文学・思想の一丁目一番地

生きるってなに? 哲学用語シリーズ60

生きるってなに? 哲学用語シリーズ60
生きるってなに? 哲学用語シリーズ60

第一章 生きるってなに?

 朝、目が覚める。布団の中で、まだ体は重い。目は開いているのに、起き上がる気力がない。腹は減っているようでもあり、何も食べたくないようでもある。スマホを見ると、誰かの予定、誰かの成果、誰かの怒りが流れてくる。こちらも確かに息をしている。心臓も動いている。けれど、その瞬間にふと「これは生きていると言えるのだろうか」と思うことがある。

 この違和感は、ただの気分ではない。むしろ「生きる」という言葉が、いくつもの意味を一つに押し込めているから生まれる。病院で「命は助かった」と言うときの生きる。退屈な毎日の中で「こんなの生きている感じがしない」と言うときの生きる。大切な人に支えられて「なんとか生きている」と言うときの生きる。死を意識して「残りの人生をどう生きるか」と考えるときの生きる。これらは同じ言葉で呼ばれているが、見ている場所が少しずつ違う。

 まず、生きるとは体が続いていることである。呼吸し、血が巡り、体温が保たれ、腹が減り、眠くなり、傷がふさがる。植物なら光へ伸びる。猫なら腹が減れば餌を探す。人間もまた、どれほど高尚なことを考えていても、眠らなければ壊れ、食べなければ動けず、痛みがあれば世界の見え方まで変わる。ここでの生きるとは、身体が自分を保とうとする働きである。

 この意味での生は、とても地味で、しかし決定的である。どれだけ立派な思想も、まずは呼吸する体の上に乗っている。熱が出ている日に、人生の意味を考えるのは難しい。睡眠不足の朝に、他人へ優しくするのも難しい。体は単なる入れ物ではない。体の状態は、そのまま世界の色を変える。空腹の世界、眠れなかった朝の世界、深く息を吸えた夕方の世界は、同じ世界でありながら同じではない。

 けれど、生きることは、体が動いていることだけでは足りない。たとえば機械も動く。火も燃え広がる。川も流れ続ける。では、動いていれば生きているのか。そうではない。生き物はただ動くのではなく、自分を保ちながら、周囲とやりとりし、変化に応答する。体は閉じた箱ではなく、空気、水、食べ物、光、温度、他の生き物との関係の中で成り立っている。

 人間の場合、この「応答」はさらに複雑になる。寒ければ上着を着る。疲れれば横になる。怒られれば胸が縮む。褒められれば背筋が伸びる。人の一言で、今日はまだやれると思えることもある。逆に、誰からも必要とされていないように感じるだけで、体は動いていても、世界の輪郭が遠のくことがある。つまり人間は、環境だけでなく、意味にも反応して生きている。

 ここで第二の意味が出てくる。生きるとは、世界を経験することである。雨の匂いを感じる。机の冷たさに触れる。昔の失敗を思い出して、胸の奥が苦くなる。好きな音楽を聴いて、理由もなく救われる。人間は、外から見れば一つの生物だが、内側から見れば世界を感じている中心である。生きているという感じは、この内側からの経験なしには語れない。

 だから「命はあるが、生きている感じがしない」という言い方が成り立つ。そこには、生命としての生と、経験としての生のずれがある。体は続いている。しかし、朝がただ処理すべき時間になり、食事がただの補給になり、人との会話がただの手続きになると、生きることは薄くなる。消えてはいない。だが、手触りがない。色がない。自分がそこにいるという感じが弱まる。

 ここで注意したいのは、強い感動だけが生きている証拠ではないということだ。海を見て泣く日だけが生ではない。台所で水を飲むこと、洗濯物を干すこと、帰り道で風に当たること、ふと昔の友人を思い出すことも、生の経験である。生きる感じは、花火のように派手な瞬間だけでなく、炭火のように小さく続く感覚にも宿る。

 第三に、生きるとは、他者と関わることである。人は一人で生まれてこない。生まれた直後の人間は、自分で立てず、自分で食べられず、自分で身を守れない。誰かに抱かれ、洗われ、食べさせられ、名前を呼ばれることで生き延びる。人間の生は、最初から他者の手を含んでいる。自立とは、完全に誰にも頼らないことではない。むしろ、頼ることと頼られることの形が変わっていくことである。

 大人になっても、それは消えない。コンビニの弁当一つにも、米を作る人、運ぶ人、並べる人、会計する人がいる。病気になれば医師や看護師に頼る。落ち込めば、誰かの言葉や、過去に読んだ本や、知らない人が作った音楽に支えられる。孤独でいるときでさえ、人は言葉を使って考えている。その言葉は、もともと他者との世界から来たものである。

 だから、生きることを「個人の中だけ」で考えると、どこかで無理が出る。たしかに、誰の代わりでもなく自分が生きるしかない。痛みも不安も、最後には自分の体で引き受けるしかない。けれど、その自分は、最初から関係の中にいる。人は電池のように単体で動くのではなく、網の目の結び目のように生きている。結び目だけを見れば一つに見えるが、そこには無数の糸が通っている。

 第四に、生きるとは、時間の中で自分の生を引き受けることである。人はただ今この瞬間だけを生きているのではない。昨日を悔やみ、明日を心配し、十年前の言葉にまだ傷つき、十年後の姿を想像して不安になる。過去と未来が、現在の中へ入り込んでくる。だから人間の生は、点ではなく線である。あるいは、線というより、何度も書き直される物語に近い。

 ただし、人生がきれいな物語になるとは限らない。途中で折れることもある。何年も空白のように感じる時期もある。自分で選んだと思えない出来事もある。事故、病気、家庭、貧困、時代、偶然。人生には、こちらの意志では選べない条件が多い。それでも人は、その条件の中で、どう受け止めるか、何を守るか、何を捨てるかを少しずつ選んでいく。

 ここに「引き受ける」という言葉が必要になる。引き受けるとは、すべてを肯定することではない。ひどい出来事をよかったことに変えることでもない。そうではなく、自分に起きたこと、自分がしてしまったこと、自分には選べなかった条件を、完全には消せないものとして認め、その上で次の一歩を考えることである。雨を止めることはできなくても、傘を差すことはできる。濡れた道を、どこへ向かって歩くかはまだ残っている。

 このとき、死の問題も避けられない。生きることは、いつまでも続く作業ではない。終わりがある。ふだんは忘れているが、年齢、病気、葬式、事故のニュース、古い写真は、その事実をふいに思い出させる。死は生の外側にある単なる停止ではなく、生の内側で、選択に重さを与えている。時間が無限にあるなら、今日会うこと、今日謝ること、今日始めることの意味は薄くなる。有限だからこそ、後回しにすることにも、今やることにも意味が生まれる。

 そう考えると「生きるってなに?」への答えは、一行では終わらない。生きるとは、まず身体を保つことである。次に、世界を経験することである。さらに、他者と関わることである。そして、有限な時間の中で、自分の生を引き受けることである。この四つは、別々の箱ではない。疲れた体は世界の見え方を変え、孤独な関係は自己の感じ方を変え、死の意識は今日の選択を変える。生は、体、経験、関係、時間が絡み合った全体である。

 この定義は、華やかな答えではない。生きる意味はこれだ、と旗を立てるものでもない。だが、日常の違和感をほどく力はある。なぜ健康なのに空虚なのか。なぜ自由なのに孤独なのか。なぜ忙しいのに生きている感じがしないのか。なぜ誰かの一言で、もう少し生きられる気がするのか。それは、生きることが一つの機能ではなく、いくつもの層の重なりだからである。

 朝、目が覚める。体はまだ重い。今日も劇的な意味は見つからないかもしれない。それでも水を飲む。カーテンを開ける。誰かの言葉を思い出す。昨日できなかったことを、一つだけやってみる。そうした小さな動きの中にも、生きることはある。生きるとは、壮大な答えを持つことではなく、体を保ち、世界を感じ、誰かと結びつき、限りある時間の中で、自分の歩き方を少しずつ選び直すことである。

生きるってなに? 哲学用語シリーズ60
生きるってなに? 哲学用語シリーズ60

イキるってなに?
哲学用語シリーズ一覧に戻る
うしPのページに戻る