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ブーバー入門 哲学入門シリーズ207

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ブーバー入門 哲学入門シリーズ207

第一章 ブーバーってどんな人?

 人と話しているのに、まるで壁に向かって話しているように感じることがある。相手はうなずいている。返事もしている。言葉も通じている。けれど、こちらの言葉が相手の中へ入っていかない。逆に、こちらも相手を見ているようで、実は肩書き、年齢、役割、損得、過去の印象だけを見ていることがある。目の前にいる一人の人間ではなく、「こういうタイプの人」「役に立つ人」「面倒な人」「自分を評価する人」という箱を見ている。そのとき、会話はしているのに、どこか人間がいない。

 マルティン・ブーバーは、この違和感を哲学の中心に置いた人である。彼は「人間は、ひとりで完成したあとに他人と関係する」のではなく、「関係の中で、はじめて人間になる」と考えた。ここがブーバーのいちばん大事な入口である。人間を、まず孤独な点として考え、その点が外の世界を認識する、という順番ではない。誰かに呼ばれる。誰かを見る。誰かに応える。その「あいだ」で、私というものが形を持ちはじめる。

 たとえば、同じ「大丈夫?」という言葉でも、ただの確認として言われる場合と、本当にこちらを見て言われる場合では、まったく違う。前者は情報のやり取りである。後者は、こちらの存在が相手の前に現れている。声の高さや表情だけの違いではない。その場全体の空気が変わる。自分が、処理される対象ではなく、応答される相手になったと感じる。ブーバーの思想は、この小さな差を見逃さない。

 ブーバーは一八七八年、ウィーンに生まれた。幼いころの多くを、ガリチアのレンベルクで祖父ザロモン・ブーバーのもとに過ごした。祖父はユダヤ文献に深く通じた学者であり、ブーバーはそこで、言葉、聖書、伝承、祈り、物語に囲まれて育った。だが、彼は単に古い宗教の世界に閉じこもった人ではない。ウィーン、ライプツィヒ、ベルリン、チューリヒで哲学、芸術史、心理学などを学び、近代ヨーロッパの知的空気を全身で吸った。

 つまりブーバーは、古い信仰と近代思想の境目に立っていた。片方には、神の呼びかけや聖書の言葉がある。もう片方には、科学、心理学、哲学、政治運動がある。片方だけを選べば楽だったかもしれない。だが彼は、どちらか一方へ逃げなかった。信仰を単なる古い習慣にせず、近代を単なる冷たい合理主義にもせず、そのあいだで、人間が本当に出会うとはどういうことかを考え続けた。

 若いブーバーに強い衝撃を与えたのは、カントとニーチェだった。カントは、世界をどう認識するのかという問いを与えた。ニーチェは、生をどのように肯定し、価値を作るのかという激しい問いを与えた。さらにディルタイやジンメルからは、生命、経験、社会、人間関係への感受性を受け取った。けれども、ブーバーはそれらをそのまま受け継いだわけではない。彼の関心はしだいに、「私が世界をどう見るか」から、「私と世界のあいだに何が起きているか」へ移っていった。

 この転回を考えるとき、ブーバーを「対話の哲学者」と呼ぶだけでは足りない。対話という言葉は、ふつう、よく話し合うこと、相手の意見を聞くこと、議論を穏やかに進めること、という意味で使われる。もちろん、それも大切である。だがブーバーの言う対話は、もっと深い。言葉を交わしていても、対話ではないことがある。逆に、ほとんど言葉がなくても、対話が起きることがある。対話とは、話し方の技術ではなく、自己と他者の「あいだ」に、現実が立ち上がる出来事である。

 その代表的な表現が、後に有名になる〈我―汝〉と〈我―それ〉である。〈我―それ〉とは、世界を対象として見る態度である。分析する。分類する。使う。測る。計算する。この態度は悪ではない。むしろ、生活には不可欠である。薬を飲むには、成分を知らなければならない。商売をするには、数字を見なければならない。道路を作るには、人の流れを調べなければならない。世界をまったく対象化しなければ、人間は生きていけない。

 問題は、すべてが〈我―それ〉になってしまうことである。子どもが成績だけになる。患者が病名だけになる。労働者が人件費だけになる。読者がクリック率だけになる。友人が便利な相談相手だけになる。神でさえ、教義の項目や安心材料だけになる。そのとき世界は整理されるが、同時に乾いていく。見えているものは増えるのに、出会っているものは減っていく。

 〈我―汝〉とは、その反対側にある態度である。相手を部分や機能に分解せず、全体として迎える。相手を自分の目的のための道具にせず、こちらへ呼びかけてくる存在として受け取る。ただし、これは「相手に優しくしましょう」という道徳標語ではない。もっと根本的な話である。〈我―汝〉においては、相手だけでなく、こちらの「我」も変わる。相手をどう見るかが変わるだけではなく、その関係の中で、自分自身のあり方も変わる。

 たとえば、樹木を材木として見ることもできる。種類、硬さ、価格、加工しやすさを見る。その見方は必要である。だが、ある日ふと一本の木の前で立ち止まり、その木がただの資源ではなく、こちらに向かって立っているように感じることがある。もちろん木が人間の言葉で話すわけではない。それでも、その瞬間、世界はただの材料の集まりではなくなる。ブーバーは、このような経験を、幼稚な感傷として切り捨てない。人間が世界と関係する根本の形として考える。

 ブーバーの主著『我と汝』が出たのは一九二三年である。第一次世界大戦後のヨーロッパでは、人間、国家、宗教、共同体への信頼が大きく揺らいでいた。人間は理性的に進歩するはずだった。科学も制度も発達したはずだった。にもかかわらず、世界は大規模な破壊を経験した。ブーバーの対話思想は、その傷のあとに現れた。だからそれは、平和な部屋で語られるきれいな理想論ではない。人間が人間を番号や敵や資源として扱う時代に、なお「汝」と呼びかけることは可能か、という切実な問いである。

 またブーバーは、思想を本の中だけに閉じ込めなかった。ユダヤ文化の再生に関わり、シオニズムにも関わった。しかし、単純な国家建設の熱狂に身を任せたわけではない。ユダヤ人とアラブ人が同じ土地でどう共に生きるのかという難問にも向き合った。ここでも、対話は単なる心の態度ではない。現実の政治、土地、共同体、教育、暴力、責任に関わる問題になる。

 この点で、ブーバーは「やさしい会話をしましょう」という人ではない。むしろ、彼の思想は厳しい。なぜなら、対話とは相手を消さないことだからである。相手を自分に都合よく理解したふりをしない。相手を敵という記号に閉じ込めない。相手を完全に同じ考えに変えようともしない。そこには距離がいる。近づくことと、飲み込むことは違う。相手が相手であることを保ったまま向き合うには、甘さではなく、かなりの強さが必要になる。

 ブーバーの人生を一言で言えば、「あいだ」を探し続けた人生である。古いユダヤの伝承と近代哲学のあいだ。信仰と知性のあいだ。個人と共同体のあいだ。ユダヤ人とアラブ人のあいだ。教師と生徒のあいだ。人間と神のあいだ。そして、私とあなたのあいだ。彼にとって重要なのは、どちらか一方を完全に勝たせることではなかった。そのあいだに何が生まれるのかを問うことだった。

 だからブーバーを読む入口は、難しい哲学用語ではなく、日常の小さな違和感でよい。話しているのに通じない感じ。見られているのに、見てもらえていない感じ。誰かの一言で、急に自分が取り戻される感じ。世界が数字や役割だけでできているように見えて、ふと、それだけではないと感じる瞬間。ブーバーは、その瞬間を哲学の中心へ持ち込んだ。

 ブーバーとは、出会いを甘く語った人ではない。人間が人間を対象として扱わざるをえない現実を認めながら、それでも対象化だけでは失われるものがあると考えた人である。世界を使うことと、世界に応答すること。その二つのあいだで、人間は生きている。ブーバーの思想は、その事実を思い出させる。私たちは、世界を説明するだけでは足りない。誰かに呼ばれ、誰かに応え、そこで初めて、自分が自分になるのである。

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