文学・思想の一丁目一番地

イキるってなに?

第一章 イキるとは「強そうな自分」を演じることである

 「あいつイキってるな」と言われたとき、何をしている姿を想像するだろう。大きな声で武勇伝を語っている人かもしれないし、高級車の写真をSNSに何枚も載せている人かもしれない。難しい言葉をわざと使う人、筋肉を見せつける人、有名人と知り合いだと強調する人もいる。しかし不思議なことに、高級車に乗っているだけではイキっているとは限らないし、筋肉があるだけでもイキっているとは言われない。どうやら「イキる」という現象には、持っているものとは別の何かが必要らしい。

 たとえばフェラーリを所有している人が、スーパーへ買い物に行き、普通に駐車して帰ってきたとする。これを見て「イキっている」と感じる人は、それほど多くないだろう。ところが同じ人物が、駐車場でわざとエンジンを吹かし、車の値段を聞かれてもいないのに話し始め、「まあ普通の会社員には買えないでしょうね」と言えば、急にイキりの香りが立ち始める。変わったのは車ではない。車を使って、自分という人間を大きく見せようとする態度である。

 逆に、高価なものを何ひとつ持っていなくても、人はイキることができる。コンビニの前で友人三人と立っている若者が「俺、この辺じゃ知られてるから」と言えば、それだけで立派にイキれる。「昨日三時間しか寝てない」「俺を怒らせたらヤバい」「昔はかなり遊んでた」といった言葉も同じ種類に入る。何かを証明する必要はない。重要なのは「自分は普通の人間とは少し違う」という像を、周囲へ送り出すことである。

 この点で、イキることと自慢することは少し違う。自慢とは、基本的には自分の持っているものや成し遂げたことを誇る行為である。「試験で百点を取った」「大会で優勝した」「本が一万冊売れた」と話すだけなら、それは単純な自慢で終わる場合がある。しかし「こんなの余裕だったけどね」「まあ普通の人には無理だと思う」と一言付け加えると、急にイキりへ近づく。実績の紹介から、自分の格の演出へ目的が移ったからだ。

 ここには「比較」が隠れている。イキる人は、自分の大きさだけを示しているように見えて、実際には周囲との距離を作ろうとしている。「俺は強い」という言葉には「お前たちより強い」が潜み、「俺は詳しい」には「お前たちは知らない」が潜んでいる。だから同じ発言でも、状況によってイキりになったり、ならなかったりする。専門家が授業で専門知識を語ってもイキっているとは言われにくいが、飲み会で頼まれてもいない専門用語を連発すると、途端に「先生、今日も仕上がってますね」という空気になる。

 つまりイキりとは、能力そのものではなく、能力の見せ方なのである。

 考えてみれば、これはかなり奇妙な現象だ。身体能力なら数字で測れるし、収入も金額で示せる。資格なら証明書があり、スポーツなら記録が残る。それなのに人間は、客観的な数字だけでは満足せず、その数字から「自分という人間の格」を作ろうとする。ベンチプレス百キロを上げられることと、人間として偉いことは本来まったく別である。それでも「百キロ上がる俺」という物語が作られ、その物語が他人より上に立つ材料として使われることがある。

 知識でも同じことが起きる。本をたくさん読む人が、静かに読書しているだけなら何も起きない。しかし会話の途中で「それ、ニーチェが百年以上前に言ってるけどね」と毎回割り込めば、知識は情報ではなく武器になる。哲学者の名前が、人を殴らない棍棒になるのである。しかも便利なことに、殴られた側が反論すると「勉強不足だね」と追撃までできる。知識そのものは悪くないが、知識を自分の身長を高く見せる台として使えば、そこにイキりが生まれる。

 SNSは、この現象を極端に分かりやすくした。昔なら高級な時計を買っても、それを見せられる人数には限界があった。ところが現在では、時計を腕にはめ、ハンドルに手を置き、少しだけ車のエンブレムを写し込み、写真を投稿できる。時計だけを撮れば商品の写真だが、高級車のハンドルまで写り込むと「俺の生活」が写り始める。さらにホテルのラウンジ、航空券、会員カード、タワーマンションらしき夜景が加われば、一本の短い自伝が完成する。

 面白いのは、こうした演出が必ずしも嘘ではないことである。本当に高級時計を持っていて、本当に高級車に乗っているかもしれない。それでもイキりは成立する。だから「イキる=嘘をつく」ではない。むしろ事実を材料にして、そこから必要以上に大きな人物像を組み立てることに特徴がある。身長百七十センチの人が身長二メートルだと嘘をつけば、それは単なる虚偽である。しかし百七十センチの人が、少し高い場所に立ち、下から写真を撮り、「小さい男には分からない景色」と投稿すれば、かなりイキっている。

 ここで「虚勢」との違いも見えてくる。虚勢には、本当は弱いのに強そうに振る舞うという意味が強い。怖いのに怖くないふりをする、金がないのに裕福そうに装う、知らないのに知っているふりをする。ところがイキりには、本当に強い人も参加できる。全国大会の優勝者が「まあ、この程度の相手なら片手でも勝てる」と言えば、実力があっても十分イキっている。だからイキりを「実力のない人が強がること」と定義すると、少し狭すぎる。

 では何が本質なのか。おそらく「観客」である。

 イキるという行為には、見ている誰かが必要になる。自宅で一人、鏡の前に立ち、「俺はこの町で最強だ」とつぶやいても、それだけならかなり寂しいが、社会的なイキりにはなりにくい。誰かに聞かせたい、誰かに見せたい、誰かから一目置かれたい。この方向が生まれた瞬間、自己演出が始まる。

 その意味では、イキりは舞台芸術に少し似ている。演者がいて、観客がいて、その間に「こう見られたい」という演出が存在する。服装も、小道具も、話し方も使える。高級時計を使う人もいれば、腕の太さを使う人もいる。資格を使う人、勤務先を使う人、恋愛経験を使う人もいる。中には「何も持っていないこと」を使う人までいる。「俺はブランドなんか興味ない」「SNSとか時間の無駄」「群れるの嫌いなんだよね」と言いながら、それを周囲より精神的に上である証拠として使えば、反ブランド型、反SNS型、孤高型のイキりが完成する。

 ここまで来ると、イキりから逃げるのは意外に難しい。

 高級品を見せればイキりになる場合がある。質素さを誇ってもイキりになる。勉強していることを誇っても、勉強していないのに成功したことを誇ってもイキれる。会社員として出世を自慢できるし、「俺は会社員みたいな生き方は無理」と会社員ではないことも自慢できる。都会暮らしでもイキれるし、田舎暮らしでもイキれる。人間はほとんど何でも、自己演出の材料へ変換できるらしい。

 だから「粋」と「イキる」が、音では妙に近いのも面白い。「粋な人」という言葉からは、むしろ見せびらかさない姿が連想される。高価なものを持っていても自慢しない。知識があっても、必要な場面でしか出さない。力があっても、それを振り回さない。粋には余裕があり、イキりには観客への働きかけがある。「見てくれ」と言わないところに粋があり、「見てくれ」が透けて見えるところにイキりがある、と考えると違いが分かりやすい。

 もちろん境界線は曖昧である。新しく買った車が嬉しくて写真を載せただけなのに、見る人によってはイキりに見える。大会で優勝して喜んでいるだけでも、「自慢かよ」と受け取る人はいる。つまりイキりは、演じる側だけで完成する現象ではない。見る側が「あいつは自分を大きく見せようとしている」と判断して、初めてイキりという名前が付く。

 そこに、この言葉の面白さがある。

 「イキる」は行為の名前であると同時に、他人の自己演出を見抜いたと思ったときに使う言葉でもある。本人は誇らしいだけかもしれない。本人は冗談のつもりかもしれない。それでも周囲が「実物より大きく見せようとしている」と感じれば、「イキってる」という判定が下る。

 そう考えると、イキるとは単純な悪口ではない。人間が社会の中で、自分をどれくらい大きく見せようとしているかを測る言葉なのである。

 そして厄介なのは、人間が社会で生きている限り、まったく自分を演出せずに済ませることも難しいということだ。服を選び、言葉を選び、肩書きを使い、プロフィールを書く。そのどれにも「こういう人間だと思われたい」という気持ちが少しずつ入り込む。

 では、なぜ人間はそこまでして自分を大きく見せたくなるのか。

 そこまで来ると「イキる」という若者言葉は、単なるネットスラングでは済まなくなる。人間がなぜ他人の目を気にし、なぜ自分の価値を示そうとするのかという、かなり古くて大きな問題につながってくるのである。

第二章 なぜ人間はイキってしまうのか?

 イキっている人を見ると、「本当は自信がないんだろう」と言いたくなる。たしかに、そういう場合はある。自分の価値に不安があるからこそ、強さや金や知識を必要以上に見せつける。しかし、すべてのイキりを劣等感だけで説明するのは少し無理がある。本当に強い人もイキるし、本当に金持ちの人もイキる。本当に頭のいい人だって、自分の賢さをこれでもかと見せつけることがある。

 では、人間はなぜイキるのだろう。

 まず考えたいのは、人間が社会的な動物だということである。一人で生きているなら、自分が集団の中で何番目なのかを気にする必要はない。しかし人間は、昔から集団の中で暮らしてきた。食べ物を分けてもらえるか、仲間として頼られるか、危険なときに助けてもらえるか、恋愛相手として選ばれるか。そうしたことの多くが、集団の中で自分がどう評価されているかに左右される。

 そこで「私は価値のある人間です」と周囲へ知らせる必要が生まれる。

 もちろん、人間だけがそんなことをしているわけではない。動物の世界にも、体を大きく見せたり、派手な色を見せたり、大きな声を出したりする行動がある。猫が毛を逆立てれば、実際より大きく見える。クジャクは巨大な羽を広げる。シカは立派な角を持つ。彼らがSNSを使っているわけではないが、「俺は強い」「私は魅力がある」という信号を周囲へ送っている。

 人間は、この信号をとんでもなく複雑にした。

 腕力だけではない。車、時計、服、学歴、会社、肩書き、フォロワー数、資格、読書量、旅行歴、恋愛経験、交友関係まで使える。人間は文化を作った結果、ほとんど無限のイキりアイテムを手に入れてしまったのである。ライオンなら立派なたてがみを生やすくらいしか方法がないが、人間なら「外資系」「港区」「博士号」「ベンチプレス百二十キロ」など、好きな装備を選べる。

 しかも面白いことに、イキりに使えるものは社会によって変わる。

 ある集団では高級車が強い。別の集団では学歴が強い。また別の集団では、ゲームの腕前やプログラミング能力が重要かもしれない。登山仲間の前で「フェラーリ持ってます」と言っても、それほど尊敬されないかもしれないが、「冬の剱岳に登りました」と言えば空気が変わる。反対に高級車の集まりへ行って、「百名山を制覇しました」と言っても、反応は薄い可能性がある。

 つまりイキりには、通貨のようなものがある。

 その場で何が価値を持つのかを読み取り、それを提示するのである。学校なら成績、会社なら役職、ネットならフォロワー数、筋トレ界隈なら重量、オタク界隈なら知識量という具合だ。もちろん実際にはもっと複雑だが、「この集団では何を持っていると強いのか」を人間は驚くほど敏感に察知する。

 ここで、イキりが単なる個人の性格ではないことが見えてくる。

 もし周囲の誰も高級時計に価値を感じなければ、高級時計を使ってイキる意味はない。十万円の時計を見せても、「それ防水?」としか聞かれない世界では、威力が出ない。逆に、時計のブランドや型番で序列が決まる集団なら、腕を少し見せるだけで十分な信号になる。

 つまりイキる人だけでなく、イキれる環境も必要なのである。

 そして、この仕組みには一つ合理的なところがある。自分の強さを見せることで、実際に争わずに済む場合があるからだ。

 たとえば二人の人間が対立したとする。毎回、本当に殴り合って強さを確認していたら、社会は大変である。そこで肩書きや評判が役に立つ。「あの人は社長だ」「あの人はこの分野の専門家だ」「あの人には大勢の仲間がいる」と分かれば、相手は行動を変えるかもしれない。地位や能力を示すことには、余計な衝突を減らす機能もある。

 ここから考えると、イキりは「無意味な強がり」から生まれたというより、価値を周囲へ伝える仕組みが暴走したものと考えた方が分かりやすい。

 問題は、人間が信号を盛れることである。

 本当に百の能力がある人が百を見せれば、それは単なる情報になる。しかし七十の能力を百二十に見せようとすれば、演出が必要になる。話を少し大げさにする。成功だけを見せる。失敗は隠す。都合のいい数字を選ぶ。たまたま会った有名人を「知り合い」のように語る。こうして現実の自分と、見せたい自分の間に距離が生まれる。

 この距離が大きくなるほど、イキりらしさは強くなる。

 ただし、ここで注意したいのは、本人が必ずしも嘘をついている自覚を持っているとは限らないことだ。人間は他人だけでなく、自分自身にも物語を語る。「俺は昔かなり悪かった」「俺は会社に縛られない人間だ」「私は普通の人とは考え方が違う」。何度も語っているうちに、その人物像が自分にとっても本物になっていくことがある。

 イキりは他人向けの広告であると同時に、自分向けの広告でもある。

 これは意外に重要である。人間は、自分が何者なのかを完全には分かっていない。毎日、自分自身を観察して、その結果を中立的に報告しているわけではない。むしろ「自分はこういう人間だ」という物語を作り、その物語に合う行動を選ぶことがある。

 「俺は孤独を愛する男だ」と思えば、一人でいることに意味が生まれる。「俺は挑戦する人間だ」と思えば、新しいことを始めやすくなる。「俺は他人に媚びない」と思えば、反対意見を言うことが誇らしくなる。その自己像が周囲へ向けて強く演出されたとき、イキりと呼ばれることがある。

 では、やはりイキる人は自信がないのだろうか。

 答えは、場合による。

 自信がないから、自分を大きく見せる人はいる。小さく扱われるのが怖くて、先に威圧する人もいる。知らないと思われるのが嫌で、何でも知っているふりをする人もいる。こうしたイキりには、防具としての役割がある。「俺を馬鹿にするな」というメッセージを先に出しておくことで、自分が傷つく可能性を減らそうとしているのである。

 しかし逆に、自信がありすぎてイキる人もいる。

 本当に成功していて、本当に自分を優秀だと思っているので、それを隠す理由がない。「事実なんだから言って何が悪い」となる。このタイプに「本当は自信がないんでしょ」と言っても、おそらく話はかみ合わない。本人としては鎧を着ているのではなく、王冠をかぶっているつもりだからである。

 したがって、イキりを劣等感だけで説明すると、王冠まで鎧だと思い込むことになる。

 むしろ共通しているのは、「他人からどう見えるか」が重要になっていることだ。

 この点を考えると、「俺は他人の評価なんか気にしない」という発言はなかなか興味深い。もし本当にまったく気にしていないなら、それを他人へ宣言する必要もないはずである。「俺は世間体なんかどうでもいい」「俺は群れない」「流行なんか興味ない」と繰り返し言っているうちに、「他人の評価を気にしない俺」を他人から評価してほしいという奇妙な構造が生まれる。

 反抗すら、地位の記号になりうるのである。

 高級ブランドを着ている人を見て、「ブランドなんか着るやつは自信がない」と笑う人がいる。しかし、その人が「俺はブランドに騙されない賢い人間だ」と誇り始めれば、別のゲームを始めただけかもしれない。ブランドを着ることで上に立つか、ブランドを馬鹿にすることで上に立つか。使っている道具は逆でも、「自分は一段上にいる」と示したい点ではよく似ている。

 こうして考えると、人間は驚くほど器用にイキる。

 金持ちは金でイキれる。貧乏でも「金に執着しない」でイキれる。学歴があれば学歴でイキれるし、学歴がなくても「学校の勉強なんか意味ない」でイキれる。都会に住めば都会でイキれ、田舎に住めば自然豊かな暮らしでイキれる。会社員なら出世でイキれ、会社を辞めれば自由でイキれる。

 まるでイキりには保存則があるようである。何かを捨てても、別の材料が現れる。

 それは、人間が「自分は何者なのか」を常に周囲へ示しながら生きているからなのだろう。自分を紹介するとき、職業を言う。服装を選ぶ。話し方を変える。趣味を語る。プロフィールを書く。そこには少なからず、「こう見られたい」という気持ちが入っている。

 だとすると、イキることそのものを完全になくすのは難しい。

 重要なのは、自分を見せることではなく、自分を大きく見せる必要がどこから生まれているのかである。怖いからなのか、認められたいからなのか、本当に自分が優れていると信じているからなのか、それとも単に楽しいからなのか。同じ「イキり」に見えても、中身は一つではない。

 そして、さらに厄介な問題が残る。

 他人を見て「あいつイキってるな」と笑ったとき、その笑っている側は、本当にこのゲームの外にいるのだろうか。「自分はあんな分かりやすい自己演出には騙されない」と考えた瞬間、その人もまた、自分を一段高い場所へ置いているのではないだろうか。

 イキる人を笑うことによって、イキることはできる。

 そう考え始めると、この言葉は他人だけに向けられる便利な悪口ではなくなってくる。観客席に座っていたはずの人間まで、いつの間にか舞台の上へ引っぱり出されるのである。

第三章 「イキってる」と言う人もイキっている?

 「あいつイキってるな」と言うとき、人はたいてい少し笑っている。高級車を必要以上に見せる人、難しい言葉を並べる人、昔の武勇伝を語る人を見て、「必死だな」と感じる。その瞬間、自分は相手の演出を見抜いた側にいる。舞台の上で大きく見せようとしている人を、客席から冷静に眺めているつもりになる。

 ところが、この客席は本当に舞台の外にあるのだろうか。

 たとえば、誰かがSNSに高級ホテルの写真を載せ、「最高の環境に身を置くことが成長につながる」と書いたとする。それを見た人が「こういう意識高い系、痛いよな」と投稿する。最初の人は、豊かな暮らしを見せることで自分を上に置こうとしているように見える。しかし後の人も、「自分はそんな薄っぺらい演出には騙されない」という位置に立っている。

 つまり、イキりを見抜くことそのものが、新しい自己演出になることがある。

 これはかなり便利なイキり方である。高級車も時計も必要ない。筋肉も学歴もいらない。ただ「あんなもので喜ぶなんて浅い」と言えば、自分を一段上に置くことができる。相手がブランド品で高さを作るなら、こちらはブランド品を馬鹿にすることで高さを作る。使っている材料が逆なだけで、やっていることは案外似ている。

 知識の世界でも同じことが起こる。難しい哲学用語を並べる人がいれば、「知識をひけらかしている」と批判される。しかし批判する側が、「本当に頭のいい人はそんな言葉を使わない」と語り始めれば、今度は「本物の知性が分かる自分」という像が生まれる。知識でイキる人を、知識に対する態度でイキる人が笑っているのである。

 ネットでは、この構造がさらに分かりやすい。

 成功者が収入を自慢する。それを見た人が「金しか誇るものがないのか」と笑う。すると別の人が「成功者を妬んでいるだけだろ」と笑う。さらに別の人が「成功者を擁護すれば自分まで成功者になった気でいるのか」と笑う。そのうち最初の話題が何だったのか分からなくなり、誰が一番冷静で、誰が一番賢く、誰が一番物事を見抜いているかという競争だけが残る。

 イキりを批判すると、イキりが消えるとは限らない。イキりの通貨が変わるだけなのである。

 この現象は、「俺は普通とは違う」という感覚と深く結びついている。人間は多数派から離れることで、自分を特別に感じることがある。「みんなが好きなものを俺は嫌い」「流行しているものには興味がない」「テレビなんか見ない」「SNSなんかやらない」。もちろん、本当に興味がない場合もある。ただ、それを何度も他人へ宣言し始めると、「興味がないことを知ってほしい」という奇妙な状態になる。

 興味がないことに、ものすごく熱心なのである。

 たとえば「俺は承認欲求なんかない」とSNSに投稿する場面を考えると分かりやすい。本当に承認をまったく必要としないなら、その宣言を他人へ届ける理由は薄い。「承認欲求を超越した自分」を承認してもらいたいという、少し入り組んだ構造がそこに見える。

 だからといって、「承認欲求を語る人は全員イキっている」と決めつければいいわけでもない。それを始めると、今度は「他人の承認欲求を見抜ける自分」という新しい舞台ができる。鏡の前に鏡を置いたように、自己演出がどこまでも反射していく。

 ここで問題になるのは、そもそも人間が自己演出なしに生きられるのかということだ。

 服を選ぶだけでも、ある程度の自己演出がある。スーツを着れば真面目に見えるし、派手な服を着れば目立つ。髪型を整えれば清潔に見せられる。プロフィールに職業を書くのも、「自分はこういう人間です」という情報を相手へ渡している。

 文章を書く場合も同じである。丁寧な言葉を選べば丁寧な人物として見えるし、乱暴な言葉を使えば豪快な人物に見えるかもしれない。自分では自然に話しているつもりでも、相手に見せている自分は、ある程度編集されている。

 人間は、自分という存在をそのまま相手へ渡すことができない。

 必ず何かを選んで見せる。職業を言うか、趣味を言うか、年齢を言うか、実績を言うか。全部を一度に伝えることはできない。そのため、人間関係には最初から編集が入っている。言い換えれば、自己演出そのものは異常な行為ではなく、社会生活の基本機能なのである。

 そうなると、どこからがイキりなのかはますます難しくなる。

 大会で優勝した人が「優勝しました」と言う。これは報告である。しかし「まあ当然です」と付ければ、少し空気が変わる。「こんなの誰でもできる」と言えば、さらに変わる。その人にとっては謙遜のつもりかもしれないが、聞く側からすれば「この程度を簡単にできる自分」という能力の強調にも見える。

 謙遜さえ、イキりの材料になりうる。

 「たいしたことないですよ」と言いながら、たいした実績を見える場所へ置く方法もある。賞状を壁に飾り、その前で「運が良かっただけです」と言えば、控えめさと実績を同時に展示できる。人間の自己演出はなかなか器用である。

 では、イキらないためには、何も見せず、何も語らず、何も誇らなければいいのだろうか。

 そう簡単でもない。「自分は目立たず静かに生きている」ということまで誇り始めれば、清貧型のイキりになる。「他人と競争しない」と言いながら、競争する人を下に見れば、反競争という競技に参加していることになる。「私は謙虚だ」と自覚した瞬間、謙虚さが勲章になる場合さえある。

 人間は、勝負から降りることによって勝とうとすることがある。

 ここまで来ると、「イキる人」と「イキらない人」を完全に分けることは難しい。むしろ誰にでも、自分を少し良く見せたい瞬間があると考えた方が自然だろう。好きな人の前では少し格好をつける。面接では長所を強調する。初対面では変な人だと思われないように振る舞う。SNSでは失敗した一日より、うまくいった一日を載せやすい。

 それらを全部禁止すれば、人間関係そのものが成立しにくくなる。

 だから問題は、「イキることは悪いか」という単純な話ではない。むしろ、自分が何を見せようとしているのかに気づいているかどうかが重要になる。

 たとえば「俺はこんなにすごい」と語りながら、自分でも「今日は少し盛っているな」と分かっているなら、そこには距離がある。反対に、自分の演出を完全に事実だと思い込み、「自分は本当に他人より上だ」と考え始めれば、他人の価値を低く見る方向へ進みやすい。

 イキりが面白いのは、人間が自分自身をどう作っているかを見せてくれるところにある。

 人は最初から完成した「本当の自分」を持ち、それを外へ出しているだけではない。話し方を選び、服を選び、仕事を選び、趣味を選びながら、「自分とはこういう人間だ」という像を作っていく。その像を他人へ見せ、他人の反応を受け取り、また少し修正する。

 つまり人間は、観客であると同時に役者でもある。

 誰かを見て「あいつイキってるな」と笑った瞬間にも、自分は完全な観客ではない。「自分はあんな人間ではない」という形で、自分の人物像を作っているからだ。派手な人を笑えば、自分は落ち着いた人になる。浅い人を笑えば、自分は深い人になる。騙される人を笑えば、自分は見抜ける人になる。

 他人を評価するとき、人は同時に自分を説明している。

 そう考えると、「イキる」という言葉はかなり不思議である。もともとは誰かを軽く笑うための言葉なのに、突き詰めていくと、その言葉を使う側まで巻き込んでしまう。

 「あいつイキってる」と言ったあと、ほんの少しだけ「では、自分は何を見せようとしているのだろう」と考えることができる。

 その瞬間、この言葉は悪口ではなくなる。

 イキるとは、自分ではない何者かになることではないのかもしれない。自分が何者であるかを、他人に分かってもらおうとすることなのかもしれない。そして人間が他人と暮らす生き物である限り、その営みから完全に逃げることは、おそらくできないのである。

生きるってなに? 哲学用語シリーズ60
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