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「ニーチェとニートの違い」と人はなぜ検索するのか
「ニーチェとニートの違い」と検索する人がいる。文字だけを見れば、たった2文字の違いである。ニーチェは十九世紀ドイツの哲学者で、ニートは就学も就労も職業訓練もしていない人を指す。片方は思想史に名を残した人物であり、もう片方は現代社会が作った状態の名称だ。普通に考えれば、両者を間違える理由はほとんどない。
それでも人は検索する。検索している本人も、違いが分からないわけではないかもしれない。むしろ、あまりにも似ていない二つが、あまりにも似た音を持っていることに気づき、その奇妙さを確かめたくなるのだろう。
ニーチェとニートの違いは何か。最も簡単に答えるなら、ニーチェは人名であり、ニートは社会的な分類である。ニーチェは働いていたが、大学教授を辞めた後は、病気を抱えながら各地を転々とし、ほとんど孤独に本を書いた。ニートは必ずしも本を書かないし、哲学者でもない。ただし、会社へ通っていないという一点だけを切り取れば、晩年のニーチェも現代の勤労者らしい生活からは遠かった。
ここから話が少しややこしくなる。ニーチェは、社会から与えられた価値を疑った哲学者だった。世間が正しいと言うから正しい、みんなが働いているから働く、成功者が幸福そうだから成功を目指す。そうした借り物の価値観を、彼は容赦なく解体した。
一方でニートは、社会の価値から降りた人として語られる。働かない、学校へ行かない、職業訓練も受けない。その状態は本人が選んだ場合もあれば、病気や家庭環境、失敗の蓄積によって追い込まれた場合もある。しかし社会は事情を細かく見ずに、ニートという短い言葉で人間をまとめてしまう。
ニーチェは既存の価値を疑った。ニートは既存の価値から外れていると判断される。両者はまったく別物だが、社会の標準から距離を置いているという一点では、かすかな影が重なる。
もちろん、ここで「ニートはみんなニーチェ的だ」と言うことはできない。働かないこと自体が哲学になるわけではなく、孤独であること自体が思想になるわけでもない。部屋にいるだけで超人になれるなら、世界はすでに超人で満員だろう。
それでも、ニートという状態には哲学的な問いが含まれている。人はなぜ働かなければならないのか。働いていない人間には価値がないのか。社会参加とは、賃金を得ることだけを意味するのか。自分で選んだ人生と、選ばされた人生を、どこで区別できるのか。
ニーチェを読む人も、似た問いにぶつかる。自分が正しいと思っているものは、本当に自分で選んだのか。それとも親や学校、会社や世間から渡されたものを、自分の価値観だと思い込んでいるだけなのか。
では、人はなぜ「ニーチェとニートの違い」と検索するのだろう。単なる言葉遊びとして検索する人もいる。誤変換を見て笑い、暇つぶしに調べる人もいる。だが検索とは、知らない情報を得る行為だけではない。自分が気づいた奇妙さを、誰かも気づいているか確かめる行為でもある。
人は検索窓に、完全な質問だけを入力するわけではない。「ニーチェ ニート」と入力し、その二語のあいだに何があるのかを機械に探させる。検索者自身にも、何を知りたいのか分かっていない場合がある。検索結果を見て初めて、自分の疑問の形を知ることさえある。
検索は現代の独り言である。昔なら胸の中で消えていた疑問が、今では検索履歴として残る。「こんなことを考えるのは自分だけだろうか」という不安を、人は検索エンジンに預ける。そして同じ言葉を検索した人や、同じ冗談を書いた人を見つけると、わずかに安心する。
検索候補に「ニーチェとニートの違い」が現れるなら、それは多くの人が同じ言葉を入力した可能性を示している。一人のくだらない疑問が、何万人ものくだらない疑問だったと判明する。インターネットは知識の図書館であると同時に、人類のどうでもいい好奇心を保存する巨大な民俗資料館でもある。
しかし、どうでもいい検索ほど、その人の本音を映すことがある。人は職場では賢そうな質問をし、学校では評価されそうな質問をする。検索窓の前では、誰にも褒められない質問ができる。ニーチェとニートは関係あるのか。猫は自分を猫だと思っているのか。宇宙の端に壁はあるのか。こうした問いには、社会的な利益がほとんどない。
だからこそ、そこには純粋な好奇心がある。役に立つから調べるのではなく、気になったから調べる。検索とは、人間の知性が最も立派に働く場所であると同時に、最もくだらなく働く場所でもある。その二つは、たぶん同じ場所だ。
ニーチェは「なぜ」と問い続けた哲学者だった。道徳はなぜ正しいのか。真理を求めることは、なぜ善いのか。弱者を守る価値観は、どこから生まれたのか。彼は当たり前の背後にある力や欲望を探した。
検索する人も、小さな規模で同じことをしている。目の前に現れた言葉や出来事を、そのまま通り過ぎずに立ち止まる。「ニーチェ」と「ニート」が似ている。それだけの偶然から、哲学者の人生や労働の意味、検索する人間の心理まで話が広がっていく。
検索には終わりがない。一つの答えを得ると、次の疑問が生まれる。ニーチェとは誰か。超人とは何か。ニヒリズムとは何か。ニートという言葉は誰が作ったのか。働くとは何か。こうして、くだらない入口から巨大な問題へ入り込む。
知識の入口は、いつも高尚である必要はない。人類はリンゴが落ちたことから重力を考え、湯気で蓋が動くことから蒸気機関を作った。ニーチェとニートの一文字違いから、人間と労働と価値について考えてもよい。
ニーチェとニートの違いは、辞書を引けば一分で分かる。しかし、人がなぜその違いを検索するのかという問いは、簡単には終わらない。そこには言葉遊びがあり、不安があり、孤独があり、好奇心がある。
人は答えを知りたいから検索する。だが同時に、自分が何を知りたいのかを知るためにも検索する。検索窓に打ち込まれた奇妙な言葉は、知識への入口であると同時に、その人自身への入口でもある。
ニーチェとニートは、まったく違う。しかし、その違いをわざわざ検索する人間は、少しだけニーチェ的なのかもしれない。当たり前に通り過ぎず、無意味に見える場所で立ち止まり「これは何だ」と問うからだ。
もっとも、ニーチェを一冊も読まずに「ニーチェ ニート 違い」と検索して満足したなら、それは超人への第一歩というより、検索履歴への小さな一歩である。それでも、歩かないよりはいい。哲学はたいてい、立派な答えではなく、少し変な疑問から始まる。
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