#1888
/ 速度 1771028819 km/h
/ 生存力 365226
なぜ呼ばれたんだw
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#1887
/ 速度 1771006997 km/h
/ 生存力 387048
明日から始まる三日間、俺、健太の人生は大きく揺れ動く。
クラスで一番のギャル、七海と「特別な時間」を過ごすことになったのだ。
もしこのミッションに失敗すれば、俺の青春はSNSで顔を晒され、永遠にネタにされるという屈辱が待っている。七海からの「明日、うち来いよ?マジで、絶対だから」というLINEを握りしめ、震える手で「了解」と返信した。「どうして俺なんだ?」その疑問が、頭の中でけたたましく鳴り響いた。
七海との関係は、正直、最悪と言っていいほど最悪だった。授業中は俺のことを見下すような視線を送り、休み時間には友達と俺の悪口を言っているのが聞こえてくる。そんな彼女が、なぜ俺を家に呼んだのか、全く見当がつかない。もしかしたら、何か企みがあるのかもしれない。彼女の予測不能な行動は、俺の心をさらに不安にさせた。
「今日の夜、うちで暇なら来いよ。なんか、頼みたいことあんだわ」
七海は、俺の返事を待つこともなく、一方的に電話を切った。頼みたいこと?一体全体、何なんだ?彼女が俺を家に呼んだ本当の理由が、全く掴めない。もしかしたら、俺の弱みを握っていて、それをネタに何かを強要するつもりなのかもしれない。そう考えると、明日の「特別な時間」が、さらに恐ろしいものに感じられてきた。
「ま、いっか。」
俺はスマホを握りしめ、半ば強引に自分に言い聞かせた。七海に自宅へ招かれた目的は、明日からの三日間を乗り切るための情報収集と、彼女の真意を探ることだ。失敗すればSNSで顔が晒され、永遠にネタにされるという代償を考えれば、今すぐ行動を起こすしかなかった。彼女の普段のSNS投稿を漁ることで、何か手がかりが見つかるかもしれないと期待した。彼女の意図を少しでも理解したい一心から、俺は彼女の過去の投稿を遡り始めた。
SNSをスクロールするうち、七海が最近、ある「イベント」に向けて必死になっているらしいことが分かった。そのイベントとは具体的に何なのか、そしてそれがなぜ俺を自宅に招く理由に繋がるのかは不明だが、これが「頼みたいこと」と関係している可能性が高い。このイベントを成功させることが、俺の「特別な時間」を乗り切るための鍵になるだろう。
七海のSNSには、キラキラした日常や友達との楽しそうな写真が溢れていた。しかし、その中に紛れ込むように、ある特定のイベントに関する投稿が目についた。それは、派手な装飾や準備の様子が伺えるもので、七海が「マジで、人生かかってる」とまで書き込んでいることから、彼女にとって非常に重要なものであることは間違いないだろう。このイベントが、俺を自宅に呼んだ理由とどう結びつくのか。その核心に迫りたい一心で、俺はさらに過去の投稿を掘り下げた。
さらに遡ると、数週間前に「このイベント、マジで誰か手伝ってくんねーかなー」という投稿を発見した。その直後に、彼女の友達らしき人物との間で「あのコミュ障の男子なら、ちょうどいいんじゃね?」といったやり取りがあった。「コミュ障の男子」、それが俺のことを指しているのは明白だった。
「コミュ障の男子」──その言葉が、俺の胸に重くのしかかった。七海が俺を自宅に招いたのは、この「イベント」の手伝いをさせるためだったのだ。SNSでの評判を気にしている俺にとって、この事実を知ったことは、今後の行動を左右する重要な新情報だった。彼女の真意を探るという目的を達成するため、俺は七海の自宅へ向かう決意を固めた。一体、どんな手伝いを頼まれるのか、そしてそれを断ることはできるのか。そんな疑問が、自宅へ向かう足取りを重くしていた。
七海が必死になっている「イベント」の全貌はまだ掴めていないが、それが彼女にとって人生をかけた一大イベントであることは、投稿の文面から察することができた。俺を「コミュ障の男子」として利用しようとしている彼女の企みは、俺がこのミッションを乗り切る上で大きな障害となるだろう。
七海の自宅へ向かう道すがら、俺はスマートフォンの画面を睨んでいた。彼女の「頼みたいこと」が具体的に何なのか、そして俺の「人生最大のミッション」が何を意味するのか、まだ何も分かっていない。失敗すればSNSで顔を晒され、永遠にネタにされるという屈辱が待っている。
この状況を打開するため、俺は七海の真意を掴むべく、彼女の自宅へと向かっていた。彼女の家は、この街でも有名な高級住宅街にあり、その豪邸ぶりは、俺のような庶民には場違いに思えた。
「ま、せいぜい頑張んなよ、モテない君?」
玄関で俺を迎えた七海は、いつものように俺を見下すような笑みを浮かべていた。彼女の言葉は、俺をさらに不安にさせた。この豪邸に足を踏み入れた目的は、彼女が俺に依頼しようとしている「イベント」の詳細を聞き出し、可能な限り有利な条件を引き出すことだ。もしこの交渉が決裂すれば、SNSでの顔晒しという最悪の結末が待っている。だからこそ、今すぐ彼女の真意を正確に把握する必要があった。彼女の悪意に満ちた「モテない君」という呼びかけは、一体何を意味するのだろうか?
「んで、俺に頼みたいことって、具体的に何なんだよ?」
俺は努めて冷静に問いかけた。彼女が俺を「コミュ障」と見ているなら、ここで怯むわけにはいかない。
彼女はソファに深く沈み込み、指先でグラスを弄びながら、俺に視線を向けた。
「別に、大したことじゃないんだけど」
と、彼女はあくまで他人事のように口を開いた。その態度は、俺を自宅に招いたことへの説明責任を放棄しているかのようだ。俺の「人生最大のミッション」が、彼女にとっては些細な頼み事であるらしい。このギャップが、彼女の真意をさらに掴みにくくさせている。一体、彼女はこの「大したことじゃないこと」で、俺に何をさせようとしているのだろうか。
「大したことじゃないって言うなら、なんでわざわざ俺を呼んだんだ?」
俺は、彼女の言葉の裏にある真意を探ろうと、さらに踏み込んだ。七海が必死に「イベント」と呼ぶものが、俺への依頼とどう結びつくのか、まだ核心は見えない。俺を自宅に呼んだこと自体が、彼女の「イベント」における重要な一手なのだろう。七海はグラスを傾け、少しだけ表情を曇らせた。彼女の真の目的は、俺をこの「イベント」に巻き込むことにあるようだ。このままでは、SNSでの顔晒しという最悪の結末が待っている。だからこそ、俺は今、この場を切り抜けるための糸口を見つけなければならない。
「だって、他に頼める人、いなかったんだもん」
七海は、拗ねたように唇を尖らせた。その表情は、先程までの余裕とはかけ離れている。彼女の口から「他に頼める人がいなかった」という言葉を引き出したことは、俺にとって大きな進展だった。
「いなかった」? 普段、クラスの中心にいるような七海に、そんな言葉があるのだろうか。俺は彼女の言葉の真意を測りかね、訝しげな視線を送った。彼女が必死になっている「イベント」とは一体何なのか、そしてなぜ俺がその「代役」に選ばれたのか。
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#1482
/ 速度 1767691062 km/h
/ 生存力 3702983
オタクなギャルに人生を変えられた話をする。
人生なんて大げさな単語は信じてなかった。変わるのはいつも他人で、俺は観測者。部屋の中で画面を眺めてただけだ。
その観測者の前に、ある日、まつげバッサバサのギャルが立った。クラスの藤崎ミオ。見た目は陽キャの暴力。中身は水流オタク。
「ねえ、あんた。水道の蛇口、ちゃんと見たことある?」
「……見たことあるけど」
「それ、見たことあるって言わない。『見てない』の丁寧語だから」
ミオは俺の腕をつかみ、理科室へ引っ張った。バケツとホースと透明なアクリル板。
「今日は層流と乱流。あんたの人生も、たぶん乱流。知らんけど」
ミオはホースの先を細くして水を落とした。最初は一本の糸みたいにまっすぐ。少し流量を上げると、ぷるぷる震えて、途端にぐちゃっと崩れた。
「これが臨界。レイノルズ数ってやつ。速度×長さ÷粘性。数字が上がると、だいたい荒れる」
「荒れるって言い方がギャル」
「ギャルは科学をやらないと思ってる? 偏見、しょっぱ。海水かよ」
ミオはアクリル板を斜めにして水を流し、表面に細い筋を走らせた。筋が途中で分かれて渦になって、また合流する。
「流線。目で追える。ね、きれい。あんたの思考もこれくらい可視化したら?」
水はただ落ちるだけなのに、“形”があった。見えない法則が、透明なものに輪郭を与えていた。
「ベルヌーイの定理って知ってる?」
「名前だけ」
「圧力と速度と高さ。合計がだいたい保存される。つまり、どこかで加速したら、どこかで軽くなる。あんたもさ、重いとこにいるなら、加速できる場所探しな」
冗談みたいな口調なのに、言葉だけが妙に沈んだ。
俺は笑って誤魔化そうとして、できなかった。
「じゃあ、俺はどこを細くすればいい?」
ミオは蛇口をひねった。水音が少し高くなる。
「知らん。自分で測れ。レイノルズ数は他人が決めない」
そう言って、ミオは俺の手にホースを握らせた。冷たいゴムの感触。水の振動が掌に伝わる。
「今夜、川行こ。流れは嘘つかないから。あんたの言い訳より、ずっと正直」
外は冬の夕方で、空は薄い鉛色だった。俺は頷く代わりに、流量を少しだけ上げた。糸みたいな水が、また震え始める。
崩れる前の、その瞬間がいちばん美しいと、ミオが言った。
俺はその“前”に立ちたいのか、崩れた後を見たいのか、まだ決めていない。
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#1480
/ 速度 1767690092 km/h
/ 生存力 3703953
オタクなギャルに人生を変えられた話をする。
人生変えるほどのイベントが起きる前にだいたい布団が勝つ。俺の生活なんて、昼と夜の区別が薄いまま溶けていくスライムみたいなもんで、外に出る理由は「ゴミ捨て」と「たまにコンビニ」くらいだった。
そのコンビニ帰り、寒い夜の歩道の端で、同じクラスのギャルがしゃがみこんでた。髪は明るい、まつげは派手、息は白い。なのに見てるのはスマホじゃなくて、地面。やたら真剣。俺は「落とし物でもした?」って一歩引きながら聞いた。
「見て。ダンゴムシ」
ギャルが指差した先、街灯の輪の中に、黒くて丸いのが何匹もいた。濡れたアスファルトの縁、コンクリの割れ目。冬にダンゴムシ? 季節感バグってない? って顔をした俺に、彼女はドヤ顔で言った。
「こいつらね、実は“丸まる”のが防御だけじゃないの。湿度キープ。体の水分守ってる。かわいくて賢い。最強」
最強かどうかは知らんが、ギャルが語ると最強っぽく聞こえるのが腹立つ。俺は「へえ」で済ませるつもりだったのに、彼女は俺の袖をつまんで引っ張った。
「手、出して」
「は?」
「いいから。ほら。丸まる瞬間、見せてあげる」
俺の掌に乗せられたダンゴムシは、思ったより軽くて、ちょっと冷たかった。生き物っていうより小さな機械みたいで、でも足はちゃんと動いてる。俺がビクッとすると、そいつはくるっと丸まって、完璧な球になった。
「かわいーでしょ。ね、世界ってさ、こういうのがそこらに転がってんのよ。なのにみんなスマホばっか見てんの、もったいなくない?」
ギャルが言うと、なんか説教じゃなくて宣言に聞こえる。俺は黙って掌の球体を見つめた。丸まったダンゴムシは、俺の体温で少しだけ温まっていく気がした。
「あんたさ、最近ずっと欠席じゃん」
急に刺してくる。ギャルは人の心にキックを入れる天才か。
「別に」
「別に、って言う人ほど別にじゃない。ねえ、丸まってないで出てきなよ。ダンゴムシみたいにさ。危ないときは丸まっていいけど、ずっと丸いままだとさ、景色、見えないじゃん」
俺は笑いそうになった。なんだその例え。ギャルに人生を説かれるとか、恥のフルコンボだ。でも、掌の上の小さな球を見てると、変に納得してしまう自分がいた。
「明日、学校来いよ。理科室の裏、石が多いから。ダンゴムシ会議できる」
「会議って何だよ」
「生存戦略会議。議題は『どうやって冬をやり過ごすか』。人間にも効く」
彼女は笑って、俺の掌からそっとダンゴムシを地面に戻した。球体はしばらく動かず、俺が息を止めると、ゆっくりほどけて、足を出し、暗がりへと消えていった。
「ほらね。出てきた」
ギャルは勝ち誇ったみたいに言う。俺は「たまたまだろ」と言いかけて、やめた。たまたまでもいい。理由なんて後からつければいい。
帰り道、コンビニ袋が妙に軽かった。家に戻れば、いつもの部屋、いつもの布団、いつもの俺が待ってるはずなのに、頭の中に「丸まってないで出てきなよ」が残って、うるさい。
翌朝、目が覚めた。時計は、普段ならとっくに昼を回っている時間じゃない。カーテンの隙間が明るい。俺はしばらく天井を見て、ため息をついた。
……行くのか? 学校。
布団の中で丸まりかけたとき、昨夜の掌の感触がよみがえった。冷たくて軽いのに、ちゃんと生きてた、あの球体。
スマホが震えた。通知。ギャルから一言。
「今日、雨。ダンゴムシ大量発生チャンス。遅刻すんな」
俺は返信しないまま、スマホを置いた。返したら、もう逃げ道がなくなる気がしたからだ。代わりに、ゆっくり起き上がって、窓を開けた。湿った空気が入ってきて、遠くで車の音がした。
玄関に向かう途中、靴箱の前で立ち止まる。外に出るのは怖い。だから、少しだけ丸まる。深呼吸して、ほどける。
俺は靴ひもを結んだ。たぶん今日も、何も変わらない。たぶん。だけど扉の向こうには、石の多い理科室の裏と、ダンゴムシ会議と、やたらうるさいギャルがいる。
それだけで、昨日までの世界より、ほんの少しだけマシな気がした。
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#1479
/ 速度 1767689267 km/h
/ 生存力 3704778
オタクなギャルに人生を変えられた話をする。
最初は笑い話のはずだった。人生を変える、なんて言葉は胡散臭い。変わるのはいつも他人の人生で、自分は見学席にいる。そう思ってた。
俺は二十歳からずっと家にいた。外に出る理由がないというより、出る理由を探すのが面倒だった。部屋の空気はぬるく、時間だけが正確に進む。画面の中なら何回でも人生をやり直せるのに、現実のセーブデータは消せない仕様だ。クソゲー。
そんな俺の部屋に、ある日いきなりギャルが来た。正確には、玄関のチャイムが鳴って、母が「従妹さんよ」と言って連れてきた。黒髪じゃない。まつげが長い。ネイルが光ってる。香水の匂いが先に入ってきた。
「うわ、マジで洞窟じゃん。配線きも。てか、モニター何枚あんの? オタクの城すぎ」
言い方は最悪なのに、声が明るいせいで腹が立たない。いや、立つべきなのに立たない。そこが一番ムカつく。
「……帰れ」「無理。今日からここ、うちの作業部屋ね。Wi-Fiパスどれ?」
親が勝手に決めたらしい。俺の部屋の一角を、彼女の「一時避難」に使うと。家庭の事情ってやつだ。俺の人生、サブクエストに巻き込まれて本編が崩壊するタイプ。
彼女は自分を「ミユ」と名乗った。高校中退で、バイトを転々として、家が揉めて、しばらくここにいる。語尾は軽いけど、目は妙に落ち着いていた。いろんな修羅場を見た人の目だ。
それでいて、彼女はオタクだった。
夜、俺がイヤホンでゲームの音だけ聞いてると、背後から覗き込んでくる。
「それ、昔のRPGじゃん。神作。てか主人公の初期装備ださすぎて笑う」「知ってんのかよ」
「当たり前。うち、攻略wiki編集してたし。てか、あんたそのビルド弱い。やり直し」
人の人生みたいに言うな。と思ったけど、彼女が示したスキル振りは理にかなっていた。悔しいけど勝てるようになった。たったそれだけで、脳が報酬を出す。俺はそれに弱い。
数日で、部屋の空気が変わった。ミユは物を捨てない。むしろ増やす。段ボールからフィギュアと同人誌と工具と、訳のわからない基板が出てくる。俺の「何もしない空間」に、彼女の「何かをする気配」が入ってきた。
なのに、だんだん悪くなった。
最初の崩れは、夜の電話だった。ミユのスマホが震え、彼女はベランダに出ていった。薄い壁越しに声が聞こえる。笑ってない。短く「無理」「やめて」「来ないで」と繰り返してる。俺は耳を塞いだ。関わると面倒だ。そういう最適化で今まで生き延びてきた。
次の日、ミユはいつも通り明るかった。
「ねえ、今日さ、コンビニ行こ。新しいエナドリ出た」「お前一人で行けよ」
「無理。うち、外出るの怖い。…はい、これ命令。ついてこい」
命令の形をしたお願いだった。俺は断れなかった。断る理由がない、っていう卑怯な言い訳で。
外は眩しくて、音が多かった。道路の匂いが臭い。人が視界に入るだけで胃が縮む。俺は思った。やっぱり無理だ。帰ろう。部屋に戻れば安全だ。
ミユは俺の半歩前を歩いた。ギャルの歩き方って、なぜか世界に勝ってる感じがする。俺はその背中だけ見て、足を動かした。コンビニまで三分。それだけで汗をかいた。
帰り道、向こうから男が来た。年上で、帽子を深く被って、ミユの方を見た。ミユの動きが一瞬固まる。
「ミユ。連絡無視すんなよ」
彼女は笑顔を作った。「やだ、偶然。今忙しいんだわ」
男は俺を見て、鼻で笑った。「誰だよそれ」
ミユが俺の腕を掴んだ。爪が食い込む。「友達。ね、帰ろ」
その時、俺は何も言えなかった。言うべきだった。守るとかじゃない。単に「やめてください」って口にするだけでいい。でも喉が動かなかった。俺は、いつもの俺だった。
家に戻ると、ミユは黙って洗面所に行って、戻ってこなかった。部屋の隅で膝を抱えて座ってた。ギャルってこういう時もギャルでいてくれよ、と最低なことを思った。彼女が明るいから、俺は「何も感じない人間」になれていたのに。
「ごめん」とミユが言った。「巻き込んだ」
「……別に」
「別にって言うな。別に、じゃないでしょ」
刺さる。刺さるけど、抜けない。俺は抜き方を知らない。
その夜、ミユは初めて泣いた。声を出さず、顔も崩さず、ただ涙だけが落ちた。綺麗でもなんでもない。現実だ。俺の部屋で起きてる現実。
「うちさ、逃げるの得意だったんだよね」「だから、ここ来た」
「でもさ、逃げる先って、だんだん狭くなるんだわ。最後、布団の中だけになる」
その言葉が、俺の胸の奥で変な音を立てた。俺の世界は、もう布団の中だった。彼女は今、そこへ落ちてきている。俺は見学席にいられない。
次の日から、男は何度か家の近くに来た。母が怖がり、父が怒鳴り、家がぎくしゃくした。俺は「俺のせいじゃない」と言いたかった。実際、俺のせいじゃない。でも、俺の部屋で起きている以上、俺の世界の問題だった。
ミユは言った。「警察とか、ムリ。だるい」
その「だるい」は、面倒という意味じゃない。怖い、恥ずかしい、諦めてる、全部が混ざったやつだ。
じゃあどうする。俺は何もできない。できないけど、何かしないと、もっと悪くなる。最悪のエンドは見えてる。嫌だ。俺は嫌だと思った。嫌だと思える自分が、まだ生きてる気がした。
俺は、ネットで調べた。ストーカー、接近禁止、相談窓口。夜中にキーボードを叩くのは得意だった。現実の攻略wikiを、初めて開いた。画面の向こうに「人」がいる文章は、いつものゲームより怖かった。
「ミユ、これ、読む?」「なにそれ」
「相談先。匿名でもいけるって」「……そんなのあるんだ」
彼女の目が少し動いた。ほんの少し。けど、その少しは大きい。俺が外に出られた時みたいに。
次の週、俺たちは市の相談窓口に電話した。ミユが話して、俺がメモを取った。俺がメモを取る姿を見て、ミユが笑った。
「オタク、こういう時強いじゃん。やば」「褒め方が雑」
「雑なのがうちの良さ」
警察沙汰にはしなかった。いきなりは無理だった。でも、相談員が言った。「段階でいい。できることを増やす」。攻略wikiみたいな言い方だと思った。
俺は、それで良かった。完全勝利のエンディングじゃなくても、バッドエンド回避ができれば十分だ。現実は周回前提じゃない。それから、男は少しずつ来なくなった。理由は分からない。相談が効いたのか、飽きたのか、別の獲物を見つけたのか。理由なんて、現実は説明してくれない。クソ仕様。
ミユは外に出られる日が増えた。俺も、ついでに出るようになった。ミユが「ついで」として俺を連れ出すから、俺は「自分のために外に出た」って事実を回避できた。ずるい。でも助かった。
ある夕方、ミユが言った。
「ねえ。うち、出てくわ。友達ん家、住めそう」「そうか」
「寂しい?」「別に」
「またそれ。……まあ、いいや。あんたさ、これからどうすんの」
どうする。俺の世界は、また狭くなるかもしれない。布団の中に戻るのは簡単だ。期待値だけ見れば、その方が楽だ。失敗しない。傷つかない。代わりに、何も起きない。
でも、ミユがこの部屋に入ってきたことで、一度だけ「イベント」が起きた。悪くなって、怖くなって、それでも少しだけ好転した。人生はクソゲーでも、攻略情報はある。仲間も、たぶん手に入る。
俺は言った。自分でも驚くほど小さい声で。
「……散歩ぐらいは、続ける」
ミユは目を細めた。「え、えら。泣ける。オタク更生ルート入ったじゃん」
「お前のせいだ」「うん。うち、そういう女だから」
彼女は荷物をまとめて、玄関で靴を履いた。振り返って、いつもの軽口みたいに手を振った。
「じゃ、またね。生きろよ、洞窟」「お前もな、ギャル」
ドアが閉まって、部屋は静かになった。静かすぎて、俺は少し怖くなった。けど、手元にはメモ帳が残ってる。相談窓口の番号と、次にやるべき小さなことが書いてある。ゲームのクエストみたいに。
俺は窓を開けた。冷たい空気が入ってきた。世界は相変わらずうるさくて、眩しくて、臭い。なのに、ほんの少しだけ、外に出てもいい気がした。
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#1420
/ 速度 1767510473 km/h
/ 生存力 3883572
@#1402
https://ushino.jp/thread.php?thread_id=170#p1402
これがいちばん商品性あるな
1冊読み切り長編小説にして、くわしい人たちに査読してもらえば、その人たちと周りの人たちを中心にして100部くらいは売れる。
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#1407
/ 速度 1767506117 km/h
/ 生存力 3898566
オタクなギャルに人生を変えられた話をする。
俺の人生はもやしと同じだ。日陰で、白くて、細くて、風が吹いただけで折れそうで、しかも自分では「折れてない」と思い込むのが得意。つまり、性格まで栄養不足だった。
教室というのは食物連鎖の展示場で、俺は常に下層。上層は光合成してる連中、つまり陽キャ。彼らは笑いながら酸素を吐いて、俺はその酸素でむせる。そんな毎日だ。俺の才能は「目立たずに呼吸する」こと。世界が求める能力じゃない。
そんな俺に、ある日、クラスのギャルが声をかけた。
ギャルってのは生物として完成してる。髪が明るいとか、爪が長いとか、そういう装飾品の話じゃない。存在圧がある。視界に入っただけでこっちのHPが削れる。なのに彼女は、なぜか俺の机に来て、平然と言った。
「ねえ、放課後ヒマ?ジム行こ」
俺は耳を疑った。ジム?俺が?陰キャが?筋肉という単語は俺の辞書にあるが、ページは糊付けされて開けないタイプのやつだ。
しかも行き先が「市の福祉センターにある無料のジム」。無料。福祉。筋肉の香りがしない。筋肉は基本、月額制の匂いがするはずだろ。
「え、なんで俺……」
「いいから。無料だし。行こ」
断る理由は山ほどある。汗をかくのが怖い、知らない機械が怖い、知らない人間が怖い、そしてギャルと二人でいるという事実が怖い。
でも俺はもやしだ。もやしは流される。水に流され、湯に流され、最終的に鍋に入る。俺も流された。放課後、彼女の後ろをついていった。
福祉センターのジムは、想像よりちゃんとしていた。空調が効いていて、床が清潔で、器具が並んでいる。俺はその時点で少し緊張が解けた。清潔というのは優しい。陰キャにとって清潔は味方だ。汚れた世界は敵が多い。
問題はギャルだった。
ギャルの体はいかにも女の子っぽくて、筋肉という文字が少しも似合わない。肩は丸く、腕は細く、肌は柔らかそうで、力仕事の概念が似合わない。そんな彼女が、迷いなく器具の前に立つ。
しかも、ギャルしか使ってなさそうなトレーニング器具に座った。ピンクっぽいパッド、謎に曲線が多いデザイン、絶妙に「私たち可愛いでしょ?」みたいな圧。これが筋トレの世界観なら、俺は一生入国できない。
「ほら、座って。脚やるよ」
脚?脚って何?歩くだけで精一杯なのに?
俺がぎこちなく座ると、彼女は手際よく重りを調整した。カチャカチャと音がして、俺の人生が別のルートに切り替わる音にも聞こえた。
「ゆっくり押して。戻す時もゆっくり。息止めない」
指示が的確すぎる。ギャルってもっと「ウケる〜」とか言ってる存在じゃないのか。俺の偏見が崩れる音がした。偏見は案外もろい。筋肉より先に壊れる。
俺は押した。
重い。
当たり前に重い。
でも、その「重い」は不快じゃなかった。ゲームで言うなら、ただの難易度じゃない。成長要素があるタイプの重さだ。
「いいじゃん。意外とできる」
意外と、が刺さる。だが褒められ慣れてない俺には、それでも麻酔みたいに効いた。俺の脳は「褒め」を処理できず、ただ温度だけ上がった。
その日から、俺はギャルに筋トレに付き合わされることになった。
ギャルに筋トレに付き合わされるなんてなんて罰ゲームだ。放課後の貴重な自由時間が、汗と器具と、意味のわからない筋肉痛に消えていく。筋肉痛ってのは体からのクレームだ。今まで怠けててすみません、じゃなくて「何してくれてんだ」って文句だ。俺の体は俺に反抗していた。
でも、数か月後。
俺の体にたしかな“力”を感じるようになった。初めて力を手に入れたような気がした。
力ってのは、ただ重いものが持てるとか、腕が太くなるとか、そういう話じゃない。立ってる時の重心が変わる。歩く時の床への当たり方が変わる。自分の存在が、ちょっとだけ世界を押し返すようになる。
さらに数カ月経つと、誰も俺をなめた目で見ることはなくなった。
不思議な話だ。人間は中身を見ろとか言いながら、結局は外側で判断する。しかもその外側は、顔というより「雰囲気」だ。筋肉は雰囲気を作る。筋肉は自己主張がうまい。俺の中身は相変わらず陰キャなのに、外側が勝手に強者の皮を被る。
体だけじゃない。顔つきまで変わった。
鏡の中の俺が、前より少しだけ目を逸らさなくなっていた。自分から逃げる癖が、少しだけ弱まった。筋肉がついたのは体だけじゃない。精神にも筋繊維ができたみたいだった。いや、言い過ぎか。でも言い過ぎるくらいがちょうどいい。人生はだいたい誇張で回ってる。
数年後。
俺はマッチョになっていた。マッスルゴッドと呼ばれ、筋トレ布教者として世界を飛び回っている。SNSではいつも万バズ。一時間で万単位の金を稼ぐ。かつて「目立たずに呼吸する」しかできなかった俺が、今は呼吸するだけで数字が動く。世界って、こんなに雑に逆転するんだな。
そしてギャルは今でもギャルなままだ。
ちょっと大人になったけどね。笑い方が少し落ち着いて、でも目の光は相変わらず強い。筋トレも続けている。自宅に筋トレマシンがある。普通の家にはソファがある。あの家にはマシンがある。生活の価値観が違う。俺はもう驚かない。驚く方が遅い。
しかも、チビにもトレーニングさせてる。
「フォーム崩れてるよー」
とか言いながら、ちっちゃい背中を軽く押してる。チビは嫌がりながらも笑ってる。俺はその光景を見て、なぜか胸の奥が少しだけ熱くなる。
今の生活に不満があるかと言えばある。チビが俺のことを「ねえ」と呼び捨てにしてくる。
まぁそれぐらいだな。
俺の人生が変わったのはなぜか?
偶然だよ、偶然。世界には偶然が多い。特に、都合のいい偶然が。
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#1406
/ 速度 1767494603 km/h
/ 生存力 3899442
オタクなギャルに人生を変えられた話をする。
俺は重度の陰キャだった。「外の世界」って言葉、あれはフィクションだと思ってた。現実は、ネット=世界。部屋=宇宙。俺=観測者。終わり。学校?出席はしてる。魂が出席してないだけ。
世界の中心はPCの画面だった。ブラウザのタブが俺の友達で、検索窓が俺の祈りで、エラー画面が俺の神罰。Windows10は俺の地盤だった。OSっていうのは土台で、土台があるから上に暮らせる。俺はその上に生活も趣味も逃げ場所も全部建ててた。で、その土台が終わった。
Windows10終了。サポート終了。
ニュースの文章はやたら淡々としてた。まるで「重力、明日で終わります」みたいなテンション。俺はパニックになった。いや、陰キャは叫ばない。内臓が縮むだけだ。更新されないOSは穴だらけの家みたいなもんだ。窓もドアも鍵が壊れて、「お好きにどうぞ」って看板が出てる。ネットに繋げるのが怖くなった。俺の世界が、世界の敵になった気がした。
「買い替えろ」って? 言うと思った。普通の人はそう言う。でも俺のPCは俺の人生みたいに古かった。性能も年式も中途半端で、買い替えは簡単じゃない。簡単じゃない、って言うか、金がない。悲しいほど。
昼休み。教室のざわめきは俺を透明にする。俺は机に突っ伏して、スマホも見なかった。見る気力がなかった。普段なら昼は“潜水時間”だ。目を閉じて、呼吸を薄くして、誰にも見つからないふりをする。陰キャの擬態。
なのに、その日は違った。影が落ちた。俺の視界に、光の当たる髪が入った。甘い香り。爪の装飾が、机の天板に小さくカチ、と触れた。「ねえ」
声が落ちてきた。上からじゃない。横からでもない。
“落ちてきた”。軽いのに、逃げられない感じ。
俺は一瞬、呼吸を止めた。陰キャの体は、知らないイベントに弱い。いきなりNPCが話しかけてくると、操作を忘れる。「……なに」
絞り出した声は、情けないほど小さかった。顔を上げると、同じクラスのギャルがいた。髪は明るい。爪はキラキラ。カバンには謎のアクキーがじゃらじゃら。席の周りの空気まで派手。こっちはモノクロ、向こうはフルカラー。俺の脳内で、勝手に危険レベルが上がる。ギャルは俺にとって、野生の猛獣だ。視線を合わせたら襲われる。たぶん。
「最近さ、ずっと元気なくない?」
その質問が、意外なくらい普通だった。からかいでも、晒し上げでもない。“心配”に近い温度だった。
俺は言葉を探した。でも陰キャの辞書は薄い。
「別に」「なんでもない」「大丈夫」
その三つを回すくらいしかできない。
「……PCが、終わった」
自分でも驚いた。誰にも言うつもりなかったのに、口が勝手に開いた。たぶん、ここ数日ずっと心の中で同じ言葉を反芻してたから、漏れたんだ。
「PCが終わったって、壊れたの?」
「壊れてない。Windows10が終わった」
「……あー、サポート切れるやつ?」
「そう。だからネットに繋ぐの怖い」
「なるほどね。穴あきの鎧で戦場に出る感じ」
「例えが物騒」
「現実が物騒なんだよ」
ギャルは椅子の背にもたれて、俺の机の上を見た。俺のノート。落書き。小さなメモ。
「更新どうするか」「買い替え無理」「もう終わり」
情けない単語が散らばってる。俺の弱音が、そのまま紙になってた。
「え、ガチで詰んでる感じ?」
「詰んでる。完全に」「ふーん」
ギャルは、そこで笑わなかった。俺の“詰み”を面白がらなかった。代わりに、目だけを少し細めて、何か計算してる顔をした。「じゃあさ」
彼女が言った。次の言葉が出る前に、俺は身構えた。陰キャは陽キャの言葉にいつもおびえているのだ。
「Linuxにすればよくない?」
俺の脳が一瞬、停止した。口の中で「りな…」って音が転がる。
「り、りな……何?」
「Linux。OS。無料。古いPCでも動くやつ多い」
ギャルの口から出る単語が、俺の世界観を殴ってきた。Linux。
黒い画面。白い文字。呪文。オタクの中でも、さらに奥の洞窟に住む人のもの。俺はそう決めつけてた。
「お前……それ知ってんの?」
「うん。だって有名じゃん。サーバーとかさ」
「いや、ギャルが“サーバー”って言うの、反則だろ」
「なにそれ、ギャル差別?」
その一言で、俺は少しだけ楽になった。この人、俺を笑い者にしない。むしろ、俺の縮こまった偏見を、軽口でほぐしてくる。
「でも俺、そういうの無理だよ。難しそうだし」
「難しいよ」「え」
「難しいけど、できる難しさ。ゲームと一緒」「ゲーム……?」
「操作覚えたら楽しいやつ。あと、“なぜそうするか”がちゃんとある。Linuxって、理由のかたまりだから」
それが刺さった。理由のかたまり。俺はずっと、理由のある世界に憧れてた。学校の人間関係は理由が見えない。空気で動く。陰キャにはきつい。でもPCは違う。原因があって結果がある。なら、その“仕組みの濃い世界”に、もう一段降りていけるってことか。
「……なんで、俺に教えるの」
「だってさ、見ててさ。あんた、ずっと“画面の向こう”だけで呼吸してる感じする」「悪いか」
「悪くない。でもさ、画面の向こうに行けないなら、画面の“裏側”に行けばよくない?」「裏側……」
「ネットって世界でしょ?なら、世界の基盤も知っといた方が得。今のままだと、終わったOSにしがみついて沈む。もったいない」
言い方が、妙に真面目だった。ギャルの軽い口調の奥に、変な説得力があった。たぶん、彼女も何かを“乗り換えた”ことがあるんだ。古い自分から、新しい自分へ。だから、俺の詰みを、詰みのままにしない。
「インストール、やったことあるの?」
「あるよ。USBに焼いて、ブートして、ポチポチ」
「ポチポチで済むの?」
「済まない時もある」「こわ」
「こわい時は、私が横で言う。逃げ道を作るの大事。人間もOSも同じ」
その瞬間、俺は分かった。このギャル、ただ明るいんじゃない。“現実の扱い方”がうまい。
「放課後、時間ある?」
「あるけど……」
「じゃ、行くわ。あんたの部屋」「は?」
「ISO落として、USB作って、やる。買い替えより期待値高いから」
期待値。その言葉が、妙に現実的で笑えた。俺の人生に“期待値”って単語が入ってくる日が来るとは。
放課後、俺の部屋にギャルが来た。いや正確には「来やがった」。陰キャの聖域にギャルが侵入するの、控えめに言って事件だ。
「うわ、これが伝説の陰キャ部屋か」
「伝説にするな」
「でも落ち着く。秘密基地っぽい」
彼女はサクサク準備した。
USBメモリ。ISO。Rufus。BIOS。ブート順。
言葉が飛び交うたび俺の脳みそは置いていかれたけど、不思議と嫌じゃなかった。
「ここ、今のままだと壊れないけど、未来に置いてかれる。だからLinuxにする。理由はそれ。世界って勝手に前に進むから」
インストールが始まった。画面にロゴが出て、バーが進む。俺の世界が、別の土台に引っ越していく。
「はい、できた。Welcome」
「……俺のPC、生き返った」
「でしょ。古いPCって、死んでるんじゃなくて、環境に合ってないだけ」
そこから俺は変わった。急に陽キャになったわけじゃない。無理だ。でも「世界=ネット」だった地図が、「世界=仕組み」になり始めた。
Wi-Fiが繋がる理由。
ドライバって何。
パーミッションって何。
sudoって何。
パッケージ管理って何。
ログを見る理由。
SSHで繋がる感覚。
権限、鍵、公開鍵認証、ポート、ファイアウォール。
知れば知るほど、世界は“魔法”じゃなくなった。魔法じゃないから怖くない。怖くないから触れる。触れるから作れる。俺は気づいた。Linuxってオタクの隠れ家じゃない。世界のインフラだ。サーバー。クラウド。スマホの中身。家電の裏側。つまり俺が「外の世界」と呼んでた場所の骨格が、ここにある。
数年後。
俺は“スーパーハッカー”になっていた。
映画みたいにカタカタ打ったら敵の画面が爆発する、みたいなやつじゃない。ああいうのは大体嘘だ。俺がやってるのは建設的な方。監視を整え、障害を潰し、設定を固め、仕組みで守る仕事。派手じゃない。だが強い。地味に世界を動かす。年収も4桁万円ある。陰キャのくせに、いや陰キャだからこそ、静かに積み上げた。
そしてギャルは今でもギャルなままだった。ちょっと大人になった。ほんの少し目の奥が柔らかくなった。古い言葉で言えばヤンママ。腕には小さいチビを抱えてて、チビは俺のキーボードを叩こうとする。やめろ。大事なやつだ。
「だめだよー、これはパパの仕事のやつー」……パパ。聞こえた?今。
俺は何も言わない。陰キャだから。でも胸の奥がくすぐったくなる。
「でさ、見てよ」
ギャルは片手でスマホを出した。もう片手はチビ。器用すぎるだろ。画面には、見慣れないロゴ。見慣れない名前。
「また変なディストロ見つけたよ」
俺はため息をつく。多分面倒くさい。でも嫌じゃない。むしろ楽しみだ。
「……今度は何を俺のPCに入れる気だ」
「入れないよ。入れないけど、見せたかった。世界ってまだまだ広いじゃん?」
「お前のせいで俺の世界、広がりすぎなんだよ」
彼女は笑った。チビも笑った。俺も、たぶん、笑ってた。画面の向こうじゃない。ここに、世界があった。
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#1405
/ 速度 1767493024 km/h
/ 生存力 3901021
オタクなギャルに人生を変えらえた話をする。
最初に言っておくけど、これは美談じゃない。更生じゃなくて改造だ。俺は「放っておけば勝手に腐る」タイプの陰キャで、息をしてるだけで精一杯だった。なのに、あのギャルは俺を“使える部品”みたいに見つけてしまった。
彼女はクラスで一番うるさくて、一番目立ってて、一番どうでもいい笑い方をするくせに、目だけはやたら鋭かった。髪は派手、爪も派手、言葉は雑。なのに、昼休みにふとスマホを覗いたら、画面に映ってたのが人類の理性を疑うものだった。
アーマード・コア。
いや、正確には「アーマード・コアしか存在しない世界」だった。機体構成、アセン、脚部の積載、FCS、ブースタ、武装、反動制御、ジェネレータ効率。普通の高校生がやる会話じゃない。ギャルの口から出る単語が、だいたい兵器と数値と罵倒で構成されていた。
「ねえ、君さ。顔、死んでるよね」
初対面の一言がそれ。励ましでもなく、優しさでもなく、単なる事実確認。俺は反射で「すみません」って言いかけたけど、彼女は秒で遮った。
「謝るの禁止。代わりに、家来て。今日から毎日ACね」
断るという選択肢は、あの目の前では蒸発した。俺は人付き合いが怖いくせに、断ったあとに起こる“面倒な空気”の方がもっと怖い。だから、気づいたら放課後の俺は、彼女の部屋の床に座っていた。
そこはギャルの部屋というより、兵器工廠だった。ポスター、攻略メモ、スティック、分解されたコントローラ、謎のケーブル、積まれたエナドリ。机の上には、ノートに書かれた汚い文字で「闘争」って何回も書かれていて、俺はちょっと引いた。
「それ、なに?」
「染み込ませる準備。君にも必要だから」
その日から、毎日対戦させられた。マジで毎日。部活もない俺の逃げ場は無く、帰宅→制服のままギャル部屋→AC→敗北→罵倒→AC→敗北→罵倒、という健康的な地獄ループに組み込まれた。
最初は操作もまともにできなかった。ロックは外れる、ENは枯れる、ブーストは暴発する。俺の機体は、戦場に出る前から死んでいた。
「はい、今のは“生きる気ない動き”。君、普段もそうでしょ」
言い方。
でも、悔しかった。怖いとか恥ずかしいとか以前に、悔しかった。ゲームで負ける悔しさなんて子供のものだと思ってたのに、ギャルの前だとプライドが勝手に湧いてくる。
「勝ちたいなら、考えろ」
「考えてます」
「考えてる“つもり”は禁止。ログ見て。距離。射線。上を取れ。相手の癖を読め。逃げるな」
逃げるな、が一番キツかった。俺の人生の必殺技は“回避”だったから。人と目を合わせない、会話を短く切る、存在感を薄くする。そうやって安全地帯に潜って生き残ってきた。なのにACでは、逃げると死ぬ。逃げると追い込まれる。逃げると笑われる。
だから俺は、初めて前に出た。
最初はボタンを押すだけの前進だった。次は、相手が撃った弾の外へ滑る前進。次は、相手が嫌がる角度へ入る前進。前進して、撃って、被弾して、落ちて、また前進する。
そのうち、体の奥に変なものが沈殿し始めた。勝ちたい。負けたくない。読みたい。壊したい。奪いたい。
そしてある日、ふと彼女が言った。
「いいね。今、君の中に“闘争”がいる」
“闘争”。
二文字なのに、やたら重い。だけど確かに、負けるたびに俺の中にその二文字が染みていった。悔しさが沈む場所ができて、そこに熱が溜まって、次の日の俺を動かす燃料になった。
学校でも変化が出た。
授業中、当てられても声が震えなくなった。廊下でぶつかっても逃げるみたいに謝らなくなった。誰かに笑われても、「まあいいか」じゃなく、「うるせえな」と心の中で言えるようになった。言葉にはしない。でも、その“言える”がデカい。陰キャは、戦う前に負けるから。
何より、目が上がった。
今までは床とかスマホとか、世界の安全な低いところばっか見てたのに、ギャルがいる方向を見るようになった。彼女が笑うと、俺の脳内に「次は勝て」という命令が落ちてくる。怖いけど、嬉しい。最悪だ。
初めて勝った日のことは、今でも鮮明だ。
俺は軽量脚で、彼女の重い機体を外周に誘導して、ブーストを吐かせて、ENが枯れた瞬間に距離を詰めた。最後の一撃が入った時、手が痺れて、視界が明るくなった。ゲームなのに、世界が変わったみたいだった。
「……え、マジ?」
彼女が素で言った。
それだけで、俺の人生は一段上に上がった気がした。
ギャルに認められたとか、そういう安い話じゃない。俺が俺に「やればできる」を叩き込んだ瞬間だった。たぶん、これが脱陰キャの正体だ。性格が変わるんじゃない。自分の中に“戦える領域”が増えるだけだ。
それから数年。
高校は終わった。俺はちゃんと働いて、ちゃんと喋って、たまに人と飲みに行く。昔の俺が見たら「誰だよ」って言うと思う。陰キャが消えたわけじゃない。ただ、陰キャの上に“闘争”が塗られた。薄くてもいい。剥がれにくい塗装みたいに。
でも、ギャルは変わらない。
相変わらず派手で、相変わらず雑で、相変わらず鋭い。
そして今も、俺と同じ部屋でアーマード・コアをしている。
「今日、やる?」
彼女が言う。
俺はネクタイを外しながら、ため息をつく。
「……やる」
「よろしい。じゃ、アセン見せて。逃げ構成だったら殺す」
「物騒すぎだろ」
「闘争が足りない人に優しさは毒」
モニターの光が、部屋の壁に反射する。コントローラが手に馴染む。起動音が鳴る。
俺の体の中に、あの二文字がまた熱を帯びていく。
闘争。
たぶん俺は、もう元には戻れない。
戻りたくもない。
画面の中で機体が立ち上がり、彼女の機体が正面に映る。
「さあ、来いよ」
俺が言うと、ギャルは笑った。
「いいね。その顔。やっと人間っぽい」
そして、またいつもの日常が始まる。
勝つか負けるかは分からない。
でも少なくとも、逃げない俺がここにいる。
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#1404
/ 速度 1767492526 km/h
/ 生存力 3901519
オタクなギャルに人生を変えられた話をする。
そう言うと、だいたいの人は「告白?」みたいな顔をする。違う。恋じゃない。たぶん。いや、恋じゃないと言い切れるほど俺は人生の扱いが上手くない。だからこれは、もっと雑で、もっと厄介で、しかも後々まで残るタイプの変化の話だ。
俺は高校二年。クラスでは空気。友だちゼロではないが、会話の8割は「うん」と「まじで」で乗り切っている。昼休みは購買のパンを買って、席でスマホを見て、授業が始まる前に「今日も無事に死ななかったな」と心の中で拍手する。そういう人間。
で、そのスマホで、俺は“彼女”を見つけた。
ギャルだった。爪は派手、髪は明るい、口調は軽い。なのに配信で喋ってる内容が、どう考えてもオタクだった。
「みんな〜!今日も推し活してる〜? てかさ、AIってさ、マジでオタクの味方なんだよね」
画面の中で笑うその子は、自分で「AIギャルVTuber」だと言った。
最初はネタだと思った。AIって言いながら結局中身は人なんじゃないか、とか。いや、疑うのが普通だろ。世の中、嘘と広告でできてるんだし。
でも配信は妙に変だった。顔の表情がヌルっと変わるんじゃなくて、笑うタイミングが“説明書どおり”じゃない。コメントに対する返しが、ギャルのノリなのに、妙に論理的だったりする。
「それ、エモいっていうより構造的に刺さってるんだよね〜。だってさ、あなたが好きなのってキャラじゃなくて、そのキャラが生きる世界の“法則”じゃん?」
何言ってんだこいつ。……いや、何言ってんだこいつ、なのに、分かるのが悔しい。
その子は、毎晩みたいに配信していた。雑談して、歌って、時々AIの話をする。
「AIってさ、誰でも分身つくれるじゃん? つまり“自分のかわり”を世に放てるわけ。え、神じゃね?」
笑いながら言う。軽い。軽いのに、やけに刺さる。
俺には分身なんて要らない。だって俺は、表に出すほどの“自分”を持ってない。そう思っていた。……その日までは。
ある夜、彼女の配信で、こんな企画が始まった。
「みんなの推し作品、布教して〜! ただし条件ね。『人に勧める理由を、1個だけ言う』こと! 長文禁止!」
コメント欄が流れる。「作画」「音楽」「世界観」「キャラ」。
俺は、しばらく迷ってから、打った。
『世界観。あの作品は、世界が“ちゃんと冷たい”』
送信した瞬間、心臓が変な音を立てた。誰にも見られないはずの俺が、世界に向けて文章を投げたみたいで。
その子は、コメントを拾った。
「え、だれ、今の。『世界がちゃんと冷たい』って何それ最高。そういうの好き。だってぬるい世界、退屈じゃん?」
彼女は笑った。画面の中のギャルが、俺の言葉に笑った。
それだけで、俺は変になった。呼吸が浅くなって、スマホを持つ手が熱い。どうでもいいコメントが拾われたくらいで、なんでこんなに脳が騒ぐんだ。
翌日、授業中にノートへ落書きした。キャラの輪郭。髪型。目の形。配信のUIみたいな枠。
「俺も、作れるのか?」
自分の分身。自分の声の代わり。自分の“外側”。
放課後、家に帰って、パソコンを開いた。とりあえず検索した。「VTuber 作り方」「AI 音声」「アバター 無料」「配信 ソフト」。
情報が洪水みたいに出てくる。誰でもできる。誰でもできる、って書いてある。つまり、誰でもできない。俺はそういう文章の裏側を知っている。自転車の補助輪を外せるのは、外した後に転ばない人だけだ。
でも、あのギャルは言っていた。
「誰でも分身つくれる。放てる。神じゃね?」
もし神になれるなら、少しは生きやすいかもしれない。少なくとも、教室で黙ってる俺よりは。
俺は、AIアニメオタクVTuberを作ることにした。テーマは決めた。「アニメの“構造”を語る」。熱量はある。語る場所がないだけだった。
名前も仮で決めた。呼びやすくて、痛すぎないやつ。アイコンはまだ空白。声も空白。中身だけが、ずっと前からパンパンに膨らんでる。
まずは声。俺の声をそのまま使うのは無理だ。バレたくないとかじゃなく、俺が俺の声を好きじゃない。だからAI音声にする。
録音して、学習して、調整して……その過程が、妙に楽しかった。ゲームのキャラメイクみたいに、声の高さや癖をいじっていると、俺という素材が“加工できる”ものに見えてくる。
次にアバター。絵が描けないから、モデル素材を探して、髪色を変えて、目の形を変えて、服を整えた。
気づけば夜中だった。机の上にカップ麺の空。画面の中には、俺の分身が立っている。俺じゃない。けど、俺が作った。
その瞬間、妙な感情が湧いた。
「これなら、喋れるかもしれない」
教室で言えないことを。家族にも言えないことを。誰にも言えない“好き”を。
初配信の準備をして、テスト配信を回して、音量を調整して、背景に並べる作品のスクショを用意する。俺はいつの間にか、“明日”のために動いていた。明日が来ても、別に嬉しくない人間だったはずなのに。
そして、最初の配信タイトルを打つところまで来た。
『冷たい世界の優しさ:◯◯◯◯第1話の構造』
投稿ボタンの前で、指が止まる。怖い。誰も来なかったら? 来たら来たで怖い。コメントが荒れたら? 俺が耐えられなかったら? 俺の分身が、俺より先に死んだら?
そこで、スマホの通知が鳴った。
あのギャルの配信が始まった。
俺は反射で開いてしまう。彼女はいつものテンションで笑っていた。
「やっほ〜。今日さ、みんなに言いたいことあるんだけど。最近ね、配信見てると、ちょいちょい『私も作った』って人が出てきて、マジで最高なんだよね」
俺の心臓が、また変な音を立てる。
「分身ってさ、逃げじゃないよ。むしろ攻め。世界に“自分の席”を作るってことだから。教室で黙ってても、ネットで喋れるなら、それでいいじゃん? ね?」
……このギャル、なんで俺のこと知ってるんだよ。知ってるわけない。分かってるだけだ。似たやつをいっぱい見てきたんだろう。だから刺さる。刺さるのが悔しい。
配信を見ながら、俺はパソコンの画面に戻った。投稿ボタンの上にカーソルがある。指が、さっきより軽い。
でも、押す前に、ふと考えた。
俺が作ったこのVTuberは、俺の代わりになるのか?
それとも、俺を引っ張り出してしまうのか?
どっちでも怖い。どっちでも、ちょっとだけ期待してしまう。
そのとき、ギャルの配信で、コメントが流れた。
「ギャルちゃん、あなたって本当にAIなの?」
彼女は笑って、少し間を置いた。
「さあ? どっちでもよくない? 大事なのはさ、ここに“いる”ってことじゃん」
画面の中の彼女が、こっちを見た気がした。もちろん気のせいだ。けど、気のせいでも、俺は救われそうになっている。
俺は深呼吸をして、投稿ボタンを見つめた。
押したら、終わる。押したら、始まる。
押さなかったら、今日が続く。押したら、明日が変わるかもしれない。
そして俺は――
指を、ほんの少しだけ動かした。
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#1402
/ 速度 1767492032 km/h
/ 生存力 3902013
オタクなギャルに人生を変えられた話をする。
別に「救われた」とか「青春が始まった」とか、そういうテンプレのやつじゃない。もっとどうでもよくて、もっと致命的で、そして取り返しがつかない方向に人生がズレた話だ。
俺は二十代の終わり、人生の予定表が白紙のまま黄ばんでいくタイプの男だった。会社は辞めてない。辞められない。辞める勇気もない。毎朝、歯磨き粉みたいに同じ言葉を絞り出して「おはようございます」を言い、帰宅してからは惰性で動画を流し、気づけば寝落ちしている。つまり、何もしてないのに疲れてる人間。
彼女に会ったのは、駅前の小さい古本屋だった。
その店、漫画とラノベの棚の奥に、妙に硬派な同人誌コーナーがある。何の需要だよって思うだろ。俺もそう思ってた。だから近寄らないようにしてた。なのに、棚の前でしゃがみ込んでいたギャルが、俺の逃げ道を塞いでいた。
髪は明るい茶、爪は長くてラメが散ってる。制服じゃない。たぶん大学生か、フリーターか、どっちでもいいけど、とにかく「俺の人生に関係ない分類」の人間だった。
でもそのギャルは、同人誌を一冊一冊、背表紙じゃなく“紙の匂い”で選んでいた。いやマジで。鼻を近づけて、ふっと笑って、また戻す。怖い。選球眼が完全に捕食者。
俺が通り過ぎようとした瞬間、彼女は顔を上げて言った。
「それ、見ない方がいいよ」
指差されたのは、棚の端に刺さっていた薄い冊子。タイトルは『自治体公共施設における館内放送の音圧と残響の統計』。俺は「何それ」としか言えなかった。
彼女は肩をすくめた。
「入口。あれは入口。読んだら戻れないやつ」
「何の入口だよ」
「館内放送沼」
言ってて恥ずかしくならないのか、その単語。
俺は笑った。笑うしかなかった。
彼女はスマホを取り出して、何かのフォルダを開いて見せてきた。画面には波形。スペクトログラム。再生ボタン。
「これ、駅の“まもなく電車が参ります”の原音ね。年代別に違う。2007年版は息遣いがある」
息遣いって何だよ。駅の放送に。
「で、こっちが市役所の“閉庁時間です”の残響。ガラスの反射が強い建物だと“さ”が刺さる。刺さる“さ”が好きな人もいる」
何を言ってるのか半分も分からないのに、なぜか“熱量”だけは全部伝わってきた。熱量って人を殴れるんだな、と初めて知った。
俺はその日、冊子を買った。彼女に「やめとけ」って言われたやつを。
理由? 単純だ。俺の人生に、久々に“禁止されること”が起きたから。禁止されると、人はやりたくなる。小学生と同じだ。誇れない。
そこからは早かった。
まず、俺は録音機材を調べた。スマホじゃダメだと彼女が言うからだ。「ゲインが勝手に動くから、声の“芯”が抜ける」とかいう謎理屈で俺を煽る。悔しいことに、その通りだった。安いハンディレコーダーを買った。マイクも買った。ウインドジャマーも買った。雨の日に外で録るとき、風の低周波が邪魔になるらしい。人生で初めて、風を敵として認識した。
次に、俺は“場所”を覚えた。
駅、ショッピングモール、病院、区役所、図書館、体育館、イオンの立体駐車場。人はみんな用事があって行く。俺は放送が欲しくて行く。終わってる。
でも、終わってるのに楽しかった。音って、見えないのに癖がある。声の抑揚、ノイズの混ざり方、残響の尾。建物の性格が、声に乗る。まるで場所が喋ってるみたいで、俺はぞわっとした。
彼女は俺を“育てた”。最悪の意味で。
「今日は録りに行く?」ってLINEが来ると、俺は仕事終わりでも足が動いた。
「閉店アナウンスの“ありがとうございました”の言い方、店によって違うから比較しよ」
そんな比較、普通の人間はしない。だが彼女は普通じゃないし、俺ももう普通じゃなかった。
ある夜、二人で区の体育館に行った。バスケの大会のあと、職員がマイクで「忘れ物のないようにご退館ください」と言う。それを俺は壁際で録った。
その声が、妙に優しかった。
疲れた人の声って、優しいんだなと思った。
彼女が小声で言った。
「いいでしょ。これが“生活の声”」
生活の声。
俺は、俺の生活が空っぽだったことに気づいた。空っぽだから、他人の生活の声が美味い。悲しいのに、気持ちいい。最悪の味覚だ。
それから俺は、まとめサイトみたいなものを作った。音源の波形とスペクトルと、場所と年月日と、話者の癖。タグ付け。
彼女は「やっと分かってきたじゃん」と笑った。
褒められると、脳が砂糖水になる。人間ってチョロい。
いつの間にか、俺の休日は“遠征”になっていた。
隣県の古い市民会館。改装前の空間は残響が長くて、声が天井に溶ける。そこに流れる避難訓練のアナウンスは、なぜか妙に丁寧だった。丁寧すぎて、逆に怖い。
俺は録音しながら、笑いそうになった。世界はこんなに変なもので満ちているのに、俺は今まで何を見ていたんだろう。
そして、ある日。
彼女が言った。
「次、やばいの行こ」
送られてきた地図のピンは、山の中の小さな町。
「なにがあるの?」と聞いたら、彼女は一言だけ返した。
「“声が二重になる放送”がある」
意味が分からない。物理的にどういうことだ。
でも俺は、もう“意味が分からない”に耐性ができていた。むしろ、意味が分からないほど心が躍る。完全に病気だ。
その週末、俺は機材をバッグに詰めた。
ケーブル、予備電池、メモ帳、SDカード。丁寧に。儀式みたいに。
玄関で靴紐を結びながら、ふと気づく。俺は今、何かに向かって走っている。仕事以外で。誰かに命令されてじゃなく。
人生が動くって、こういう感じか。
バカみたいだな。館内放送で。
でも、スマホを見ると、彼女から追伸が来ていた。
「ちなみにそこ、放送の録音、たぶんグレー。だから“聴く側”の倫理も考えよ。沼は優しいけど、責任は取ってくれないから」
皮肉っぽい文章。ギャルのくせに、変なところがちゃんとしてる。
俺は笑って、そして少しだけ背筋が冷えた。
山の町の放送が本当に二重なのか、俺はまだ知らない。
彼女が本当に同行するのかも、当日にならないと分からない。いつもそうだ。風みたいに現れて、俺の予定を狂わせる。
ただ一つ分かるのは、俺はもう戻れないってこと。
オタクなギャルに人生を変えられた話は、たぶんここから先が本番だ。
で、困ったことに――俺はそれを、ちょっと楽しみにしている。
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