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ニーチェ入門 哲学入門シリーズ1

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第一章 ニーチェってどんな人?

 フリードリヒ・ニーチェという名前を聞くと「神は死んだ」「超人」「力への意志」といった強烈な言葉を思い浮かべる人が多いかもしれません。そのため、ニーチェには世界に向かって拳を振り上げ、人間はもっと強くならなければならないと叫んでいる哲学者のようなイメージがあります。しかし、実際のニーチェをそのような人物として理解すると、かなり大事なところを取り逃がします。ニーチェが本当に疑ったのは、人間の弱さよりも「何を強さと呼び、何を弱さと呼んでいるのか」という価値判断そのものだったからです。

 ニーチェは十九世紀後半のドイツ語圏で活動した哲学者であり、もともとは古典文献学者でした。古典文献学とは、古代の文章を読み、残された資料を比較しながら、その意味や成立事情を研究する学問です。いきなり机を叩いて「神は死んだ」と宣言する仕事ではありません。古い文書を読み込み、言葉がどのように使われ、考え方がどのように作られてきたのかを調べる仕事です。この出発点は、後のニーチェ哲学を考えるうえで意外に重要です。

 ニーチェは二十四歳という若さでバーゼル大学の教授になりました。普通なら、ここから研究者として順調な人生を歩みそうなものです。しかし、ニーチェの人生はそうなりませんでした。病気のため大学を退職し、その後は各地を転々としながら著作を書く生活を送ります。大学に研究室を構え、弟子を集め、大きな哲学体系を完成させるという典型的な哲学者像からは、かなり離れた人生でした。しかも、その文章も教科書のようには書かれていません。短い断章、比喩、皮肉、挑発的な言葉、架空の人物の演説などが入り乱れています。

 だからニーチェを読むと、ときどき困ったことが起こります。あるページでは一つの考えを猛烈に攻撃していたと思ったら、別の場所では似たようなものを評価しているように見えることがあります。同じ言葉でも、時期や著作によってニュアンスが変わることがあります。ニーチェには「これが私の哲学体系である」と整理した一冊の教科書がありません。ニーチェを理解するには、格好のよい一文だけを抜き出すより「この時期のニーチェは、何を問題にしていたのか」と考える必要があります。

 若いニーチェに大きな影響を与えた人物の一人が、アルトゥル・ショーペンハウアーです。ニーチェは一八六五年に『意志と表象としての世界』を読み、大きな衝撃を受けました。人間や世界を、理性だけでは説明できないという発想、美や芸術を重要視する考え方などを、ニーチェはショーペンハウアーから受け取ります。ただし、ニーチェは師匠の思想をそのまま守るような弟子ではありませんでした。ショーペンハウアーが欲望を鎮め、生の苦しみから離れていく方向へ進んだのに対して、ニーチェは次第に反対方向へ向かいます。

 ここに、ニーチェという哲学者の面白い性格が現れています。強く影響された相手だからこそ、やがて本気で反発するのです。思想を受け取って保存するのではなく、それをひっくり返して別の問題へ変えてしまいます。ショーペンハウアーから「意志」の問題を受け取りながら、生を否定する方向ではなく、苦痛を含んだ生をどう肯定できるかという方向へ進んでいきます。師匠から教科書をもらい、その教科書を読み終えたあと、赤ペンを持って反論を書き始めたようなものです。

 もう一人、若いニーチェに大きな影響を与えたのが音楽家リヒャルト・ワーグナーです。ニーチェはワーグナーの音楽に、古代ギリシア悲劇を現代によみがえらせる可能性を見ていました。初期の代表作『悲劇の誕生』には、古代ギリシアの研究、ショーペンハウアーの哲学、ワーグナーへの期待が入り交じっています。ところが、この関係も長くは続きません。後のニーチェはワーグナーを厳しく批判し『ワーグナーの場合』という著作まで書きます。ニーチェは、尊敬した人物を永遠に先生として祭り上げておくことが苦手だったようです。

 この変化は単なる人間関係の喧嘩として見るより、ニーチェの思想そのものを表していると考えると分かりやすくなります。ニーチェは、自分が一度信じた考えさえ疑います。自分の信念を守り抜くことより、その信念をもう一度試験にかけることを重視します。後にニーチェが考える「自由精神」も、何にも影響されない人というより、自分自身の信念まで実験台に載せられる人として考えることができます。昨日まで信じていたものだから今日も信じる、という態度そのものが疑われるのです。

 たとえば「努力する人は偉い」という価値観があるとします。普通なら、努力は本当に大切なのか、それとも休むことも必要なのか、と議論するでしょう。しかしニーチェなら、もう一つ手前へ戻ります。そもそも、なぜ努力する人を偉いと評価するようになったのか。その価値観は、いつ、どのような社会で生まれたのか。その価値観によって利益を得るのは誰なのか。その価値を信じる人間は、どのような人間になっていくのか。ニーチェは、このように問いを地下へ掘っていきます。

 これは道徳についても同じです。「人には親切にしなければならない」「欲望を我慢できる人は立派だ」「謙虚な人は善い人だ」と言われれば、多くの場合、それが正しいかどうかを考えます。ニーチェはそこで「ちょっと待て」と言います。なぜ親切が善になったのか。なぜ我慢が徳になったのか。なぜ謙虚さが高く評価されるのか。人間は最初からそう考えていたのか。それとも、ある歴史的な事情によって、その評価が作られたのか。後の『道徳の系譜』では、この疑い方が本格的な方法になります。

 そのためニーチェは、正しい生き方を教えてくれる哲学者というより、正しいと思っていたものを検査しに来る哲学者だと考えた方が近いでしょう。しかも検査されるのは、悪い考えだけではありません。善、真理、幸福、平等、自由といった、一見すると疑う必要などなさそうな価値まで対象になります。泥棒が悪い理由を考えるだけなら話は簡単です。しかしニーチェは「善人であることを善いと思っている、その基準はどこから来た?」と聞いてきます。哲学の税務調査のような人物です。領収書だけではなく、価値観の帳簿まで見せることになります。

 だからといって、ニーチェが「善悪など全部嘘だから、好き勝手に生きればいい」と考えたわけではありません。そこも大きな誤解です。既存の価値を壊すだけなら、そのあとには何も残りません。ニーチェが恐れていた問題の一つが、まさにそこから生まれるニヒリズムでした。これまで人生を支えていた意味や価値が信じられなくなり「結局、何をしても同じではないか」と考えるようになる。ニーチェは価値を壊すことそのものを目的にしていたのではなく、価値の根拠が崩れたあと、人間はどう生きられるのかを考えていました。

 この問題を象徴するのが、有名な「神は死んだ」という言葉です。これは単に「神なんて存在しない」と言っているのではありません。西洋社会では長いあいだ、キリスト教や形而上学が、人生の意味や善悪の基準を支えていました。しかし近代になると、その絶対性を以前と同じようには信じられなくなります。そこで問題になるのは、神を信じるか信じないかだけではありません。神によって支えられていた価値まで、いったい何によって支えるのかという問題です。

 たとえば、ある建物を取り壊したとします。ところが住人たちは、建物を壊したあとも、二階に上がろうとして階段を使おうとします。当然、階段はもうありません。ニーチェが見ていた近代社会には、それと似たところがあります。神という巨大な世界観を信じられなくなっているのに、その世界観によって支えられていた善悪や人生の意味だけは、以前と同じように使おうとする。しかし土台がなくなれば、いずれ上に載っていたものも揺れ始めます。

 ここから「神の死」「ニヒリズム」「道徳の系譜」「ルサンチマン」「力への意志」「超人」「永劫回帰」「運命愛」といった、有名なニーチェの概念がつながっていきます。それぞれは別々の名言ではありません。意味を保証していたものが失われた世界で、人間はそれでも生を肯定し、自分で価値を作れるのかという、一つの巨大な問いに結びついています。

 ニーチェを「強くなれと言った哲学者」と説明すると、この問いは見えなくなります。ニーチェが疑ったのは、そもそも何を強いと呼ぶのか、何を成功と呼ぶのか、何を幸福と呼ぶのかという採点基準です。他人より金を持っている人が強いのか、欲望を我慢できる人が強いのか、失敗しても立ち上がる人が強いのか、それとも自分の失敗そのものを別の価値へ変えられる人が強いのか。採点表の点数を上げる前に、その採点表を誰が作ったのかを調べ始める。それがニーチェです。

 そしてニーチェ自身も、一つの価値観に安住した人物ではありませんでした。ショーペンハウアーに強く惹かれ、そこから離れ、ワーグナーに文化の未来を見て、やがて激しく批判する。『悲劇の誕生』から『人間的、あまりに人間的』『曙光』『悦ばしき知識』へ進み、さらに『ツァラトゥストラ』『善悪の彼岸』『道徳の系譜』へ進んでいきます。その思想は、完成された城というより、自分で建てた足場を壊しながら先へ進む工事現場に近いものです。

 だからニーチェを読むときには「ニーチェの正解を覚える」という読み方があまり似合いません。むしろニーチェが何を疑い、なぜそこを疑ったのかを見る方が重要です。「神は死んだ」という答えを暗記するより「神が死んだら、善悪を誰が保証するのか」と問い直す方が、はるかにニーチェ的です。「超人とは何か」を一行で覚えるより「自分が信じている価値は、本当に自分で選んだものなのか」と考える方が、ニーチェの哲学に近づきます。

 ニーチェの哲学を一つの質問に縮めるなら、こうなります。

「それは本当に正しい価値なのか。それとも、弱さや恐怖から作られた価値なのか」

 この質問は、宗教にも道徳にも社会にも向けられます。そして最後には、ニーチェ自身の思想にも向けられます。自分が信じているものまで疑い、壊したあとに何を作るのかを考える。ニーチェは、答えを配って歩く哲学者というより、誰も疑っていなかった問題の床板を剝がす哲学者です。

 では、なぜニーチェはそこまでして、古い価値を疑おうとしたのでしょうか。その出発点には、もっと根本的な問題があります。苦しみ、老い、失敗、争いが存在するこの世界を、人間は本当に肯定できるのかという問題です。若きニーチェが古代ギリシアの悲劇に見つけようとしたものも、やがて永劫回帰や運命愛へつながっていくものも、この問いと深く関係しています。

 ニーチェの長い思索は、まず古代ギリシアの舞台から始まります。

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1.ニーチェってどんな人?
2.『ツァラトゥストラはこう言った』解説
3.『神は死んだ』解説
4.もしもニーチェがニートだったら
5.「ニーチェとニートの違い」と人はなぜ検索するのか

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