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カジンスキーの左翼批判要約

 カジンスキーの左翼批判は、政策論争の形を取りながら、実際には現代人の心理構造そのものを撃とうとする議論である。彼は左翼を、単なる社会主義者や進歩派としてではなく、ある特定の心理傾向を持つ人々の集合として捉える。そしてその核心にあるのが、劣等感と過度の社会化だと述べる。つまり彼にとって左翼批判とは、思想批判である以前に、性格批判、感情批判、そして文明批判の入口なのである。

 まずカジンスキーは、現代左翼の根底には強い劣等感があると考える。ここでいう劣等感とは、単に自信がないという程度ではない。低い自尊心、無力感、敗北主義、自己嫌悪、抑うつ傾向まで含んだ広い概念である。彼の見立てでは、左翼は自分自身、あるいは自分が同一化する集団についての言葉に極端に敏感で、些細な表現にも侮辱を見いだしやすい。だから彼らは、言葉づかい、表象、配慮の不足に異常なまでに反応する。カジンスキーはこれを、道徳的鋭敏さではなく、深い傷つきやすさの現れとして読む。

 彼がさらに言うのは、左翼がしばしば弱者や被抑圧者と強く同一化するのも、純粋な思いやりからだけではないということだ。女性、少数民族、障害者、同性愛者など、社会で弱い立場に置かれがちな集団に惹かれるのは、自分の内部にある劣等感をそこへ投影しているからだとする。つまり左翼は、弱者を守っているようでいて、実は自分の傷を外に拡張している。だから彼らは被害や差別の問題に対して、しばしば当事者以上に過敏で、当事者以上に怒り、当事者以上に言葉を管理しようとする。ここで彼が見ているのは、正義感の仮面をかぶった自己処理の運動である。

 この劣等感の裏返しとして、左翼は強さ、成功、優秀さ、競争、自信といったものに敵意を向けると彼は述べる。アメリカ、西洋文明、白人男性、理性、科学、能力差といったものが左翼に嫌われやすいのは、それらが権威や優越の象徴だからだというわけだ。もちろん彼は、左翼が表向きには帝国主義や差別や搾取を批判していることを認める。だが本当の動機は、そうした現象への冷静な批判というより、自分を圧迫していると感じる強いもの全般への感情的な反発だと解釈する。この読みはかなり乱暴だが、彼の議論全体では重要な位置を占めている。

 次に彼が強調するのが、過度の社会化である。社会化とは、子どもが社会の規範や価値観に従うよう訓練される過程だが、カジンスキーは現代左翼のかなりの部分が、この社会化を受けすぎた人間だとみなす。彼らは表向きには反抗的に見えても、実際には社会の道徳命令を過剰に内面化しており、自分の中の攻撃性や利己心や不道徳な衝動を処理できない。そのため、敵意や権力欲のような暗い感情を、そのまま認める代わりに、道徳的な大義へ変換して表現する。つまり彼らは社会に反逆しているようで、実際には社会の公式道徳を武器にして、別の部分の社会を攻撃しているだけだというのが彼の見方である。

 この点でカジンスキーは、左翼の政治運動を偽装された道徳劇として見る。人種平等、性差別反対、動物愛護、福祉拡大といった掲げる目標そのものは、社会の一般的道徳と完全に対立しているわけではない。むしろ現代の中上流階級が公認している価値観を、さらに徹底して適用しようとしているだけだと彼は言う。だから左翼は本当の意味で野蛮な反逆者ではない。むしろ優等生的な罪悪感を抱えた人間が、道徳的正しさの競争をしているにすぎない。ここで彼の批判は、左翼を革命家ではなく、過度にしつけられた官僚的道徳家として描く方向へ進む。

 さらに彼は、左翼の行動の背後には思いやりより敵意と権力欲があると断言する。たとえば少数派支援の運動も、当事者を本当に助けるためというより、怒りと支配欲を発散する口実になりやすいと見る。だから左翼活動家は、相手を説得するより、糾弾し、辱め、道徳的下位に置こうとする。敵を論破するのではなく、汚れたものとして社会的に処理しようとする。カジンスキーにとってこれは、弱者救済の運動ではなく、感情の代償行為である。彼はかなり露悪的に、社会問題がなくても左翼は騒ぐ理由を作り出すだろうとまで書く。

 ただし、彼の左翼批判の本当の狙いは、左翼だけを叩くことではない。彼は左翼の心理を、現代社会全体の病理を示す濃縮サンプルとして扱っている。低い自尊心、敗北主義、無力感、過剰な社会化は、左翼に特有というより、現代人全体に広がる傾向であり、左翼はそれが先鋭化した存在だという位置づけである。ここから彼は、産業社会が人間から自律性と尊厳を奪い、正常な「パワー・プロセス」を経験させなくなったという本論へつなげていく。要するに左翼批判は、産業技術社会批判の前座であり、症状の記述でもある。

 では、この批判のどこが鋭く、どこが危ういのか。鋭いのは、政治運動の背後にある感情の経済を見ようとした点だ。人は理屈だけで運動するのではなく、傷つき、恨み、自己嫌悪、承認欲求といった感情に動かされる。道徳がしばしば感情処理の形式になることも確かにある。だが危ういのは、彼がそれをほとんど一方向にしか読まないことだ。差別や抑圧に対する怒りを、ほぼ全部、劣等感や敵意に還元してしまう。しかも左翼という言葉の範囲も極端に広く、相手の内部動機を決めつけるため、反証しにくい。結果としてこの議論は、洞察と偏見が強く混ざったものになっている。

 要するにカジンスキーの左翼批判とは、左翼は弱者のために闘っているのではなく、自分の内面の傷、屈辱、無力感を処理するために闘っているのだ、という主張である。そしてその心理は、現代の産業社会が作り出したものであり、左翼はその病理を最もよく体現している存在だとされる。この議論は、相手の道徳性をはぎ取り、感情と性格の問題へ引きずり下ろすという意味で非常に攻撃的だ。だから読むと刺さる。しかし同時に、それは現実の不正や格差を見えにくくする危険も持っている。鋭さと歪みが同居しているところに、カジンスキーの左翼批判の特徴がある。

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