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文学・思想の一丁目一番地

もしもニーチェがニートだったら

第一章 なぜニーチェはニートなのか

 騙して悪いがニーチェは始めからニートである。少なくとも我々が哲学者ニーチェとして認識しているニーチェはニートから始まる。もちろん、厳密に言えばニーチェは現代日本でいうニートではない。ニートという言葉は、教育にも、雇用にも、職業訓練にも属していない若年層を指すために使われる。だから十九世紀ドイツ語圏の哲学者に、そのまま貼りつけるのは無理がある。だが、ここでは少し乱暴に言う。社会の正規ルートから外れ、学校にも会社にも所属せず、肩書きではなく自分の身体と時間だけで思想を作った人間。その意味で、哲学者ニーチェはニートから始まる。

 ただし、ここで勘違いしてはいけない。ニーチェは、最初から社会に入れなかった人ではない。むしろ、始まる前のニーチェはかなりイケイケである。若くして学問の世界に認められ、二十代半ばでバーゼル大学の古典文献学教授になった。大学教授というのは、なりたいと言えばなれるものではない。知識があるだけでは足りない。論文があり、師匠があり、評判があり、空席があり、運がある。その全部が揃って、ようやく少しだけ手が届く席である。

 現代で考えると、この異常さはさらに分かりやすい。大学院へ行き、博士号を取り、ポスドクになり、任期つきの研究職を渡り歩き、それでも専任ポストにたどり着けない人は珍しくない。研究能力がないからではない。むしろ、能力のある人が多すぎる。入口は広くなったのに、出口は狭い。博士課程という長いトンネルを抜けた先に、また別のトンネルがある。しかも、そのトンネルには「この先、正規雇用があるとは限りません」と書いてある。

 教授職とは、そんな世界の最上階にある椅子である。コンビニの椅子取りゲームではない。全員が本気で、全員が論文を書き、全員が人生を削っている。その上で、椅子は少ない。だから教授になるとは、学問世界の中で「この人には場所を与えてよい」と認められることでもある。現代のポスドク問題を思えば、ニーチェの若さで教授職に就いたことは、ほとんど反則のような話である。

 比べる相手としてヘーゲルを出すと、さらに話が見える。ヘーゲルは哲学史の大物であり、いかにも最初から大学の中央にいたように見える。しかし、大学教授として本格的に名を上げるまでには時間がかかった。ベルリン大学の教授になったのは四十代も終わりに近い頃である。あのヘーゲルでさえ、哲学史の玉座に座るまでには長い助走があった。ところがニーチェは、まだ若い。今の感覚で言えば、同年代が博士課程にいるか、就職したばかりか、人生どうしようと悩んでいる頃に、すでに教授だった。

 つまり、ニーチェは落伍者として始まったのではない。エリートとして始まった。ここが大事である。ニーチェをニートとして読む面白さは、彼が最初から「働けなかった人」だったからではない。彼はいったん制度の勝者になった。学問の世界で、かなり早く認められた。にもかかわらず、そこに居続けることができなかった。教授ニーチェは、社会的には成功者である。しかし、我々がよく知る哲学者ニーチェは、その成功の後に出てくる。

 では、何が起きたのか。簡単に言えば、身体がもたなかった。ニーチェは若い頃から病に苦しみ、頭痛、眼の不調、吐き気、神経の不安定さに悩まされ続けた。教授という仕事は、知的で優雅に見えるが、実際にはかなり身体を使う。講義をする。読書をする。原稿を書く。学生を相手にする。会議もある。評価もある。大学の中で生きるというのは、ただ賢いだけでは済まない。健康、社交、忍耐、事務処理能力、空気を読む力まで必要になる。

 ニーチェは、それらを全部うまく抱えられる人間ではなかった。才能はあった。だが、才能と制度適性は別である。ものすごく鋭い包丁が、学校給食の調理場で使いやすいとは限らない。切れすぎる刃は、むしろ扱いにくい。ニーチェの知性も、それに近い。古典文献学の教授として始まったが、彼の中には、単なる専門研究に収まらないものが膨らんでいた。ギリシア悲劇を語りながら、彼はもう、近代文化そのものに噛みつこうとしていた。

 教授職とは、ある意味で整った靴である。サイズが合えば歩きやすい。雨の日も守ってくれる。社会にも見せやすい。だが、足の形が靴に合わなくなれば、立派な靴ほど苦痛になる。ニーチェにとって教授という靴は、最初は名誉だった。しかし、やがて痛みになった。彼はその靴を脱ぐ。脱いだ瞬間、社会的には弱くなる。肩書きは消える。収入も不安定になる。大学の中の人ではなくなる。だが、足は自由になる。

 ここから、お散歩おじさんニーチェが始まる。彼は大学を辞め、年金に頼りながら、スイスやイタリアなどを移動して暮らす。気候のよい場所を探し、身体に合う場所を探し、歩き、考え、書く。朝起きて、出勤するわけではない。学生に講義するわけでもない。会議で発言するわけでもない。世間の目で見れば、いい大人が定職にも就かず、あちこち移動して、散歩しながら文章を書いている。かなり怪しい。

 だが、我々がニーチェとして読んでいるものは、まさにこの怪しい生活から出てくる。会社員ニーチェではない。教授ニーチェでもない。お散歩おじさんニーチェである。ここに、この記事の中心がある。ニーチェは、社会的に強かったから哲学者になったのではない。むしろ、社会的な強さを失った後に、哲学者として立ち上がった。制度の中で守られていた時期より、制度の外へ出てからの方が、言葉は危なくなり、自由になり、切実になった。

 もちろん、これを安易に美化してはいけない。無職になれば誰でも天才になるわけではない。仕事を辞めれば思想が湧くわけでもない。散歩をすれば『ツァラトゥストラ』が書けるわけでもない。そんな簡単な話なら、近所の公園は超人だらけになる。問題は、職を失ったことではない。職を失った後、その空白をどう使うかである。空白は、人を腐らせることもある。だが、空白は、人を作り直すこともある。

 ニーチェにとって、無職的な生活はただの休みではなかった。むしろ、そこから本当の仕事が始まった。だが、その仕事は社会に見えにくい。出勤簿がない。上司がいない。給料日がない。納期も、部署も、肩書きもない。だから外から見れば、何もしていないように見える。本人だけが、身体の内側で、世界と取っ組み合っている。これは、外から見えない労働である。あるいは、労働と呼ぶにはあまりに孤独な作業である。

 ニーチェがニートに見える理由は、ここにある。彼は社会が人間を確認するための札を、途中で失っている。教授という札を外した。大学という所属を外した。研究者としての安定した道筋も外した。すると残るのは、病んだ身体と、歩く足と、考える頭と、書く手だけである。普通なら心細い。いや、普通でなくても心細い。人間は肩書きがないと、自分が誰なのか分からなくなる。名刺がないと、自分の存在を説明できなくなる。

 だが、ニーチェはそこで別の問いを立てる。人間は、所属がなくなったら終わりなのか。職業がなくなったら、価値も消えるのか。教授でなくなったニーチェは、ニーチェでなくなるのか。むしろ逆である。教授でなくなったところから、ニーチェはニーチェになる。肩書きで説明できない人間になったからこそ、彼は自分で自分を説明しなければならなくなった。そして、その説明が哲学になった。

 ここで、ニートという言葉の見え方も少し変わる。普通、ニートとは「何者にもなれない人」として語られる。学生でもない。会社員でもない。訓練生でもない。つまり、どの箱にも入っていない人である。しかし、箱に入っていないことは、ただちに無価値を意味しない。問題は、その箱の外で何が起きているかである。何も起きていない場合もある。苦しみだけが沈殿している場合もある。だが、まれに、箱の外でしか育たないものがある。

 ニーチェの思想は、箱の外で育った。大学の講義室よりも、山道や湖畔や宿の机に近い。制度の言葉よりも、孤独な身体の言葉に近い。だから彼の文章には、妙な温度がある。学者の冷たい整理だけではない。病人の呻きだけでもない。無職者の言い訳でもない。そこには、社会から外れた人間が、それでも自分の生を肯定しようとする熱がある。

 ニーチェはニートなのか。厳密には違う。だが、哲学的にはかなり近い。というより、ニーチェをニートとして読むことで、彼の危なさがよく見える。彼は安全な教授室から人生を論じた人ではない。安定した制度の中から「強く生きよ」と説いた人でもない。むしろ、制度からこぼれ、健康を失い、孤独にさらされながら、それでも「生を肯定できるか」と問うた人である。

 だから第一章の答えはこうなる。ニーチェがニートなのは、働いていなかったからではない。社会が用意した価値の測り方から外れたところで、自分の価値を作らなければならなかったからである。教授としてのニーチェは、すでに成功していた。だが、哲学者ニーチェは、その成功の瓦礫の上を歩き出した。つまり、ニーチェは負けたからニートになったのではない。勝った後に、その勝ち方では生きられなくなったから、ニートになったのである。

 ここから先にいるのは、ただの無職ではない。お散歩おじさんである。大学を辞め、肩書きを脱ぎ、体調に振り回されながら、それでも歩く人である。働いていないように見える。だが、その足の裏では、近代という大きな地面の感触を測っている。次の章では、このお散歩おじさんが本当にニートなのか、それともニートを超えた別の生き物なのかを考える。結論だけ先に言えば、お散歩おじさんはニートである。しかし、それはまだ悪口ではない。

第二章 いやそれってニートじゃなくてお散歩おじさんじゃない?

 お散歩おじさんはニートである。まずここを確定させておかなければならない。なぜなら、お散歩おじさんという言葉には、どこか逃げ道があるからである。ニートと言うと痛い。だが、お散歩おじさんと言うと、少しだけかわいい。働いていないのではなく、健康のために歩いているだけ。社会から外れているのではなく、季節を味わっているだけ。何者でもないのではなく、近所の風景に溶け込んでいるだけ。そういう柔らかいごまかしがある。

 しかし、騙されてはいけない。朝に歩く。昼にも歩く。夕方にも歩く。用事があるわけではない。通勤でもない。配達でもない。営業回りでもない。誰かに命令されたわけでもない。ただ歩く。肩書きはない。出勤先もない。今日中に提出する書類もない。そういう男が、道を選び、天気を見て、靴を履き、外へ出る。これは立派なお散歩おじさんであり、同時にかなりニートである。

 ニーチェの場合、このお散歩感が尋常ではない。シルス・マリアのニーチェ・ハウスによれば、彼は一八八一年の滞在時に、仕事や食事の時間だけでなく、一日五時間から七時間の運動を日課にしていた。長い散歩の途中で、持ち歩いたノートに考えを書きつけていたという。つまり、散歩は気分転換ではない。生活の中心である。散歩のついでに考えたのではない。考えるために、歩いていたのである。

 さらに、ニーチェの歩き方には、普通の健康法を超えたところがある。資料によっては、彼は一日に六時間から八時間歩き、後には「隠者の散歩」を一日十時間していたとも伝えられる。もちろん、毎日きっちり十時間だったと受け取る必要はない。病気もある。天候もある。移動もある。だが、数字の細部以上に大事なのは、彼にとって歩くことが、ほとんど職業の代わりになっていたということだ。机に縛られた教授ではなく、道に放たれた思考者。これがニート哲学者ニーチェの姿である。

 普通の人が一日五時間から七時間歩くと聞けば、まず暇なのかと思う。会社員なら無理である。学生でもかなり難しい。主婦でも、自営業者でも、介護をしている人でも、そんな時間は簡単には取れない。五時間歩くとは、朝九時に出て午後二時まで歩くようなものである。七時間なら、もはや半日が散歩に飲み込まれる。十時間に至っては、散歩というより徒歩労働である。だが、賃金は出ない。上司もいない。成果物もすぐには見えない。

 ここに、お散歩おじさんの不気味さがある。働いている人間は、疲れていても説明がつく。工場で働いた。店に立った。会議に出た。パソコンに向かった。誰かがその疲れを社会的に承認してくれる。しかし、お散歩おじさんの疲れは説明しにくい。歩いただけである。勝手に歩いて、勝手に疲れた。だから外から見ると、遊んでいるようにも、暇を潰しているようにも、現実逃避しているようにも見える。

 けれど、ニーチェにとって歩くことは、現実逃避ではなかった。むしろ、現実を身体で受け直すための行為だった。病んだ目で本を読むのはつらい。頭痛があれば机に座るのも苦しい。大学の中にいれば、講義、同僚、評価、制度が身体にまとわりつく。そこで彼は外へ出る。道に出る。山へ行く。湖のそばを歩く。身体が動くと、考えも動く。息が変わると、文体も変わる。景色が開けると、価値の見え方も変わる。

 人はよく、思考は頭の中で行われると思っている。だが、それは半分しか本当ではない。頭は身体の一部である。身体は場所の中にある。場所は天気や光や高度や空気に包まれている。つまり、考えるとは、脳みそだけが机の上でカタカタ動くことではない。歩幅、呼吸、汗、疲労、遠くの山、足裏の痛み、腹の空き方、それらを全部含んだ出来事である。ニーチェはこのことを、たぶん理屈より先に身体で知っていた。

 だから、お散歩おじさんニーチェを笑うだけでは足りない。彼は確かに、社会的にはかなり怪しい。定職を離れ、年金に頼り、あちこちの土地を移動し、ひとりで歩き回り、ノートに何かを書いている。近所にいたら、少し距離を置かれるタイプである。だが、その怪しさの中で、思想が生まれている。人間の価値、道徳、キリスト教、ルサンチマン、永劫回帰、超人。そういう危ない言葉たちは、会議室からではなく、散歩道から出てくる。

 ここで大事なのは、散歩がニートを救済する魔法ではないということだ。歩けば偉くなるわけではない。毎日一万歩を達成すれば、思想家になれるわけでもない。歩数計の数字が増えても、人生の意味が自動で増えるわけではない。散歩は、空っぽの人間を天才に変える装置ではない。むしろ、空っぽをそのまま見せてくる残酷な時間でもある。歩いても、誰も褒めてくれない。歩いても、問題は消えない。歩いても、履歴書の空白は埋まらない。

 それでも、散歩には一つだけ大きな力がある。それは、止まった時間を動かす力である。ニート的な生活で一番つらいのは、時間が固まることだ。昨日と今日の区別がなくなる。朝と昼が混ざる。部屋の壁が、世界の端になる。頭の中だけで同じ不安がぐるぐる回る。すると、人は自分の人生を考えているつもりで、実は同じ場所を掘り続けているだけになる。井戸を掘っているのではない。畳を爪で削っているだけである。

 歩くと、その固まりが少しほどける。足を出せば、景色が一センチずつ変わる。角を曲がれば、視界が変わる。坂を上れば、息が切れる。日陰に入れば、温度が変わる。人間の中身が変わらなくても、外側が変わる。外側が変われば、同じ考えにも少し違う影が落ちる。これは小さなことだが、閉じた生活ではかなり大きい。部屋の中では怪物だった不安が、外ではただの疲労に変わることがある。

 ニーチェの散歩は、この小さな変化を極限まで使ったものだったのかもしれない。彼は健康なスポーツマンとして歩いたのではない。病気の人として歩いた。だからこそ、歩くことは勝利ではなく、調整だった。自分の身体をだましだまし動かし、考えられる気候を探し、耐えられる土地を選び、書ける時間を拾う。これは怠惰ではない。だが、普通の勤勉とも違う。会社の勤勉ではなく、孤独の勤勉である。

 お散歩おじさんがニートであることを確定させた上で、次に言うべきことはこれである。ニートには二種類ある。止まるニートと、歩くニートである。止まるニートは、社会の外に出たまま、時間まで止まってしまう。昨日の屈辱を今日も反芻し、今日の不安を明日も抱え、世界が自分を見捨てたという物語の中で固まっていく。一方で、歩くニートは、社会の外にいながら、身体だけは世界に接続し続ける。所属はない。だが、道はある。

 もちろん、歩くニートがすぐ救われるわけではない。歩いても金は増えない。肩書きも戻らない。社会復帰の保証もない。ニーチェ自身、散歩で幸福な人生を手に入れたわけではない。彼の人生は孤独で、病的で、最後には崩壊へ向かう。だから、ここで美談にしてはいけない。お散歩おじさんは、勝利者ではない。だが、完全な敗北者でもない。少なくとも、動いている。動きながら考えている。考えながら、自分の苦しみに別の形を与えようとしている。

 この「別の形を与える」というところが、哲学である。苦しい、つらい、働けない、所属できない、世間に認められない。そこで終われば、ただの苦しみである。しかし、その苦しみを「人間は何によって価値を持つのか」「社会の外で生きるとは何か」「弱さはどのように思想へ変わるのか」という問いに変えれば、苦しみは別のものになる。消えるわけではない。だが、言葉を持つ。言葉を持った苦しみは、ただの沈黙より少しだけ強い。

 だから、ニーチェはお散歩おじさんである。そして、お散歩おじさんはニートである。ただし、それは悪口で終わらない。彼は働いていないように見える。だが、足で考えている。社会から外れているように見える。だが、世界とは接続している。家に閉じこもっていない。かといって、会社にも戻らない。その中間の奇妙な場所で、ニーチェは歩く。部屋と職場のあいだではない。無意味と価値のあいだを歩く。

 第二章の答えはこうなる。ニーチェはニートではなく、お散歩おじさんなのではないか。いや、違う。お散歩おじさんだからこそ、ニートなのである。だが、そのニートは、ただ寝ているだけのニートではない。社会の外に落ちた身体を、もう一度世界の中で動かしながら、価値の作り方を探しているニートである。ニーチェの散歩量が異常なのは、暇だったからではない。歩くことが、彼に残された研究室であり、職場であり、祈りであり、戦場だったからである。

第三章 働かない者は価値を作れるのか

 働いていない人間に価値はあるのか。この問いは、かなり乱暴で、かなり残酷で、しかもかなり現代的である。人間の価値は本来、職業だけで決まるものではない。そんなことは、誰でも口では言える。だが、実際に社会の中で人を見るとき、我々はかなりの割合で「何をしている人ですか」と尋ねてしまう。名前の次に、職業が来る。趣味より先に、所属が来る。年収より先に、肩書きが来る。

 これは、ただの意地悪ではない。社会は、人間を一瞬で理解するための札を必要としている。会社員、学生、主婦、研究者、自営業、作家、無職。こうした言葉は、細かい人間をざっくり箱に入れるためのラベルである。ラベルがあれば、相手との距離感が分かる。話題も選びやすい。信用していいかどうかも、だいたい判断できる。社会とは、巨大な初対面の連続だから、ラベルなしでは回りにくい。

 だから、働いていない人間は困る。本人が困るだけではない。社会の側も困る。何者として扱えばいいのか分からないからである。学生なら未来がある。会社員なら所属がある。定年退職者なら過去がある。だが、ニートには説明がない。少なくとも、社会が安心できる説明がない。何をしている人ですか、と聞かれたときに、何もしていません、と答えるしかない。この「何もしていません」は、かなり重い。

 ニーチェも、教授職を離れた瞬間、この重さの側に立つ。もちろん、彼には年金があった。完全に収入ゼロの無職とは違う。だが、社会的な札としては弱くなる。バーゼル大学教授という札は強い。誰に見せても通じる。古典文献学者という札も、それなりに通じる。しかし、大学を辞め、各地を移動し、体調を見ながら散歩し、宿で文章を書いている男は、どう説明すればいいのか。元教授。療養中の人。著述家。変人。お散歩おじさん。どれも本当で、どれも少しずつ足りない。

 だが、ここで奇妙な逆転が起きる。我々がニーチェとして読んでいるニーチェは、教授職を離れた後に濃くなる。大学の制度の中にいた時代より、制度の外へ出た後のほうが、言葉は鋭くなる。『曙光』があり、『悦ばしき知識』があり、『ツァラトゥストラ』があり、『善悪の彼岸』がある。もちろん、初期のニーチェが重要でないという意味ではない。だが、あの危険で、踊るようで、噛みつくようなニーチェは、かなりの部分で無職的生活の中から出てくる。

 ここで一つ、区別しなければならないことがある。「雇用されていない」と「何もしていない」は同じではない。社会は、この二つをしばしば混同する。給料が発生していないなら、働いていない。働いていないなら、何もしていない。何もしていないなら、価値を作っていない。この連鎖は分かりやすい。だが、分かりやすいものほど、人間を雑に切る。包丁で豆腐を切るならいいが、魂まで同じ力で切ってはいけない。

 たとえば、家で介護をしている人がいる。給料は出ていないかもしれない。だが、その人は何もしていないのか。子どもの面倒を見る人がいる。家事をする人がいる。売れない小説を書いている人がいる。誰にも読まれないノートに、自分の考えを何年も書き続けている人がいる。市場は、それらにすぐ値段をつけない。だが、値段がつかないことと、価値がないことは違う。

 もちろん、ここにも危険がある。価値があるかもしれない、という言葉は、簡単に言い訳になる。働いていないけれど、俺は内面で深いことをしている。社会には見えないだけで、俺は価値を作っている。そう言うだけなら、誰でもできる。布団の中でスマホを見ているだけでも、精神の修行だと言い張ることはできる。だから、この議論は甘く扱ってはいけない。社会に認められない価値はある。だが、社会に認められないものが全部価値なのではない。

 ニーチェの場合、何が違ったのか。彼は、苦しみを材料にした。病気、孤独、屈辱、無理解、職の喪失。それらを、ただの不幸として抱え込むのではなく、問いに変えた。なぜ人間は弱さを道徳に変えるのか。なぜ苦しむ者は、苦しまない者を憎むのか。なぜ人は、自分の生を肯定できないとき、世界そのものを否定したくなるのか。彼は、自分の傷を見せびらかしたのではない。傷口から、世界をのぞいた。

 これは、かなり恐ろしい作業である。普通、人は苦しいとき、自分を守りたくなる。悪いのは社会だ。悪いのは親だ。悪いのは時代だ。悪いのは健康な人間だ。そう言えば、少し楽になる。たしかに、それらが悪い場合もある。社会は冷たいし、家族は重いし、時代は不公平である。だが、そこで止まると、自分の苦しみは復讐の燃料にしかならない。ニーチェは、そこからさらに奥へ行く。自分はなぜ、そう考えたくなるのか。自分の怒りは、どんな価値を作ろうとしているのか。

 働く人間の価値は、比較的見えやすい。商品を作る。サービスを提供する。誰かを助ける。組織を回す。税金を納める。疲れて帰る。そこには、社会が認めやすい形がある。一方で、働かない人間の価値は見えにくい。書いた文章が売れなければ、ただ書いただけである。考えたことが誰にも届かなければ、ただ考えただけである。歩いた距離が長くても、ただ歩いただけである。社会は結果を見る。途中で燃えた孤独までは、なかなか見ない。

 だが、価値には時間差がある。今日、誰にも読まれない文章が、十年後に誰かの言葉になることがある。今日、意味のない散歩に見える時間が、明日の一文を生むことがある。今日、失敗にしか見えない生活が、後から見れば思想の実験だったと分かることがある。もちろん、必ずそうなるわけではない。ほとんどの空白は、空白のまま終わる。だが、価値とは、いつもその場で見えるものだけではない。

 ここで、ニート哲学者という言葉が少し輪郭を持つ。ニート哲学者とは、ただ働かない哲学者ではない。社会的には無職だが、存在論的には過労である。つまり、会社には行っていないが、自分の生をめぐって、四六時中働かされている人間である。上司はいない。だが、問いが上司になる。出勤時間はない。だが、不安が朝から来る。残業代はない。だが、夜中まで自分の存在と交渉し続ける。

 会社の仕事には、終業がある。もちろん、現実には終わらない仕事も多い。だが、制度上は区切りがある。タイムカードがあり、休日があり、給料日がある。しかし、存在の仕事には終業がない。自分はなぜ生きているのか。自分には価値があるのか。この苦しみをどう扱えばいいのか。そういう問いは、午後五時になっても帰らない。風呂に入ってもついてくる。布団に入っても、枕元に座っている。

 ニーチェの無職的生活は、この存在の仕事を極端な形で引き受けたものだった。彼は社会的な労働から離れた。だが、その代わりに、自分自身を実験室にした。健康な人間が何気なく信じている価値を疑い、道徳の裏側を掘り、神の死の後で人間がどう生きるのかを考えた。これは、給料をもらう仕事ではない。だが、楽な仕事でもない。むしろ、逃げ場のない仕事である。

 この点で、ニーチェは単なるニートの希望ではない。むしろ、ニートにとってかなり厳しい存在である。彼は、働かなくても価値はあるよ、と優しく肩を叩いてくれる人ではない。働いていないなら、何を作るのか、と問い詰めてくる人である。社会の外にいるなら、外にいることで何を見るのか。所属がないなら、所属がない者にしか見えないものを言葉にできるのか。孤独なら、その孤独をただの腐敗ではなく、何かの鉱脈に変えられるのか。

 これは残酷だが、同時に救いでもある。なぜなら、社会から外れた人間にも、まだ仕事が残されているからである。その仕事は、求人票には載っていない。職安にもない。履歴書にも書きにくい。だが、たしかにある。自分の苦しみを観察すること。自分の怒りを言葉にすること。自分の弱さが、どんな価値を欲しがっているのか見抜くこと。そして、できれば、それを他人にも使える形にすること。

 他人にも使える形にする。ここが、価値創造の分かれ道である。自分が苦しい、と言うだけなら叫びである。なぜ苦しいのか、と考えれば分析になる。その苦しみは、他の人間にもあるのではないか、と広げれば思想になる。ニーチェの言葉が残ったのは、彼の苦しみが彼だけの愚痴で終わらなかったからである。個人的な病が、時代の病へつながった。ひとりの無職的生活が、近代人の生きづらさを照らした。

 だから、働かない者は価値を作れるのかという問いには、単純に答えられない。作れる。だが、自動ではない。働いていないというだけでは、何も偉くない。社会の外にいるというだけでは、何も深くない。孤独というだけでは、何も尊くない。けれど、その外れ方、その孤独、その空白を使って、社会の内側にいる人間には見えにくいものを掘り当てるなら、そこには価値が生まれる。

 ニーチェは、その危ない可能性を見せている。彼は教授職を離れた。制度の中での強さを失った。だが、そこで終わらなかった。歩き、病み、考え、書いた。誰にも頼まれていない仕事をした。誰にも保証されていない仕事をした。すぐには報われない仕事をした。つまり、ニートのように見える時間の中で、後世の人間が何度も使う言葉を作った。

 第三章の答えはこうである。働かない者でも、価値は作れる。ただし、それは働かないことによってではない。働かない時間に、自分が何から逃げ、何と向き合い、何を形にするかによってである。ニーチェは無職だったから偉いのではない。無職的な空白を、思想の炉に変えたから恐ろしいのである。社会が「何もしていない」と呼ぶ時間の中で、本当に何もしていないのか。それとも、まだ名前のない仕事が始まっているのか。ニーチェは、その区別をこちらに突きつけてくる。

第四章 ニートはルサンチマンを超えられるか

 ニートにとって、一番危険なものは無職そのものではない。金がないことも、肩書きがないことも、社会に説明しづらいことも、たしかにつらい。だが、それらより深い場所で人を腐らせるものがある。それがルサンチマンである。ルサンチマンとは、直接には勝てない相手に対して、心の中で価値をひっくり返しながら復讐する感情である。

 たとえば、成功者を見たときに、あいつは運がいいだけだと思う。働いている人を見たときに、社畜でかわいそうだと思う。恋人がいる人を見たときに、どうせ浅い関係だろうと思う。金を持っている人を見たときに、汚いことをしているに違いないと思う。もちろん、世の中には本当に運だけで勝つ人もいるし、本当に浅い成功もある。だが、問題はそこではない。問題は、その判断が自分の傷を守るために使われているかどうかである。

 ルサンチマンは、負けをそのまま負けとして受け取れない心から生まれる。負けた。悔しい。羨ましい。自分もああなりたかった。ここまでなら、まだ正直である。しかし、人間はその正直さに耐えられないことがある。だから、価値の方をひっくり返す。あんなものはくだらない。働くなんて奴隷だ。金なんて汚い。承認なんて浅い。そう言えば、自分は負けていないことになる。むしろ、勝っていることにさえできる。

 これは、かなり甘い毒である。苦い薬ではない。甘い毒である。なぜなら、飲んだ瞬間は気持ちがいいからだ。自分を傷つけた世界を、心の中で見下せる。自分を認めなかった人間たちを、浅いものとして裁ける。自分が入れなかった場所を、入る価値のない場所に変えられる。まるで、行けなかった店の料理を「あんなものまずいに決まっている」と言うようなものだ。腹は減ったままだが、プライドだけは少し守られる。

 ニートは、この甘い毒に近い場所にいる。なぜなら、社会の標準的な勝ち方から外れているからである。学校を出て、仕事に就き、収入を得て、家庭を作り、老後に備える。そういう道を歩いている人たちが目の前にいる。その横で、自分は止まっているように感じる。すると、心は自分を守るために言い始める。あいつらは何も考えていない。社会の歯車になっているだけだ。こっちの方が本質を見ている。そう言いたくなる。

 ここで注意しなければならない。実際に、社会の歯車になって何も考えずに生きている人もいる。会社勤めをしているだけで偉いわけではない。家庭を持っているだけで成熟しているわけでもない。社会の普通に乗っている人間の中にも、空っぽの人はいる。だが、その事実は、こちらのルサンチマンを正当化しない。他人が空っぽであることと、自分が満たされていることは別である。

 ニーチェが厳しいのは、ここを見逃してくれないところである。ニーチェは弱い者の味方のように見えて、弱さに甘いわけではない。むしろ、弱さがどのように道徳の仮面をかぶるかを暴く。苦しい人間は、自分の苦しみを正義に変えたくなる。傷ついた人間は、自分の傷を世界への判決文にしたくなる。自分ができなかったことを、そもそも価値のないことだと呼びたくなる。

 ニーチェ自身も、ルサンチマンから遠い場所にいたわけではない。彼は健康ではなかった。孤独だった。大学を去った。著作はすぐには広く理解されなかった。恋愛でも、社交でも、世俗的な成功者とは言いがたい。条件だけ見れば、世間への恨みをいくらでも育てられる人間である。むしろ、ルサンチマンの温室のような人生である。そこで「世界は俺を分かっていない」と言うことは、かなり自然だったはずだ。

 しかし、ニーチェの異常さは、そこで止まらないことにある。彼はたしかに攻撃的である。道徳を攻撃し、キリスト教を攻撃し、近代人を攻撃し、弱者の価値観を攻撃する。だが、単なる愚痴とは違う。彼が本当に問うているのは「なぜ自分はそう憎むのか」である。怒りを外に投げるだけではなく、その怒りの作られ方を解剖する。復讐したがる心を、その復讐心ごと机の上に置いて切り開く。

 これは、普通はやりたくない。自分の恨みを分析することは、自分の最後の避難所を壊すことだからである。社会が悪い。親が悪い。時代が悪い。健康な人間が悪い。そう言っている間、人はまだ自分を守れる。もちろん、それらが本当に悪いこともある。人間は環境に傷つけられるし、不公平な構造に押しつぶされる。だが、それでもなお、自分の内側で恨みがどんな快楽を生んでいるのかは、見なければならない。

 ルサンチマンの怖さは、苦しみを保存するところにある。人を前に進ませる怒りもある。ふざけるな、ここから変えてやる、という怒りは力になる。しかし、ルサンチマンは違う。これは、傷を治さない怒りである。むしろ、傷を大事に保存する。なぜなら、その傷が自分の正しさの証拠になるからだ。俺はこんなに傷ついた。だから、俺は正しい。俺はこんなに認められなかった。だから、認めなかった世界が悪い。

 こうなると、人は傷を手放せなくなる。治ると困るからである。もし傷が治ってしまえば、世界を責める根拠が弱くなる。もし少しでも前に進んでしまえば、昨日までの恨みを維持しにくくなる。だから、ルサンチマンに捕まった人間は、救われたいと言いながら、救われることを怖がる。変わりたいと言いながら、変わらない理由を守り続ける。これは、外から見るよりずっと苦しい牢獄である。

 ニートがルサンチマンを超えるとは、社会を好きになることではない。ここを間違えると、ただの説教になる。会社を褒めろ。成功者を尊敬しろ。親に感謝しろ。社会復帰しろ。そんな話ではない。ニーチェ的に言えば、問題は社会を肯定することではなく、自分の生を否定しないことである。社会がくだらないとしても、そのくだらなさを憎むだけで一生を使っていいのか。そこが問われている。

 ルサンチマンを超える第一歩は、自分の羨望を認めることだと思う。羨ましくないふりをしない。欲しくなかったことにしない。働いている人が羨ましいなら、羨ましいでいい。稼いでいる人が羨ましいなら、羨ましいでいい。愛されている人が羨ましいなら、羨ましいでいい。羨望は醜いが、正直である。正直な醜さは、嘘の高潔さよりずっと扱いやすい。

 次に必要なのは、羨望を命令に変えることである。あいつが憎い、で止まるのではない。自分は何を欲しがっているのか、と問う。金が欲しいのか。承認が欲しいのか。自由が欲しいのか。安心が欲しいのか。尊敬が欲しいのか。自分の言葉が誰かに届くことが欲しいのか。羨望は、他人に向いているようで、実は自分の欲望の影である。影を殴っても、体は変わらない。

 ニーチェなら、おそらくこう言う。お前の恨みは、お前がまだ生きたい証拠ではないのか。完全に諦めた人間は、そこまで憎まない。憎むということは、まだ欲しいものがあるということだ。まだ勝ちたいものがあるということだ。まだ自分の生に、別の形を与えたいということだ。だとすれば、恨みはただ捨てればいいものではない。変換しなければならない燃料である。

 問題は、燃料の燃やし方である。ルサンチマンは、燃料を煙にする。部屋の中で燃やし、自分も周囲も煙たくする。価値創造は、燃料を火にする。寒い場所を少しだけ温め、暗い場所を少しだけ照らす。素材は同じである。悔しさ、孤独、怒り、羨望、屈辱。違うのは、その感情が他人を呪うために使われるか、自分の形を変えるために使われるかである。

 ニーチェは、ニートに優しい哲学者ではない。だが、ニートを見捨てる哲学者でもない。彼は、社会の外にいる者へこう迫る。お前は、外にいることを恨みに使うのか。それとも、外にいる者にしか見えないものを見るのか。お前は、働いていないことを言い訳にするのか。それとも、働いていない時間を危険な実験室にするのか。お前は、弱さで世界を裁くのか。それとも、弱さから新しい言葉を作るのか。

 第四章の答えは、簡単ではない。ニートはルサンチマンを超えられるのか。超えられるかもしれない。だが、それは社会に勝ったときではない。就職したときでもない。誰かを論破したときでもない。自分の恨みの甘さを見抜き、それでも自分の生を材料として使い始めたときである。ニーチェ的な意味で、ルサンチマンを超えるとは、弱さを消すことではない。弱さを復讐の道具にせず、価値を作る炉に投げ込むことである。

 だから、ニート哲学者ニーチェは危険である。彼は「社会が悪い」と一緒に泣いてくれるだけではない。彼は「では、お前はその社会への恨みで何を作るのか」と聞いてくる。これは残酷な問いである。だが、残酷だからこそ、ただの慰めより強い。ニートがニートのまま腐るか、ニートの空白から何かを作るか。その分かれ道には、いつもルサンチマンが座っている。ニーチェは、その番人の顔をこちらに向けさせるのである。

第五章 超人とは就職することではない

 超人とは、就職することではない。ここを間違えると、ニーチェは急にハローワークの職員みたいになる。もちろん、就職は大事である。生活費がいる。保険がいる。人との接点がいる。毎朝起きる理由もいる。社会の中に場所を持つことは、人間をかなり助ける。だから、働くことを軽く見る必要はない。むしろ、働ける人間は相当に強い。毎日決まった時間に起き、他人と関わり、面倒なことを処理し、給料日まで自分を運ぶ。これは普通に見えて、かなり難しい。

 だが、就職すれば魂まで救われるのか。ここで話は変わる。会社に入れば、社会的には説明しやすくなる。何をしている人ですか、と聞かれたとき、会社員です、と答えられる。名刺ができる。収入が入る。親戚にも説明できる。近所の目も少し静かになる。だが、それだけで人間の内側が整うわけではない。職を得ても、心の中でずっと自分を軽蔑している人はいる。働いていても、毎日が敗北の延長に見えている人はいる。

 だから、ニーチェ的な問いは、就職できたかどうかの先にある。お前は何によって自分の生を肯定するのか。誰かに採用されたからか。給料が入ったからか。肩書きができたからか。それらは大事である。だが、それらだけでは足りない。社会の承認は、外から貼られる札である。必要な札ではあるが、札は肉ではない。札が立派でも、中身が飢えていれば、人はまだ苦しい。

 ニートにとって、就職はしばしば救済のように見える。働けば終わる。働けば許される。働けば人間に戻れる。そう考えたくなる。実際、働くことで回復する部分はある。生活のリズムができ、金が入り、他人との会話が生まれる。部屋の中で固まっていた時間が、少しずつ社会の時間へつながる。これは大きい。空白に飲まれていた人間にとって、外の時間は命綱になることがある。

 しかし、就職を唯一の救済にすると、今度は就職できない自分を地獄へ落としてしまう。働けないなら価値がない。採用されないなら終わり。空白があるなら人生失敗。そうやって、社会の価値観をそのまま内面化し、自分で自分を裁き続けることになる。これは、外から殴られるよりきつい。なぜなら、殴ってくる相手が自分の中に住みつくからである。眠る前も、起きた直後も、その声は消えない。

 ニーチェが危ないのは、この内なる裁判官に噛みつくところである。彼は、社会に認められない者を単純に慰めない。だが、社会の基準を絶対視することもしない。お前の価値は、誰かに採用されたかどうかだけで決まるのか。お前の生は、履歴書の空白で測り尽くせるのか。お前の苦しみは、ただの不合格通知なのか。そう問い返してくる。これは甘やかしではない。むしろ、もっと厳しい自由である。

 超人とは、この自由の名前である。空を飛ぶ人間ではない。筋肉が強い人間でもない。会社で出世した人間でもない。超人とは、与えられた価値だけで自分を測ることをやめ、自分の生に別の尺度を作る人間である。世間が勝ちと言うものを、そのまま勝ちとしない。世間が負けと言うものを、そのまま負けとしない。自分の弱さ、病、孤独、空白を材料にして、別の形の強さを作ろうとする。

 ここで大事なのは、超人が無職礼賛ではないということだ。働かない俺こそ本物だ、と言い始めるなら、それはただの逆張りである。会社員は奴隷だ、社会人は空っぽだ、家庭持ちは凡人だ、と言っているうちは、まだ社会の価値観に支配されている。なぜなら、社会を否定することでしか自分を立てられていないからである。ルサンチマンは、反対している相手にこそ縛られる。鎖を憎んでいる者は、まだ鎖のことばかり考えている。

 ニーチェ的な強さは、社会を罵る強さではない。社会に認められなくても、自分の時間を腐らせない強さである。働いている者を妬まず、働けない自分を神聖化もせず、ただ今日の空白をどう使うかに戻ってくる強さである。散歩するなら、ただ逃げるために歩くのではない。考えるために歩く。書くなら、ただ愚痴を並べるのではない。言葉を鍛えるために書く。休むなら、ただ沈むのではない。明日も壊れないために休む。

 つまり、超人とは生活形式である。大きな思想を叫ぶ前に、朝どう起きるかがある。何を食べるかがある。どの道を歩くかがある。どの言葉を自分に許し、どの言葉を自分に禁じるかがある。俺は終わりだ、という言葉を毎日飲み続ければ、心はその味に慣れてしまう。まだ終わっていない、という言葉も、安易に使えば嘘くさい。だから必要なのは、もっと地味な言葉である。今日は一行だけ進める。今日は十分だけ歩く。今日は恨みを一つ、材料に変える。

 ニーチェがお散歩おじさんだったことは、ここで意味を持つ。彼は巨大な思想を、巨大な場所で作ったわけではない。国家の中枢でも、大学の玉座でも、企業の会議室でもない。道である。山である。宿の机である。体調の悪い朝である。誰にも理解されない午後である。つまり、超人の思想は、勝者の壇上からではなく、かなり不安定な生活の中から出てきた。だからこそ、危ない。だからこそ、使える。

 もしニーチェがニートだったら、彼はこう言うかもしれない。問題は、働いていないことそのものではない。働いていない時間が、ただの腐敗になっているか、それとも価値を作る発酵になっているかである。腐敗と発酵は似ている。どちらも、外から見れば何かがぐずぐず変化しているだけに見える。だが、片方は臭くなって終わる。もう片方は、別の味を生む。ニートの空白も同じである。放置すれば腐る。手を入れれば、何かになることがある。

 もちろん、その「何か」はすぐには金にならないかもしれない。誰にも褒められないかもしれない。家族にも理解されないかもしれない。だが、価値創造は最初から市場に並ぶ商品として現れるとは限らない。最初は、生活の中の小さな秩序として現れる。一日を壊さないこと。昨日より少しだけ言葉を正確にすること。恨みをそのまま撒き散らさないこと。自分の弱さを、他人を裁く武器にしないこと。その地味な変化が、やがて思想や仕事や作品の土台になる。

 だから、第五章の結論は「働け」ではない。「働くな」でもない。結論は、自分の価値を丸投げするな、である。会社に丸投げするな。世間に丸投げするな。親に丸投げするな。過去の失敗に丸投げするな。ニートという言葉に丸投げするな。働けない時期があるなら、その時期をどう名づけるかは重大である。ただの終わりと名づければ、終わりに近づく。準備と名づけるだけでは甘い。実験と名づけるなら、そこには観察と記録と変化が必要になる。

 ニーチェは、教授職を失った後に、単に落ちぶれたのではない。落ちぶれた場所を、思想の実験場に変えた。もちろん、その人生は幸福な成功物語ではない。最後には崩壊もある。孤独もある。痛々しさもある。だから、ニーチェを真似れば救われる、などとは言えない。だが、ニーチェは一つの可能性を見せている。社会の正規ルートから外れた人間にも、まだ価値を作る余地がある。しかも、その価値は、正規ルートの中では作れなかったものかもしれない。

 超人とは、就職できたニートではない。就職してもしなくても、自分の生を他人の尺度だけに預けない人間である。働くなら、働くことを自分の価値創造に変える。働けないなら、働けない空白をただの恨みにしない。散歩するなら、道を研究室にする。書くなら、傷を言葉にする。生きるなら、自分の弱さからさえ何かを作る。これが、ニート哲学者ニーチェの危ない希望である。

 お散歩おじさんは、まだ負けていない。働いていないから勝っているわけではない。社会の外にいるから偉いわけでもない。ただ、まだ歩いている。まだ考えている。まだ自分の恨みを、世界への呪いだけで終わらせていない。そこに、ほんの少しだけ超人の影が差す。超人とは遠い未来の怪物ではない。今日の空白を、昨日と同じ腐敗にしないための、小さくて危険な態度である。

あとがき

 今でこそ、ニーチェは哲学の代表選手みたいな顔をしている。超人、神は死んだ、永劫回帰、ルサンチマン。少し哲学に触れた人なら、どこかで聞いたことがある名前である。だが、生きていた頃のニーチェは、そんな巨大な看板を背負った思想家ではなかった。むしろ、ほとんど読まれない本を書き、ほとんど売れないまま、世間の中心から外れていった人だった。

 ここが、いちばん残酷で、いちばん面白いところである。ニーチェは、最初から無能だった人ではない。若くして教授になった。学問の制度の内側で、一度は勝者になった。しかし、そこに居続けることはできなかった。病み、辞め、歩き、書き、売れず、理解されず、最後には壊れていく。こちらの乱暴な言い方でいえば、彼はニートのまま死んだのである。

 もちろん、厳密な意味でニートだったわけではない。年金もあり、著述もあり、かつての教授職もあった。だが、世間が分かりやすく認める職業人としては、どんどん説明しづらい人になっていった。大学教授としてのニーチェは終わった。では、作家として成功していたのか。これも怪しい。哲学者として同時代に広く尊敬されていたのか。これも、かなり怪しい。いま我々が見ている巨大なニーチェ像は、死後に大きく膨らんだ姿である。

 生前のニーチェは「未来の大哲学者」ではなく「売れない本を書く、体調の悪い元教授のお散歩おじさん」、つまりニートだった可能性が高い。もし同時代の町角で彼を見かけたとしても、我々はたぶん気づかない。あの人が近代思想を壊す人だ、とは思わない。定職もなく、土地を移り、体調を気にし、散歩しながらノートに何かを書いている変わった人。その程度に見えたかもしれない。

 だが、思想とはときどき、そういう姿で現れる。拍手の中からではなく、無理解の中から出てくる。成功の壇上からではなく、説明しにくい生活の隙間から出てくる。ニーチェの危なさは、ここにある。彼は生前から勝者だったわけではない。むしろ、社会的には負けの匂いをまとっていた。にもかかわらず、その負けの中から、後の人間が何度も使う言葉を作った。

 この記事は「ニーチェはニートだった」と証明するための文章ではない。そんなことを真顔でやると、ただの用語警察との戦いになる。この記事で考えたかったのは、社会の外に出た人間が、それでも価値を作れるのかという問いである。教授でなくなったニーチェは、終わったのか。売れなかったニーチェは、無価値だったのか。世間的に哲学者として認められなかったかもしれないニーチェは、本当に哲学者ではなかったのか。

 答えは、時間が出した。ニーチェは死後に読まれた。使われ、誤読され、嫌われ、崇拝され、何度も掘り返された。これは幸福な話ではない。生きているうちに届かなかったということだからである。だが、同時に恐ろしい話でもある。人間の価値は、その時代の売上や肩書きだけでは決まらない。いま見えない価値が、後の時代に爆発することがある。

 だから、ニート哲学者ニーチェという冗談は、最後には冗談でなくなる。働いていないように見える時間、売れていない本、誰にも説明できない生活、近所を歩くしかない日々。その中に、何もないとは限らない。もちろん、何もないこともある。空白は、勝手に作品にはならない。だが、空白を見つめ、歩き、書き、考え続ける人間がいるなら、そこにはまだ名づけられていない仕事がある。

 ニーチェは、生前にはほとんど報われなかった。世間的には、哲学者でさえなかったかもしれない。けれど、だからこそ彼は、この記事の主人公にふさわしい。成功者の名言ではなく、失敗者の残した火種として読むニーチェ。教授ではなく、お散歩おじさんとして読むニーチェ。勝った人ではなく、勝ち方そのものを疑った人として読むニーチェ。その姿は、いまの我々にとって、妙に近い。

 お散歩おじさんは、最後まで勝ったとは言えない。だが、負けたとも言い切れない。なぜなら、彼の言葉はまだ歩いているからである。本人の身体は倒れ、本は売れず、同時代の世間はほとんど振り向かなかった。それでも、言葉だけは後から立ち上がった。ならば、ニート哲学者ニーチェの結論はこうである。生きている間に世間へ届かなくても、価値が存在しないとは限らない。今日の空白が、未来の誰かの武器になることもある。

ニーチェを知る一冊
ニーチェ入門 哲学入門シリーズ1
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ニーチェ関連
1.ニーチェってどんな人?
2.『ツァラトゥストラはこう言った』解説
3.『神は死んだ』解説
4.もしもニーチェがニートだったら
5.「ニーチェとニートの違い」と人はなぜ検索するのか

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