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カジンスキーの右翼批判要約

 カジンスキーの文章には、左翼批判ほどまとまった「右翼論」の章はない。だが、だからといって彼が右翼や保守派を信頼しているわけではまったくない。むしろ彼は、保守派やナショナリストや反大政府右派を、産業技術システムの敵ではなく、その補助線として見る傾向が強い。左翼が心理的に病んだ現代社会の症状なら、右翼もまた別の形で同じ病理の内部にいる。彼にとって本当の敵は左でも右でもなく、あくまで人間の自律を吸い上げる産業技術システムそのものであり、右翼はしばしばその防波堤ではなく、むしろその推進役に回る。

 まず彼が強く批判するのは、保守派の自己矛盾である。保守派は伝統的価値観の崩壊、共同体の解体、道徳の衰退を嘆く。だが同時に、技術進歩と経済成長はほとんど無条件で支持する。カジンスキーから見ると、ここには致命的な盲点がある。伝統を破壊し、共同体を引き裂き、生活の速度を異常に上げ、家族や地域よりシステムへの従属を強めてきた最大の要因こそ、まさにその技術進歩と経済成長だからである。つまり保守派は、火事を嘆きながらガソリンを注いでいる。古い秩序が壊れたと怒りながら、その秩序を壊している原動力には敬礼している。彼にとって、これは単なるミスではなく、現代保守の知的破綻である。

 次に彼が批判するのは、反大政府を掲げる右派の発想である。一般に右派は、国家権力の肥大を嫌い、規制緩和や自由市場を好む。しかしカジンスキーは、それで個人が自由になるとはまったく考えない。なぜなら、規制緩和の多くは、個人を解放するのではなく、政府から企業へ権力を移すだけだからだ。国家の監督が弱まれば、巨大企業が生活環境、労働、情報、水や空気のような基盤にまで介入する。すると、人は国家の支配から逃れたのではなく、別の巨大組織の支配に入るだけになる。彼が見ているのは、政府か企業かという違いではない。人間の運命を遠くの大組織が決めるという構造そのものだ。だから彼にとって、反大政府右派は自由の味方ではなく、「大きな政府への反感」を利用して「大きな企業」に権力を渡す案内人である。

 ここから分かるのは、カジンスキーが右翼の自由観をかなり信用していないということだ。右派はしばしば、自由を市場や所有や国家からの不干渉として語る。だが彼にとって自由とは、憲法上の権利や消費者としての選択肢ではない。自由とは、小さな個人や集団が、自分の生活条件を自分である程度コントロールできる状態である。ところが産業社会では、工場、物流、通信、雇用、教育、行政、広告、専門家の体系が人間の生を包み込み、その中で個人は細かな選択を与えられても、根本的な生の条件を決められない。だから右派がどれだけ市場の自由を称賛しても、その市場が巨大な技術システムに支えられている限り、人間の自律は回復しない。右派の自由は、彼から見れば、システムの内部で許された範囲の自由でしかない。

 さらに彼は、ナショナリズムにも強い不信を向ける。普通なら右翼は、国家への忠誠や国益の擁護によって、技術の暴走を抑える側に見えるかもしれない。だがカジンスキーは逆に、ナショナリズムこそ技術の推進者だと言う。理由は単純で、国家間競争がある限り、どの国も「技術で遅れたら負ける」と考えざるをえないからだ。より多く生産し、より速く輸送し、より高度な兵器を持ち、より精密な統治技術を備えた国家が有利になる。そうなると、右派が愛する国家そのものが、技術加速の圧力装置になる。国家への忠誠は、人間の自由を守るどころか、むしろ自由を削る巨大機械への忠誠へ転化しやすい。彼が「ナショナリズムはテクノロジーの推進者である」と言い切るのは、そのためである。

 この点で、カジンスキーの右翼批判はかなり身も蓋もない。右翼は秩序を守ると言うが、その秩序はますます技術的管理と結びつく。右翼は国を守ると言うが、その国防はより高度な産業と監視と動員を必要とする。右翼は家族や伝統を守ると言うが、その家族や伝統を掘り崩してきたのは、他でもない工業化と成長主義だった。つまり右翼は、守るべきものを掲げながら、それを破壊するエンジンに燃料を入れている。ここで彼が批判しているのは、右翼の悪意というより、構造認識の浅さである。右派は左派より現実的な顔をしているが、技術システムに対してはきわめて無防備であり、むしろ忠実な使用人になりやすい。

 ただし重要なのは、彼の右翼批判が、左翼批判ほど心理分析に寄っていないことだ。左翼については、劣等感、過度の社会化、権力欲、敵意といった内面の動機を執拗に読む。だが右翼については、そこまで細かな心理解剖はしていない。むしろ彼は、右翼や保守を「構造的に間違った陣営」として見る。彼らは伝統や自由を語るが、その実践は結局、企業権力、国家競争、技術拡張、経済成長へ収束する。そのため彼の右翼批判は、「お前たちは悪人だ」というより、「お前たちは自分が何に奉仕しているか分かっていない」という調子になる。

 要するに、カジンスキーにとって右翼とは、左翼の反対物ではない。左翼が平等や正義を掲げてシステムに奉仕するなら、右翼は自由や伝統や国家を掲げてシステムに奉仕する。左翼は道徳の言葉で人間を管理し、右翼は秩序と競争の言葉で人間を管理する。その違いはあるが、どちらも産業技術システムそのものを壊す方向には進まない。だから彼の立場では、右翼は味方になりきれない。むしろ、現代社会の病を治すふりをしながら、その病原菌を増殖させる側に回る。

 この意味で「カジンスキーの右翼批判」を一言でまとめるなら、こうなる。右翼は伝統を守るつもりで、伝統を破壊する技術成長を支持している。国家を守るつもりで、国家間競争を通じて技術支配を加速させている。自由を守るつもりで、政府ではなく企業と市場の巨大システムに個人を引き渡している。つまり右翼は、守旧派の顔をした加速主義であり、反左翼ではあっても、反システムではない。そこにカジンスキーの右翼批判の核心がある。

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