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ギャルに人生変えられた話をする
第一章 ギャルに人生変えられた話をする
ギャルに人生変えられた話をする。
俺の名前は山田太郎。よくある名前だが本名だ。四十歳、独身、夜勤あり。倉庫の棚と段ボールと、安い弁当の湯気に囲まれて生きてきた。壊れてはいないが、使いすぎた家電みたいな体をしている。
きっかけは健康診断だった。医者は紙を指で叩いて、軽く言った。運動してください、食事も少し見直して。白衣の袖から石けんの匂いがした。俺は、はい、とだけ答えた。言葉は受け取ったが、中身までは飲み込めなかった。腹のあたりに薄い鉛を入れられたような重さだけが残った。
帰り道、駅前の風は冷たかった。ガラスに映った自分の顔は、夜勤明けの駅みたいだった。人は通るのに、何も始まらない。俺はその足で、二十四時間ジムの前まで行った。ガラス張りの店内は昼なのに明るすぎて、魚の入っていない水槽みたいに見えた。中では若い男がベンチプレスをしていて、女が鏡の前でスマホを構えていた。俺は一度通り過ぎた。三十歩ほど進んで、戻った。
自動ドアが開くと、冷えた空気と消毒液の匂いが来た。ゴムマットの黒い床は、学校の理科室より無愛想だった。受付には誰もいなくて、少し奥のマシンの横から、金髪の頭がひょいと出た。小走りで来たその女は、髪を高い位置でまとめていた。まつげが長くて、笑う前から目がうるさかった。白い歯が見えた。ジャージの袖口から、細い手首が出ていた。
「見学ですか、それとも入会っすか」
俺は少し間を空けた。
「その、たぶん、見学で」
「たぶん見学、いいっすね」
変な返しだった。だが、その軽さに助かった。ここで正しい敬語を使われていたら、俺はたぶん帰っていた。女は受付のタブレットを指で弾きながら、こっちです、と先に歩いた。靴底が床を鳴らす音が、小さく、乾いていた。
マシンの説明を受けた。ランニングマシン、レッグプレス、ラットプルダウン。名前だけは強そうだったが、どれも俺には遠い国の道具に見えた。鉄の棒は細いのに、近づくだけで威圧感がある。女は器具に軽く触れながら、これは背中、これは脚、これは胸っすね、と流していく。声は明るいが、手つきだけは静かだった。よく研いだ包丁みたいな静けさだった。
「最初は週二とかでいいですよ。いきなり飛ばすと、だいたい消えます」
「消える」
「来なくなるって意味です」
そう言って笑った。俺も少しだけ笑った。自分でも驚くほど自然に口角が動いた。ずっと使っていなかった部品が、油も差さずに回った感じだった。
入会しますか、と聞かれて、俺はまた迷った。迷う時間だけなら、たぶん人より長い。だがその日は、なぜか面倒が先に死んだ。財布を出す時、指先が少し汗ばんでいた。カードを差し込むだけなのに、契約書へサインするみたいな気分になった。大げさではなく、俺にとってはそういう動きだった。
「はい、これで会員証アプリ入ります」
「どうも」
「山田さん、ですね」
「はい」
「じゃ、山田さん。今日、少しやってみます?」
少し、という言葉に負けた。少しなら、死なない気がした。女は俺をストレッチスペースへ連れていった。床に座れと言われ、前屈をして、脚を開いて、肩を回した。体が硬いですね、とは言われなかった。言われるより効いた。俺の膝は古い蝶番みたいに鳴っていた。
「スクワット、やったことあります?」
「ないです。名前だけ」
「オッケーっす。じゃ、椅子に座るみたいに」
女は見本を見せた。背筋はまっすぐで、尻だけがすっと落ちた。余計なところが一つも揺れなかった。見ているだけで、自分の体が雑に作られている気がした。俺もやってみたが、膝が前に出て、腰が引けた。
「あ、そこ。いや、違うな」
女が俺の横へ回った。近い。甘い匂いがした。香水というより、ボディミストとシャンプーがまざった匂いだった。夜の街の匂いではなく、明るい更衣室の匂いだった。
「胸、もうちょい上です」
指先が、俺の背中の真ん中に触れた。
「そこから、お腹固めて。そう。で、座る」
たったそれだけで、体の位置が変わった。さっきまで別の部品だった背中と腹が、一本の板みたいにつながった。俺は三回やって、四回目でふらついた。太ももがすぐ熱くなった。息が上ずった。喉の奥に、うっすら鉄みたいな味がした。
「弱」
女が言って、すぐ笑った。
「でも、四十で来るの偉いっすよ」
「褒めてるのか、けなしてるのか」
「半々っすね」
少し遅れて、俺たちは笑った。そこでやっと、彼女の顔を正面から見た。若い。二十代の前半か、それくらいに見えた。だが目だけは変に落ち着いていた。騒がしい色の中に、硬い芯が一本入っている。そういう目だった。
水を飲んだ。紙コップの水は冷たくて、歯の裏にしみた。ジムの奥では、誰かがダンベルを戻す音がした。金属音が短く響いて、消えた。俺は自分の息だけが妙に大きいのを気にしていた。彼女はタオルで手を拭きながら、壁の時計を見た。
「俺くんって呼んでいいですか」
「なんでですか」
「山田さん、って、なんか就職面接みたいじゃないですか」
「俺は別に」
「じゃ、俺くんで」
勝手に決まった。だが不快ではなかった。年下の女にそんな呼び方をされる人生が、自分に残っているとは思っていなかった。古い倉庫の壁に、急に小さい窓が開いたみたいだった。
「君は」
「ミウっす。黒崎ミウ」
「黒崎さん」
「かたいっすね。ミウでいいです」
いいです、と言われても、さすがにそれは口に出せなかった。俺はうなずくだけにした。ミウはそれ以上は強要せず、次のメニューを組み始めた。スマホの画面を指で滑らせる速さが、妙にきれいだった。軽い女に見えるのに、何かを決める時だけ、手がぶれない。
最後にレッグプレスをやった。座って押すだけの機械なのに、脚の内側がすぐに焼けた。十回で終わりだと思っていたら、ミウがまだっす、と言った。十一回目で、視界の端が少し白くなった。十二回目で、脚が自分のものじゃなくなった。十三回目で、俺は低くうめいた。
「いいっすよ、そこ」
その一言が、変だった。
励ましにしては短い。だが、耳の奥に残った。倉庫で荷物を持つ時の掛け声とも、学校の体育とも違った。重いものの向こう側に、ほんの少しだけ自分がいる。そんな言い方だった。
終わると、俺は汗をかいていた。たかが一時間もやっていないのに、Tシャツの背中がじっとりしていた。更衣室の鏡を見ると、顔色は悪いままだったが、目だけが少し動いていた。疲れた顔の中に、見慣れない火の粉が一つ入っている。たぶん気のせいだ。だが、その気のせいが、今日は妙に邪魔だった。
受付に戻ると、ミウがプロテインの試供品を渡してきた。袋は派手な色で、海外の菓子みたいだった。
「まずかったら、まずいって言っていいんで」
「そんなにまずいのか」
「いや、これは普通です。でも、当たり外れあるんで」
「じゃあ警戒します」
「それがいいっす」
ジムを出る時、外はもう夕方に傾いていた。風が昼より少し湿っていた。駅前の焼き鳥屋から煙が流れてきて、タレの匂いが腹に刺さった。脚は重い。階段を降りるたび、太ももの奥が鈍く鳴った。だが、悪くなかった。壊れた部屋の窓を無理やり開けたみたいな痛みだった。
スマホを見ると、会員アプリの通知が入っていた。初回トレーニング記録、消費カロリー、次回のおすすめメニュー。数字ばかりの画面だった。その数字の下に、小さく担当スタッフ名が出ていた。
黒崎ミウ。
名前を見ただけで、さっき背中に触れた指先を思い出した。自分でも嫌になるくらい単純だった。四十にもなって、と思った。そういう声は頭のどこかで出た。だが、その声は前より弱かった。腹の底に残っているのは、恥ではなく、もう一回行くかもしれない、という気配だった。
帰って、試供品の袋を開けた。甘い匂いがした。水で溶くと、薄いバニラみたいな味がした。うまくはない。まずくもない。中途半端だった。台所の蛍光灯の下で飲んでいると、自分の部屋が少しだけ狭く感じた。まだ誰もいないのに、何かが入り込んでいる気がした。
その夜、寝返りを打つたびに脚が重かった。布団の中で、太ももの熱だけが遅れて残った。眠る前に、俺は一度だけ思った。明日になったら、やっぱり面倒になるかもしれない。ならなかったら、少し困る。少し困るくらいには、もう始まっていた。
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