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死ぬのこわすぎ問題 哲学的な問い30

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死ぬのこわすぎ問題 哲学的な問い30

第一章 死の問題について哲学はすでに解決済みである!!??

 死ぬのは怖い。これは、あまりにも当たり前の感情である。いつか自分の意識が消え、考えることも感じることもできなくなり、世界から完全に退出しなければならない。そう考えるだけで、胸の奥が冷たくなる人もいるだろう。普段は死について考えなくても、夜中にふと目が覚めたとき、自分がいつか必ず死ぬという事実が、突然巨大なものとして迫ってくることがある。

 ところが、哲学の歴史を振り返ってみると、死の恐怖にはすでに回答が出ているようにも見える。古代ギリシアの哲学者エピクロスは、死を怖れる必要はないと考えた。しかも、その理由は死後の世界が幸福だからでも、魂が永遠に生き続けるからでもない。もっと単純で、少し拍子抜けするような理屈である。

 私たちが生きている間、死はまだやって来ていない。そして死がやって来たとき、私たちはもう存在していない。したがって、私たちと死が同時に存在する瞬間はない。生きている私は死んでおらず、死んでいる私は何も感じない。ならば、死は私たちにとって何ものでもない。これがエピクロスの議論の中心である。

 たとえば、一週間後に歯医者へ行く予定があるとする。治療が痛いかもしれないと思えば、予約の日まで憂うつになる。実際に治療台へ座れば、痛みを感じる可能性もある。歯医者への恐怖には、未来に経験するかもしれない苦痛という対象がある。しかし死の場合、事情が異なる。死んだ後に「死んでしまってつらい」と感じる自分は存在しない。痛い、寂しい、退屈だと感じる主体そのものが消えている。

 それでも私たちは、死後を暗い部屋のように想像する。音も光もなく、永遠に閉じ込められている自分を思い浮かべる。しかし、この想像には奇妙な点がある。真っ暗な死後を見ている自分、何も起きない時間を退屈だと感じている自分が、ひそかに残されているのである。死によって意識が完全に消えるなら、暗闇を見る自分も、永遠の長さを感じる自分もいない。

 死後の無を想像しようとすると、私たちは無意識のうちに、観客席を一つだけ残してしまう。舞台の上から自分が消えた後も、客席には自分が座っていて、自分のいない世界を眺めている。自分の葬式、家族の涙、片づけられる部屋、忘れられていく名前を、透明人間になった自分が見届けている。だが、本当に死んでいるなら、その観客も存在しない。

 映画や小説では、死者が自分の葬式を眺める場面がよく描かれる。誰が泣いているのか、誰が意外と平気そうにしているのかを、死者が少し離れた場所から見ている。しかし、それは死ではなく、身体を失った意識の物語である。死者の視点を描いた瞬間、そこにはまだ何かを見て、考え、判断している存在がいる。つまり、私たちが想像できる死後は、厳密には死後ではない。

 ここで「それなら、全身麻酔も同じではないか」と考えることができる。手術を受ける前、医師から薬を入れられ、次に気づいたときには数時間が過ぎている。その間、自分にとって時間は存在しなかったように感じられる。手術室で目を閉じた直後、回復室で目を開ける。時計の上では長い時間が流れていても、本人は空白さえ経験していない。

 眠っている間には夢を見ることもあるが、深く眠り、夢も記憶していない時間については、何時間経過したのかを内側から知ることはできない。夜の十一時に眠り、朝の七時に目を覚ましたとしても、意識の上では一瞬で朝になったように感じられる。もし目を覚ますことがなければ、その一瞬すら確認されない。死を永遠に続く長い時間として怖れるのは、意識のない状態にも時間感覚が残ると考えてしまうからである。

 永遠という言葉は恐ろしい。百年でも長いのに、それが一万年、一億年、その先まで終わらないと考えると、息苦しくなる。しかし、長さを感じるには意識が必要である。退屈な会議の一時間が長く感じられるのは、時計を気にし、まだ終わらないのかと考える自分がいるからだ。意識がなければ、一秒と一億年の違いを経験する者はいない。

 この理屈に従えば、死後の永遠を怖れることは、誰もいない映画館で上映時間を心配するようなものである。映画が十時間続こうと、百年続こうと、見る人がいなければ長いとも短いとも感じられない。死後に時間が続くとしても、それを待ち続ける本人はいない。死者は、永遠に眠っているのではない。眠っている者なら、まだそこに存在しているが、死者には待つという状態さえない。

 では、死ぬ瞬間はどうだろうか。死ぬ瞬間には、まだ意識があるかもしれない。苦痛や恐怖を経験する可能性もある。しかし、それは死そのものではなく、死に至る過程である。病気、事故、老化、呼吸困難など、死の直前に起こりうることは、確かに怖れる理由になる。しかし、死に方が怖いことと、死んだ状態が怖いことは、同じではない。

 高い場所から落ちるのが怖いとき、怖れているのは落下中の恐怖や衝撃であり、意識が完全に失われた後の状態ではない。重い病気が怖いときも、痛み、自由の喪失、家族への負担など、実際に経験される苦しみが問題になる。これらをすべて「死が怖い」という一つの言葉にまとめると、何を怖れているのかが分からなくなる。

 哲学は、巨大な恐怖を分解する。死そのもの、死に至る苦痛、未来を失うこと、愛する人と別れること、忘れられることを、別々の問題として扱う。すると、少なくとも死後の無については、怖れる主体が存在しないという結論が見えてくる。恐怖のすべてが消えるわけではないが、正体不明の黒い塊だったものに、少しずつ輪郭が生まれる。

 エピクロスの議論が魅力的なのは、死を美化しない点にある。死後にはすばらしい世界が待っているとも、魂が永遠に残るとも約束しない。ただ、死んだ後に苦しみ続ける自分を想像するのは間違いだと指摘する。存在しない自分は、不幸になることも、孤独になることも、死んだことを後悔することもできない。

 これは、財布を落としたことに永遠に気づかない人のようなものではない。財布を落とした人は存在しており、後から困る可能性がある。しかし死者は、後から困ることがない。「大変なことになった」と気づく未来そのものが存在しないからだ。本人の経験だけに注目するなら、死後の不幸を感じる場所は、どこにも見つからない。

 そう考えると、死の恐怖には奇妙な構造がある。私たちは、自分が存在しない状態を、自分が経験するものとして想像している。自分の消滅を考えながら、消滅を眺める自分だけは残している。死を怖れる心は、死後にも自分がいるという前提と、自分が完全にいなくなるという前提を、同時に抱えているのである。

 哲学は、この矛盾を指摘する。完全に無になるなら、無になったことを悲しむ者はいない。悲しむ者が残っているなら、それは完全な無ではない。どちらか一方を選ばなければならない。死後に意識が残ると考えるなら、その意識がどのような状態になるのかが問題になる。しかし、意識が消えると考えるなら、死後の苦痛を想像することはできない。

 ここまで聞くと、死の問題はほとんど解決したように見える。死は経験されず、死後の永遠は本人にとって一瞬ですらなく、死んだことを後悔する自分もいない。少なくとも、死後の無の中で苦しみ続けるという恐怖は、論理的には成立しない。

 哲学は二千年以上前から、死を怖れる人間に向かって、かなり大胆なことを言っている。心配するな、死んだときには、心配している者はもういない。まるで、閉店後の店内が寂しくないかと気にする店員に、店が閉まれば客も店員も帰っていると説明するようなものである。

 だが、ここで話を終えるわけにはいかない。理屈が分かった瞬間、死の恐怖がきれいに消える人は、おそらく多くないからだ。死後に苦しむ自分はいない。それは理解できる。それでも、自分が消えること自体が怖い。未来を見られないことが悔しい。愛する人と別れることも、世界から置いていかれることも耐えがたい。

 つまり、哲学は死の問題を解決したのではなく、死の恐怖の一部を取り除いただけなのかもしれない。死後の無は怖くないと論証できても、死によって奪われるものまでは消えない。論理の上では解決済みである。しかし感情の側では、まったく解決していない。

 それでも、エピクロスの議論は出発点として重要である。死の恐怖を一つの巨大な怪物として扱うのではなく、その中に何が含まれているのかを調べるための入口になるからだ。死後の苦痛が存在しないなら、私たちが本当に怖れているものは別にある。死そのものではなく、死に向かう過程、失われる未来、終わってしまう関係なのかもしれない。

 死の問題について、哲学はすでに解決済みである。そのように宣言することはできる。ただし、その宣言には大きな疑問符がつく。頭では納得できても、身体は納得しない。論理が扉を閉めても、恐怖は別の窓から入ってくる。死は私たちにとって何ものでもないはずなのに、なぜこれほど怖いのか。その食い違いこそが、ここから考えなければならない本当の問題である。

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