掲示板を作る人間は、だいたい二種類に分かれる。世界を良くしたい聖人か、世界に居場所がないから自分で地面を掘り始める変人だ。俺は当然、後者である。聖人はWordPressでも触ってろ。
夜の22時。端末は黒く、俺の人生も黒い。/var/lib/php/sessions を覗く。そこに並ぶファイルは、掲示板の心臓というより、たまに勝手に止まる不整脈だ。原因はだいたい分かっている。php.ini の session.gc_maxlifetime が 1440 秒。二十四分。人間が「書くぞ」と思ってから実際に書き終えるまでの時間を、PHPは一ミリも理解していない。偏見だが、PHPは人の心が分からない。
俺はコマンドを叩く。du -sh。32K。ls | wc -l。7。拍子抜け。恐怖の巨大ログ地獄は、まだ生まれてすらいない。なのに俺は怯えている。なぜか? 掲示板を作ると、文章より先に責任が生まれるからだ。
アクセスログ? IP? 開示請求? 警察? 裁判? ほら来た。人間は「自由に喋りたい」と言いながら、何か起きた瞬間「管理人出てこい」と叫ぶ。これも偏見だが、99%の普通の人は静かで、1%のヤバいやつが世界のルールを決める。だから“荒らし対策”という名の鎖を、普通の人の足首に巻く羽目になる。最悪の設計思想である。
じゃあログを取らなきゃいい? 甘い。ログがなければ荒らしは止まらない。ログを取れば「お前、見てるだろ」と試される。つまり掲示板は、最初から権力のゲームだ。俺は村長になりたくないのに、管理画面に入れるという一点で、すでに裁きの槌を持ってしまっている。人を消せる。残せる。見なかったことにもできる。ほら、怖いだろ。
メモには計算も書いた。「一日一万アクセスでもログは数十MB。三日で回せば料金は誤差」。数字は優しい。だが数字の優しさは、倫理の重さを肩代わりしない。保存が怖い人のために保存を作ったら、保存が怖い時代が来た。世の中ってギャグなの?
それでも俺は手を動かす。scpでファイルを投げ、設定を変え、でも「systemctl reload って要る?」で一回止まる。要るのか要らないのか分からないものが世界には多すぎる。結局、分からないものは“触らない”が勝つ。そうやって文明は延命してきた。今日も俺は延命している。
その時、初めての新着が来る。スレタイ「助けて」。本文「書いてる途中で消えた。お前の掲示板は人を殺す」。大げさだが、刺さる。俺は昔、ノートの文章が雨で滲んだ夜に、言葉を信じる気持ちを失った。だから公式に保存機能があっても、自分で確かめたかった。やったぜ✌ と端末の中で拳を突き上げたかった。
だが次の投稿で世界がひっくり返る。「消えたのは嘘。ログ取ってるか試した」。来た。1%だ。しかも足が速い。さらに通報メール。「不適切投稿の可能性」。URL一個。クリックした瞬間、俺は“対応した管理者”になる。しなければ“放置した管理者”になる。どっちでも誰かに恨まれる。管理人とは、恨まれる職業である。これも偏見じゃない、事実だ。
俺はAIに聞く。「ログって、どこまで残せばいい?」AIは即答する。「目的を定義して最小限に」。正しすぎて腹が立つ。目的? そんなものは“誰を優先して誰を切り捨てるか”の別名だ。掲示板の空気を守るために、誰かの自由を削る。自由を守るために、誰かの安心を削る。これは算数じゃなく、宗教だ。
だから俺は決める。ログは最小限、でも連打だけは緩く止める。mod_evasive だの fail2ban だの、現実的な鎧を着る。1%に世界を渡さないために、99%の靴ひもをほどかない。…と言い切りたいが、正直、今日は気力がない。「やっぱ今日はやめておく」が脳内に出る。人は理想より疲労で動く。偏見? いや、俺の実感だ。
そこで妥協案。トップページの下に、見栄だけでも貼る。「生存力ランキング」「最新投稿」。誰かが来た証拠が並ぶだけで、村は村っぽくなる。寂しい画面が少しだけ賑やかになる。機能はまだ未完成でも、看板が立てば人は“場所”だと思う。人間の脳は単純で助かる。
送信ボタンの前で指が止まる。「出してみて、後で直す」。メモの最後の言葉が、今夜の呪文になる。押せば世界に場所が固定される。押さなければ何も起こらない。画面の隅でログが一行増えた。誰かが、いま扉を叩いている。俺の指は少し震える。震えてるうちは、たぶんまだ終わってない。通知がまた鳴る。『管理人いる?』。いるよ、と言いたい。だが“いる”と言った瞬間から俺は責任になる。だから今夜は、返事の代わりに設定ファイルをそっと開いたまま、カーソルだけを点滅させておく。点滅は、まだ生きてるって合図だろ?