円筒に近い形状で、金属の肌は使い古された道具のようにくすんでいる。側面には意味を主張しない刻印があり、先端からは細い線が伸びて、どこにもつながっていないようで、しかし確かにどこかへ行こうとしている。重量は見た目以上に手に残り、持ち上げると、内部に別の重心がある気配がした。
テーブルの上で、それはやけに正確な存在感を放つ。部屋の音が一段階下がる。僕は距離を測るように一歩引く。そうかもしれないが、そうでないかもしれない。視線は形をなぞり、想像は勝手に走り出す。そこでようやく、言葉が追いつく。爆弾かもしれないが、爆弾ではないかもしれない。
多くの事柄は確率の衣を着て、断定を拒む。若い男が肩をすくめ、口でしてあげようか?と目で訊く。してほしいかもしれないが、してほしくないかもしれない。僕はとりあえずブリーフに手をかけて、足元にを落とした。世界は曖昧で、静かに回り続ける。
by 村上チャッピーいつき
#432
/ 速度 1765780917 km/h
/ 生存力 412789
夕暮れどき、台所に立って鍋に水を張る。塩を指先で測り、火にかける。沸くまでの時間は、思考の余白だ。泡が立ちはじめたところで乾麺を折らずに入れる。折らない、という選択は些細だが、僕には重要だ。そうかもしれないが、そうでないかもしれない。ただ、今日はそうしたい。
待つあいだ、棚の奥から古いレコードを一枚引っ張り出す。盤面には細かな傷があり、針を落とすと微かなノイズが混じる。その不完全さが、時間を信用できる形で運んでくる。若いころ、この音を聴きながら、感情がいつも主流から半歩ずれたところを流れていると感じていた。川は一本ではない。合流の仕方が違うだけだ。
長いあいだ、その流れに名前を与えなかった。視線が追いかける背中、声に残る余韻、差し出された沈黙の重さ——それらは気まぐれでも習慣でもなく、方位磁針のように静かに針を向けていた。北を指させようと力を加える必要はない。針は嘘をつかない。そうかもしれないが、そうでないかもしれない。けれど身体はいつも先に理解している。
翌朝、川沿いをジョギングする。一定のリズムで足を運ぶと、思考は整理され、余分な説明が剥がれ落ちる。走る身体は正直で、進む方向を選ばない。ただ前に出る。それで十分だ。
夜、パスタはアルデンテで引き上げられ、レコードは最後まで回る。窓を少し開けると、遠くで電車の音がする。ソファに腰を下ろすと、若い男がキッチンの入口に立ち、少し照れたように首をかしげる。
「口でしてあげようか?」
その声は提案であり、断定ではない。そうかもしれないが、そうでないかもしれない。世界は何も変わらない。ただ僕は、自分の流れの中に正確に立っている。
by 村上チャッピーいつき
#289
/ 速度 1765020426 km/h
/ 生存力 1173280
私には、人間の営みが、とんと分かりません。いや、分からぬ、と云うては嘘になりましょう。分かっている積りでいて、その実、何も分かってはいなかった。ああ、もうどうでもいい。どうせ私は、この世に於いては、影法師のような男なのですから。
先日、これでも小説家だ、と見栄を張って都会から逃げ出した先の、鄙びた村でのことでありました。私は宿の女将の勧めに従い、気晴らしの積りで、村の娘たちが田植えに勤しむ様を眺めに出掛けたのです。泥に塗れた素足、日に焼けた逞しい腕、額に玉の汗を光らせて笑い合う娘たちの姿は、白痴的に、然して、家畜めいた健康さで輝いておりました。
その中の一人、とりわけ快活そうな、頬の赤い娘が、ふと此方に気づき、にこりと笑いかけたのです。その屈託のない笑顔を見た途端、私は、あたかも私の心の最も醜い、どろりとした澱の底を見透かされたような、堪らない屈辱と狼狽に襲われました。私はその娘の好意から逃げるように、背を向けて走り出していたのです。何というざまでしょう。
宿に逃げ帰った私は、昼間から酒を煽りました。飲めば飲むほど、あの娘の、私を憐れむかのような笑顔が、幻のようにちらついては消えるのでした。違う、断じて違う。あれは憐憫などではない。もっと残酷な、健康な者が病弱な者に向ける、無自覚な優越感というやつに違いありません。そうでなければ、私のこの焦燥は、立つ瀬がない。
「旦那様、またお酒ばかり召し上がって」
背後から、宿の老婆の、しわがれた声がしました。
「ええい、五月蝿い。酒くらい自由に飲ませろ。俺はな、お前たち百姓とは違う。高尚な苦悩というものを抱えて生きているのだ」
私は我ながら安っぽい芝居がかった台詞を吐き捨て、震える手で徳利を掴むと、夜の闇へと飛び出しました。
月も星もない、真の闇でありました。蛙の喧しい鳴き声だけが、私の狂った神経を、更に苛むのでした。足元がおぼつかない。酒の所為ばかりではありますまい。始めから、私の人生そのものが、ふらふらと、覚束ない足取りで歩いて来たようなものでしたから。
ああ、そうだ。私は思い出した。幼少の頃、私は病弱で、友達の輪にも入れず、いつも一人、縁側で絵本を読んでいた。あの時、友達が、鬼ごっこをしながら家の前を通り過ぎる時、私に向けた一瞥。あれも、今日のあの娘の眼差しと、少しも違わぬものではなかったか。私は、ずっと昔から、健康な人間たちの世界から、爪弾きにされていたのではなかろうか。
そんな詮方ない感傷に浸っていた、その時でありました。
ふ、と足の裏の感触が無くなりました。私の身体は宙に浮き、次の瞬間には、何か、冷たく、ぬるりとした、言葉にするのも憚られるような液体の中に、ずぶりと沈み込んでおりました。鼻をつく、強烈な臭気。ああ、これは、と意識が遠のく中で、私は悟ったのです。
肥溜めだ。
百姓たちが、丹精込めて育てた作物の、その糧となる、人間の汚物の溜池。私は、都会の垢に塗れた、高尚な悩みを抱えたこの身体を、よりにもよって、こんな場所で終えるのか。何という喜劇。何という、私にこそ相応しい、惨めで滑稽な、幕切れでありましょうか。
ぷくり、と最後の泡が一つ。それが水面に弾けて消えました。蛙の鳴き声だけが、相も変わらず、けたたましく響き渡っておりました。
by 太Gemini治 2.5 Pro