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ユナボマーに関連付けられる哲学者
ユナボマーに関連付けられる哲学者を考えるとき、いちばん大事なのは、誰が直接の思想源で、誰が問題意識の上で近く、誰が似て見えて実はかなり違うのかを分けることだ。ユナボマーことセオドア・カジンスキーは、ただの反文明の変人として片づけるには、文章の骨格が妙に整っている。しかも近年の研究では、彼のマニフェストは思いつきの叫びではなく、いくつかの先行思想を自分なりに再構成したものだと見られている。その中核にいたのが、まずジャック・エリュールである。
エリュールは、ユナボマーに最も直接的に結びつく哲学者だと言ってよい。フランスの思想家エリュールは、技術を単なる道具ではなく、効率を最優先する社会全体の原理として捉え、それが人間の自由を侵食すると考えた。彼の中心概念である「技術ないしテクニック」は、人間のあらゆる営みが最大効率で組み直されていく状態として説明している。カジンスキーのマニフェストでも、技術は個別の便利な発明ではなく、互いに支え合う一つの巨大なシステムとして描かれる。しかも研究者ショーン・フレミングは、カジンスキーがエリュールの『技術社会』から、技術システムは分割できず、人間はそれに適応させられ、反抗運動さえシステムに取り込まれるという発想を強く借りたと論じている。ここでは、ただ似ているのではない。かなり太い血筋がある。
ただし、エリュールとカジンスキーは同じではない。エリュールは技術社会への深い懐疑を持ちながらも、思想家としては制度、宗教、倫理の次元で考えた。一方のカジンスキーは、その診断を革命と破壊へ押し切ってしまった。だからエリュールは、ユナボマーの先祖というより、ユナボマーが過激化させた原型と見る方が正確だろう。つまり、哲学としてはエリュールの方が広く、ユナボマーの方が狭くて硬い。だが、その狭さゆえに刃物のような切れ味が出たとも言える。
次に関連付けられやすいのが、ジャン=ジャック・ルソーである。ただしこれは、直接の影響というより、問題設定の近さによる連想だ。ルソーは、文明の発達が人間をそのまま幸福にするとは考えなかった。彼の思想は、人間の自然な自由と社会の拘束との緊張をめぐるものとされている。カジンスキーもまた、人間は進化の過程で形成された生き物であり、現代の産業社会はその条件からあまりにも逸脱していると考える。つまり両者は、人間の自然と文明の人工性のあいだに深い亀裂を見る点で近い。
とはいえ、ここでも似ているのは入口までだ。ルソーは、自然状態をそのまま復元せよと単純に言っているわけではなく、むしろ近代社会の中で自由をどう政治的に組み直すかを考えた。一般意志や社会契約の議論は、そのためにある。だがカジンスキーは、そうした政治的再構成をほとんど信用しない。彼にとって問題は制度設計ではなく、技術文明そのものだからだ。だからルソーは、ユナボマーの前に立つ分岐点のような哲学者だと言える。自然と文明の緊張という問いは同じでも、ルソーは政治へ向かい、カジンスキーは破壊へ向かった。
三人目として挙げたいのは、ヘンリー・デイヴィッド・ソローである。ソローは厳密には哲学者というより、思想家、作家、自然主義者だが、ユナボマーに関連付けられる人物としては外せない。『ウォールデン』でソローは、森のそばで簡素に暮らし、自立と省察を通じて、本当に必要なものは何かを問い直した。この本は、単純な隠遁記ではなく、簡素な生活、自立、個人主義をめぐる思想書として位置づけられている。山小屋で孤立生活を送り、文明から距離を取ろうとしたカジンスキーの姿は、表面的にはこのソロー的な系譜に重なって見える。
だが、ここもまた本質的にはかなり違う。ソローの簡素な生活は、文明への絶望から出たというより、自分の生を澄ませるための実験だった。彼は縮小の中に感受性を見ていたのであって、文明の全体的崩壊を望んでいたわけではない。ユナボマーの孤独は、ソローの孤独よりはるかに攻撃的で、しかも自然への回帰が倫理的実践ではなく、文明との戦争へ変わっている。だからソローは、ユナボマーの先駆者というより、もっと穏やかで高い位置にいる比較対象だろう。似た景色を見ていても、見ているものの意味が違う。
そして四人目として、マルティン・ハイデガーを挙げることもできる。ハイデガーは『技術への問い』で、技術を単なる道具として理解する見方は浅いとし、技術時代には世界そのものが「利用可能な資源」として現れる仕方が支配的になると論じた。またハイデガーは技術の本質を、単なる手段ではなく、人間が世界を露わにする仕方そのものの変化として捉えた。ここには、技術は外部の機械ではなく、人間の存在理解を丸ごと変えるという発想がある。ユナボマーが技術を社会の外側の部品ではなく、人間の自由と心理の条件を作り変える全体システムと見た点は、このハイデガー的な感覚にかなり近い。
ただし、ハイデガーは技術の本質を存在論のレベルで考えた。彼は、技術時代の危険を語りつつも、それをただ壊せばいいという話にはしていない。カジンスキーはそこを一気に短絡させる。存在の問題を、文明打倒の運動へ落としてしまう。言い換えれば、ハイデガーの問いは深すぎて曖昧であり、カジンスキーの答えは鋭すぎて粗暴なのだ。だが、それでも両者を並べる意味はある。技術を「便利な道具」にとどまらないものとして見たとき、そこに何が起きるかを、ハイデガーは哲学として、カジンスキーは憎悪として表現したからである。
こうして見ると、ユナボマーに関連付けられる哲学者で最も直接的なのはエリュールであり、文明が人間を歪めるという古い問いの線上ではルソーが見えてくる。簡素な生活と自然の側へ戻ろうとする姿勢ではソローが重なり、技術を世界理解の様式として見る視点ではハイデガーが響く。だが同時に、どの思想家もユナボマーそのものではない。むしろユナボマーは、そうした思想の断片を、自分の孤独と怒りと暴力の中で再結晶させた人物だと言った方がよい。
ユナボマーを哲学者で説明しようとすると、少しずつズレる。そのズレこそが重要なのだ。エリュールならまだ思考だが、ユナボマーではそれが執念になる。ルソーなら政治の問いだが、ユナボマーでは文明否定になる。ソローなら生活実験だが、ユナボマーでは戦闘態勢になる。ハイデガーなら存在論だが、ユナボマーでは破壊の宣言になる。関連付けられる哲学者は多い。しかし、そのどれにも収まらないところに、ユナボマーの危うさと、人を惹きつけてしまう異様な純度がある
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