文学・思想の一丁目一番地

第一章 「反知性主義」は、どこで切ればいい?

 「反知性主義」という言葉を初めて見たとき、意味が分からなくて立ち止まる人はそれほど多くないだろう。反、知性、主義。知性に反対する主義なのだろう、と漢字を順番に読めば、それなりに意味が通じるからである。勉強なんて役に立たない、頭のいいやつは嫌いだ、難しいことを考えるより直感で決めればいい。そんな思想を指しているように見える。

 ところが、この言葉は区切る場所を少し変えるだけで、意味がかなり変わってしまう。

「反知性・主義」

 こう読むなら、反知性的な態度そのものを主義として掲げているように見える。知性を敵視し、理屈を嫌い、考えることそのものを拒否する思想である。いわば「考えないことを信条にする人々」というイメージだ。反知性主義という語から、多くの人が最初に思い浮かべるのはこちらだろう。

 しかし別のところで切ってみる。

「反・知性主義」

 今度は意味が違ってくる。こちらなら「知性主義という考え方に反対する」という構造になる。もし知性主義というものが、人間は理性によって何でも判断できる、専門家の知識を重視すべきだ、感情や経験より理論を優先すべきだ、という思想だったとしたら、それに反対する人が必ずしも知性を嫌っているとは限らない。

 たとえば、ある農家が大学の研究者から「この方法が最も効率的です」と説明されたとする。ところが農家は三十年間その土地を耕していて、土の癖も天候の変化も知っている。そこで「理論上はそうかもしれないが、この土地ではうまくいかない」と反論したとする。この農家は知性を否定しているのだろうか。

 そうとは限らない。

 むしろ彼は、自分が持っている経験的な知識を使って研究者の理論を検討している。研究者の肩書だけを見て従うのではなく、その理論が現場で本当に成立するかを考えている。その態度は、反知性的というより、かなり知性的ですらある。

 ここで「反知性主義」という言葉の面倒さが姿を現す。

 この言葉は、一見すると知性そのものへの敵意を意味しているように見える。しかし実際には、知識人や専門家、学問的な権威への不信や反発まで含めて語られることが多い。つまり「考えることが嫌い」という単純な意味ではない。

 英語では「anti-intellectualism」と書く。ここでいう intellectual は、日本語の「知性」と完全に重なる言葉ではない。知的な人という意味もあるが、知識人、学者、思想家といった社会的な集団を指す言葉としても使われる。

 すると anti-intellectualism は「知性への反対」というより「知識人への反発」と訳したほうが分かりやすい場面すらある。

 たとえば「大学教授なんて現実を知らない」という言葉を考えてみよう。

 この発言をする人が、九九も知らず、本も読まず、考えることを拒否しているとは限らない。会社を経営しているかもしれないし、機械を修理する技術者かもしれない。あるいは大量の本を読んでいる人かもしれない。それでも「大学にいる人間は現場を知らない」と考えることはできる。

 つまり、非常に頭のいい人が反知性的な態度を取ることはあり得る。

 逆もある。

 学校の成績が悪く、難しい本もほとんど読んだことがない人が「自分には分からないから、詳しい人の説明を聞いてみよう」と考えることもある。その人は知識を持っていないかもしれない。しかし、自分の知らないことを認め、証拠を確認し、必要なら考えを変えようとしている。

 この二人を比べたとき、どちらが「知性的」なのかは簡単ではない。

 ここで奇妙なことが起きる。

 知性とは、持っている知識の量だけでは決められないのではないか、という問題が出てくるのである。

 百科事典のように物知りでも、自分の考えと違う事実を無視する人はいる。逆に知識は少なくても、自分の間違いを認め、知らないことを調べ、新しい情報によって考えを変えられる人もいる。

 もし後者を知性的と呼ぶなら、知性とは「たくさん知っていること」だけではない。自分の考えを検討する能力や、間違っている可能性を受け入れる態度まで含んでいることになる。

 すると「反知性主義者は頭の悪い人だ」という説明は、かなり怪しくなる。

 頭のよさと反知性主義は、別の軸だからである。

 たとえば、とても計算が速く、難しい資格をいくつも持っている人が「医者は製薬会社とつながっているから、医者の言うことは全部信用できない」と考えていたとする。この人は頭が悪いとは言えないかもしれない。しかし「医者である」という理由だけで、相手の説明を最初から退けるなら、そこには反知性的な態度が含まれている可能性がある。

 一方で「医者が言ったから正しい」と無条件に信じるのも、じつは同じくらい危うい。

 医者も間違えるし、研究結果が後から修正されることもある。専門家の言葉だから正しい、と考えた瞬間に、やはり内容の検討を省略しているからだ。

 ここが面白い。

 専門家を疑えば反知性主義になり、専門家を信じれば知性的になる、という単純な話ではないのである。

 重要なのは「なぜ信じるのか」「なぜ疑うのか」である。

 専門家の説明に証拠があるから信じる。別の研究と一致しているから信じる。しかし新しい証拠が出れば考え直す。これは知性的な態度と言えるだろう。

 反対に「専門家だから嫌い」「有名大学だから信用できない」「テレビに出ている学者は全部御用学者だ」と最初から決めてしまえば、個々の説明を確かめる必要がなくなる。

 そして、じつは逆方向にも同じ罠がある。

「学者が言っているんだから素人は黙っていろ」

 これも考える作業を終わらせる言葉である。

 相手の主張が正しいかではなく、誰が言ったかによって議論を終わらせているからだ。

 こう考えると「反知性主義」という言葉は、だんだん不穏なものに見えてくる。

 誰かを見て「反知性主義者だ」と呼ぶのは簡単である。しかし、その人が本当に知性を嫌っているのか、特定の専門家を疑っているだけなのか、権威そのものに反発しているのか、あるいは単にこちらと意見が違うだけなのかは分からない。

 しかも「反知性主義者だから、あいつの話は聞かなくていい」と考えた瞬間、とんでもないことが起きる。

 相手を反知性主義者と呼んだ側が、相手の主張を検討することをやめてしまうのである。

 知性を守るために使った言葉のせいで、自分が考えることをやめてしまう。

 これはかなり皮肉である。

 反知性主義という言葉を知っただけでは、知性的になったことにはならない。それどころか、この言葉をどこで区切り、何を意味していると考え、誰に当てはめるのか。その過程そのものが、小さな知性テストになっている。

 最初はただの漢字五文字に見えた言葉が、少し掘るだけで「そもそも知性とは何なのか」という問いをこちらへ投げ返してくる。

 反知性主義について考えていたはずなのに、いつの間にか試されているのはこちら側なのである。

第二章 「頭のいいやつが嫌い」だけでは説明できない

 反知性主義という言葉を語るとき、よく名前が出てくる人物がいる。アメリカの歴史家リチャード・ホーフスタッターである。彼は一九六三年に『Anti-Intellectualism in American Life』を出版し、アメリカ社会に繰り返し現れてきた知識人への不信や反感を、歴史の中から追いかけた。

 ここで重要なのは、ホーフスタッターが「アメリカには頭の悪い人がたくさんいる」と言いたかったわけではないことである。

 そんな話なら、歴史を何百年もさかのぼる必要はない。

 彼が問題にしたのは、もっと社会的なものだった。

「知識人は現実を知らない」

「学者は頭でっかちだ」

「本ばかり読んでいる人間より、普通の生活をしている人間のほうが世の中を分かっている」

 こうした感覚である。

 これなら、現代でも聞いたことがあるのではないだろうか。

 たとえばテレビで経済学者が「統計的には賃金が上昇しています」と説明したとする。それを見ていた人が、自分の給料明細を眺めながら「何を言っているんだ。俺の給料は一円も増えていない」と腹を立てる。

 この人は統計を理解できないから怒っているとは限らない。

 統計が語っている社会と、自分が暮らしている社会との間に、ずれを感じているのである。

 平均値が上がっていても、全員の賃金が上がるわけではない。特定の産業だけが伸びているかもしれないし、物価上昇を考えれば生活が苦しくなっているかもしれない。だから「統計と俺の生活が違う」という違和感自体には、考える価値がある。

 ところが、ここから先には二つの道がある。

 ひとつは「なぜ統計と自分の実感が違うのだろう」と考える道である。

 もうひとつは「統計なんて全部嘘だ」と考える道である。

 似ているようで、かなり違う。

 前者は、専門家の説明と自分の経験が食い違っているので、その理由を調べようとしている。後者は、食い違っているという理由だけで、専門家の使っている方法そのものを捨ててしまう。

 反知性主義が問題になるのは、しばしばこの二つ目の方向へ進んだときである。

 しかも厄介なのは、そこに一定の説得力があることだ。

 知識人は本当に間違える。

 専門家は本当に現場を知らないことがある。

 学者同士でも意見は割れる。

 権威ある組織が、後になって過去の説明を訂正することもある。

 だから「専門家を信用するな」という言葉には、完全なでたらめとは言い切れない部分がある。

 もし専門家が絶対に間違わないなら、反知性主義という現象はもっと単純だっただろう。

「専門家は正しい。それを信じない人が間違っている」

 これで終わる。

 しかし現実はそうなっていない。

 専門家とは、未来をすべて見通せる人ではない。その分野について、普通の人より大量の知識と方法を持っている人である。分からないことがなくなるのではなく、何が分かっていて、何がまだ分かっていないかを、比較的よく知っている人とも言える。

 ところが世間から見ると、この「比較的」という部分が見えにくい。

 医者がテレビに出れば、病気のことなら何でも知っている人に見える。経済学者が出れば、来年の景気を当てられる人に見える。科学者が出れば、科学に関する問題には唯一の正解を即答できる人に見える。

 そして外れた瞬間に「専門家なんてあてにならない」となる。

 考えてみれば、かなり過酷である。

 野球選手が毎打席ホームランを打てなくても「野球の専門家ではない」とは言われない。将棋棋士が一局負けても「将棋を何も分かっていない」とはならない。しかし専門家が未来予測を一度外すと、その分野全体の信用まで失われることがある。

 ここには、専門家に対する奇妙な期待がある。

 専門家には、正しくあってほしい。

 しかも普通の人より、はるかに正しくあってほしい。

 だからこそ失望も大きい。

 知識人への反発には、最初から知識を憎んでいる場合だけでなく「お前たちは詳しいと言っていたのに、なぜ間違えたのだ」という裏切られた感情も混ざっている。

 ホーフスタッターが扱ったアメリカ社会では、こうした知識人への距離感が長い歴史の中で何度も姿を現した。

 アメリカには、実際に役に立つ能力を高く評価する文化が強く存在してきた。土地を耕せる、商売ができる、機械を直せる、会社を作れる。そうした能力に比べると、本を読み、理論を考え、議論を続ける知識人は「それで何ができるのか」と見られやすい。

 これは日本でも理解しやすい。

「そんな勉強をして、何の役に立つの?」

 哲学や文学を学んでいる人なら、一度くらい聞いたことがありそうな言葉である。

 ところが、この問いは不思議だ。

 自動車整備を学ぶなら、役に立つことが分かりやすい。壊れた車を直せる。

 会計を学べば帳簿を扱える。プログラミングを学べばソフトウェアを作れる。

 では哲学は何を作るのか。

 目の前に完成品が出てこない。

 この「何の役に立つのか分からない知識」は、反知性主義と相性が悪い。

 もちろん、役に立つかどうかを尋ねること自体が悪いわけではない。学問にも税金や時間が投入される以上、その価値を尋ねることには意味がある。

 問題は「すぐ役に立つかどうか」だけを、知識の価値を決める唯一の物差しにしたときである。

 たとえば数論は、長い間「役に立たない数学」の代表のように扱われることがあった。素数の性質を調べて何になるのか。巨大な整数を研究して、明日の晩飯が安くなるのか。

 ところが現代では、数論の成果が暗号技術と深く結びついている。

 役に立たなかった知識が、後から突然役に立ったのではない。

 人類の側が、その知識を使える場所までたどり着いたのである。

 知識の価値には、時間差がある。

 この時間差を許せるかどうかも、知性と社会の関係を考えるうえで重要になる。

 すぐに利益を生む知識だけを残せば、一見すると効率的である。しかし百年後に何が必要になるかを、現在の人間は知らない。

 知識とは、まだ用途の決まっていない道具を倉庫に保存しておく行為でもある。

 だから知識人は、社会から見ると少し変な存在になりやすい。

 今すぐ何に使うのか分からないものを調べている。

 普通の人が考えないような問題を何十年も考えている。

 難しい専門用語を使う。

 しかも、話を聞いたからといって明日から生活が便利になるとは限らない。

 これでは「頭でっかち」と呼ばれても不思議ではない。

 アメリカでは知識人を揶揄する言葉として「egghead」が広く使われた時代がある。直訳すれば「卵頭」である。禿げ上がった大きな頭を持つ、現実離れしたインテリを連想させる言葉だった。

 なんとも意地の悪い呼び方だが、ここには重要な構図がある。

「頭はいいのだろう。でも、俺たちの生活は知らない」

 知識そのものへの否定ではない。

「われわれ」と「彼ら」の分断である。

 この瞬間、知識人は単に物を知っている人ではなくなる。

 別の世界に住む人間になる。

 そして、人間は知らない世界の人間を信用しにくい。

 町の修理工が「この部品は交換したほうがいい」と言えば、毎日機械を触っている人だから信用できる。しかし遠くの大学からやってきた教授が「研究によれば、この地域ではこうすべきです」と言えば「昨日来たばかりのお前に何が分かる」と感じる。

 知識の量だけなら、教授のほうが上かもしれない。

 現場の情報なら、修理工のほうが上かもしれない。

 どちらか一方を完全に無視すると、判断を誤る。

 ここで必要なのは「専門知」と「現場知」の接続である。

 しかし接続は面倒だ。

 互いに説明しなければならない。相手の知らないことを認め、自分の知らないことも認めなければならない。

 それより簡単なのは「あいつらは現場を知らない」と切り捨てることである。

 逆に「あいつらは素人だから分からない」と切り捨てることもできる。

 そして、この二つは敵同士に見えて、じつはよく似ている。

 相手の話を聞かなくてよくなるからだ。

 反知性主義を単なる「頭の悪い人の思想」と考えると、この構造が見えなくなる。

 問題なのは知能ではない。

 知識を持つ者と、持たない者の間に生まれる距離である。

 もっと正確に言えば「自分とは違う種類の知識を持っている人間を、どこまで信用できるか」という問題なのだ。

 そう考えると、反知性主義は珍しい人だけが持つ特殊な思想ではなくなる。

 医者に腹を立てたとき。

 大学教授の話を聞いて「現実を知らないくせに」と思ったとき。

 逆に、専門家の肩書を見ただけで安心したとき。

 誰でも、その入口には立つことができる。

 だから反知性主義は厄介なのである。

 それは知性の外側からやってくる敵ではない。

 むしろ、自分は正しく物事を見ているという確信の中から、静かに生まれてくる。

第三章 「反知性主義者だ」と言った瞬間、こちらも試される

 反知性主義という言葉を覚えると、世の中のいろいろな場面が急に説明できるようになった気がする。

「専門家の言うことなんか信用できない」

「本を読んでいるやつより、俺の経験のほうが正しい」

「難しいことを言う人間は、だいたいごまかしている」

 こんな発言を見つけるたびに「なるほど、これが反知性主義か」と名前を付けられる。

 名前を知ることには力がある。

 それまで漠然と感じていたものが、一つの概念として見えるようになるからだ。

 ところが、ここで反知性主義という言葉は最後の罠を仕掛けてくる。

「こいつは反知性主義者だ」

 そう判断した瞬間、もう相手の話を聞かなくてもいいような気がしてしまうのである。

 反知性主義者なのだから、どうせ証拠を見ない。専門家を嫌っているだけだ。理屈を説明しても無駄だ。

 すると、どうなるだろう。

 相手の主張そのものを検討しなくなる。

 これは奇妙な話である。

 相手が考えることを放棄していると批判した人間が「反知性主義者だから」という理由で、相手について考えることを放棄してしまう。

 知性を守るために使った言葉が、思考停止の道具になるのである。

 たとえば、ある人が「大学教授の言うことなんて信用できない」と言ったとする。

 ここだけ切り取れば、いかにも反知性的に見える。

 しかし事情を聞いてみると、その人は以前、地域開発について大学の研究チームから説明を受けていたかもしれない。研究者は地図や統計を使って「この地区には十分な公共交通があります」と説明した。しかし実際には、地元の高齢者にとって最寄りのバス停までの坂道がきつく、雨の日にはほとんど利用できなかった。

 その経験から「大学教授は現場を知らない」と言っているのだとしたらどうだろう。

 表現は乱暴である。

 しかし、その不満の中には検討すべき情報が含まれている。

 そこで「反知性主義ですね」と片付けてしまえば、本当に現場を知らなかったのはどちらなのか分からなくなる。

 もちろん逆の場合もある。

 専門家が大量のデータを示しているのに「俺の周りではそんなことは起きていない」という理由だけで、全部を否定する人もいる。

 日本全国のデータに対して、自分の知り合い五人を持ち出す。

 百万人を調べた研究に対して「俺の叔父さんは違った」と反論する。

 叔父さんに罪はない。

 しかし一人の経験と百万人の統計は、同じ種類の証拠ではない。

 ここで必要なのは「経験か統計か」の二者択一ではない。

 何について判断しているのかを確認することである。

 ある個人について知りたいなら、その人自身の経験は極めて重要になる。一方で、大きな集団にどんな傾向があるかを知りたいなら、一人の経験だけでは足りない。

 知性とは、どちらか一方を無条件に信用することではない。

 証拠を、その証拠が答えられる範囲で使うことである。

 ところが人間は、こういう面倒な作業をあまりしたくない。

 できれば一発で判断したい。

「専門家だから正しい」

「専門家だから信用できない」

「高学歴だから分かっている」

「高学歴だから現場を知らない」

「庶民だから現実を知っている」

「素人だから何も分かっていない」

 どれも非常に便利である。

 相手の発言を一つずつ検討しなくても、属性だけで答えを出せるからだ。

 頭を使わずに済む判断ほど、頭がよさそうに見えることもある。

 ここに反知性主義という言葉の面白さがある。

 反知性主義を批判している人間が、必ず知性的とは限らない。

 難しい言葉を知っていることと、その言葉を適切に使えることは別だからだ。

 これは他の概念でも起こる。

「それは論理的ではない」

「それはバイアスだ」

「それは陰謀論だ」

「それは疑似科学だ」

 こうした言葉は、本来なら問題を詳しく見るための道具である。

 しかし便利な言葉ほど、問題を見る代わりに問題へ貼るシールになりやすい。

 シールを貼れば整理できる。

 整理できれば理解した気になれる。

 しかし、分類することと理解することは同じではない。

 昆虫に名前を付けても、その昆虫の生態をすべて理解したことにはならない。それと同じで、人の発言に「反知性主義」と名前を付けても、なぜその人がそう考えているのかまで分かったことにはならない。

 ここで知性について、かなり重要な特徴が見えてくる。

 知性的であるとは「正しい答えをたくさん知っていること」だけではない。

 自分の判断を保留できることでもある。

 分からないときに「分からない」と言える。

 証拠が足りないときに、結論を急がない。

 自分に都合の悪い情報が出てきたときにも、一度はそれを見る。

 そして以前の判断が間違っていたなら、変更する。

 こう書くと簡単そうだが、実際にはかなり難しい。

 なぜなら「分からない」と言うより「分かった」と言うほうが気持ちいいからである。

 人間は、答えのない状態に長くいることを嫌う。

 誰が正しいのか。

 誰が悪いのか。

 何を信じればいいのか。

 できれば早く決めたい。

 反知性主義も、その反対側にある権威への盲信も、この不安から逃れる方法として考えると理解しやすい。

「専門家は信用できない」

 こう決めれば、専門家の話を毎回検討しなくていい。

「専門家は信用できる」

 こちらも同じで、内容を毎回確かめなくていい。

 結論は反対なのに、機能はよく似ている。

 考える手間を省いてくれるのである。

 では、どうすればいいのか。

 おそらく「何を信じればいいか」を一度決めて終わりにする方法はない。

 専門家の話なら、その人の専門分野なのかを見る。

 研究なら、どんな証拠を使っているのかを見る。

 自分の経験と食い違うなら、なぜ食い違うのかを考える。

 そして分からなければ、とりあえず分からないまま置いておく。

 なんとも地味である。

「これさえ覚えれば、もう騙されない」という必殺技はない。

 むしろ知性的な態度とは、必殺技が存在しないことを受け入れる態度なのかもしれない。

 だから「自分は知性的だ」と確信した瞬間も、少し危ない。

 自分は証拠を見ている。

 自分は論理的に考えている。

 自分は専門家を適切に評価できている。

 そう思っている人間にも、当然ながら思い込みはある。

 人間は、自分の偏りを見ることが苦手なのである。

 他人が感情的になっているのはすぐ分かる。

 自分が感情的になっているときは「これは正当な怒りだ」と感じる。

 他人が権威に頼れば「権威主義だ」と思う。

 自分が信頼している専門家を引用するときには「信頼できる情報源を使っている」と感じる。

 他人が都合のいい情報だけを集めれば、偏っているように見える。

 自分が同じことをしていると、なぜか「十分に調べた」という記憶になる。

 知性には、奇妙な敵がいる。

 無知だけではない。

 確信である。

 何も知らない人なら「知らない」と言える可能性がある。

 しかし少し知識を得て「もう分かった」と思った人は、そこから先を調べなくなることがある。

 だから反知性主義について少し学んだ人にも、同じ危険が待っている。

「世の中には反知性主義者がいる。自分はそれを見抜ける」

 この瞬間、新しい思考停止が始まるかもしれない。

 そう考えると、反知性主義という言葉の一番面白い使い方も変わってくる。

 他人に向ける言葉ではなく、自分に向ける言葉として使うのである。

「いま俺は、相手の内容ではなく肩書を見ていないか」

「自分に都合のいい専門家だけを選んでいないか」

「反対の証拠が出てきたら、考えを変えられるだろうか」

 こう問いかけている間は、少なくとも思考そのものは続いている。

 そして、おそらく知性にとって最も重要なのはここである。

 正しい答えを持っていることではない。

 考えることを終わらせないことだ。

 反知性主義という言葉は、一見すると誰かを批判するための言葉に見える。

 ところが深く考えていくと、妙なことになる。

 専門家を疑う人だけを指しているわけではない。

 学歴の低い人を指しているわけでもない。

 本を読まない人を指しているわけでもない。

 むしろ問題になるのは「もう検討しなくていい」と判断してしまう態度である。

 そして、その誘惑は誰にでもある。

 ここまで分かると、最初の言葉遊びに戻ってこられる。

「反知性・主義」なのか。

「反・知性主義」なのか。

 どちらで切るのかを考えていたはずが、最後には別のところを切らなければならなくなる。

「反知性主義者」と「知性的な自分」。

 この境界線である。

 じつは、この線が一番あやしい。

 ある人が専門家を疑うときには反知性的になり、別の問題では慎重に証拠を調べることもある。

 大学教授が研究では厳密に考えながら、自分の専門外では怪しい話を信じることもある。

 人間は丸ごと知性的だったり、丸ごと反知性的だったりするわけではない。

 場面によって揺れる。

 そう考えると「反知性主義者」という人間の種類が存在するというより、誰の中にも「反知性的になる瞬間」があると考えたほうが分かりやすい。

 そして、たぶん一番警戒すべき瞬間はこうである。

「俺はあいつらとは違う。俺はちゃんと考えている」

 その確信が生まれたときこそ、もう一度考えたほうがいい。

 反知性主義という言葉は、他人の知性を測る定規のように見える。

 しかし実際に測られているのは、その定規を持っている側なのかもしれない。

 なんとも嫌な言葉である。

 そして、だからこそ面白い。


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