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カジンスキーのテクノロジー批判要約

 カジンスキーの中心にあるのは、産業技術システムが人間の自由、自律、尊厳をどう削っていくかという問いである。彼にとってテクノロジーは、便利な道具の集まりではない。人間の生活条件そのものを作り変え、しかもその変化を人間の意志では止めにくい、巨大な自己増殖システムである。

 まず彼の出発点は、近代技術は人間を楽にしたのではなく、別の仕方で縛ったという認識にある。たしかに寿命は延び、物質的快適さは増した。だがその代償として、人間は大きな組織に依存し、自分の生活を自分で動かす力を失った。食べ物、仕事、医療、移動、通信、安全、そのほとんどが、自分の手の届かない遠い場所の決定に左右される。すると人間は、生きているのに、自分の人生を操縦している感じを失う。彼が問題にしているのは、貧しさよりむしろこの無力感である。

 この無力感を説明するために、彼は「パワー・プロセス」という考えを持ち出す。人間には、目標を持ち、そのために努力し、ある程度達成する流れが必要だというのだ。しかもそこには、自分で決めて動いているという自律性が要る。ところが現代社会では、生存に必要な多くのものが、最小限の努力で手に入る一方で、本当に重要な決定は巨大なシステムの側にある。人は働いていても、命じられた手順をこなすだけになりやすい。目標は自分のものではなく、組織のものになる。だから努力しても、自己の達成感や尊厳につながりにくい。彼にとってテクノロジー批判とは、要するに「人間が自分で生きる回路を奪われた」という批判なのである。

 ここで重要なのは、彼が個々の発明を一本ずつ責めているのではないことだ。電話が悪い、冷蔵庫が悪い、コンピュータが悪い、と言っているだけではない。そうではなく、一つひとつの技術は便利でも、それらが積み重なると、人間社会全体がその技術に合わせて再編される、と考える。自動車は典型例だ。最初は移動の自由を広げたように見えるが、やがて都市構造、道路、通勤、買い物、生活圏そのものが車前提になり、今度は車なしではまともに暮らせなくなる。選択肢だったものが、いつの間にか必需品へ変わる。これが彼の見る技術の怖さだ。便利さは単発で終わらず、生活全体をそれに従属させる。

 さらに彼は、技術の「悪い部分だけ切り捨てて、良い部分だけ残す」ことはできないと主張する。現代医療を残して、工業システムだけ縮小する、といった発想は甘いというわけだ。なぜなら、高度な医療は、化学、物流、電力、精密機械、情報処理、大規模組織など、他の技術群に支えられているからである。しかも、一つの技術的成功は、別の新しい管理や介入を必要とする。彼が遺伝子工学や行動制御を恐れるのもここで、技術が人間の外側を変えるだけでなく、ついには人間そのものを設計対象にしてしまうと見るからだ。つまり技術は、中立な手段ではなく、人間を再構成する力として働く。

 彼の批判がさらに苛烈なのは、技術社会では自由の縮小が偶然ではなく、構造的必然だと言い切る点にある。大規模で高度に組織化された社会を動かすには、人々の行動を細かく調整し、規格化し、予測可能にしなければならない。職場では命令に従うことが求められ、教育ではシステムに合う人材が育てられ、行政や企業はデータを集め、メディアや娯楽は行動や感情を誘導する。しかも現代の支配は、露骨な暴力だけではない。むしろ理想形は、本人が自由だと思っているまま、行動を管理されることである。彼にとってテクノロジーとは、監視機械だけでなく、心理操作、教育技法、医療、広告、娯楽まで含む広い支配技術の体系なのである。

 だから彼は、技術と自由を両立させるような改革は不可能だと考える。ここが彼の最も極端で、同時に最も核心的な主張である。普通なら、ルールを整えればいい、倫理で制限すればいい、民主的統制を強めればいい、と考える。だが彼は、それでは止まらないと言う。理由は、技術の方が自由への願望より強い社会的力だからだ。新技術は、便利さ、競争力、安全、効率、利益という分かりやすい報酬を提示する。一方、自由の喪失は、抽象的で、じわじわ進み、気づきにくい。だから毎回の小さな妥協で、人は技術を受け入れてしまう。しかも国家間競争や企業間競争がある限り、「うちだけ止まるわけにはいかない」という圧力がかかる。結果、技術は一方向に進み、自由の側がじりじり後退する。

 この意味で、カジンスキーはかなり冷酷な現実論者である。環境問題や政治腐敗のような、もっと単純な社会問題ですら、現代社会は理性的に解決できていないのに、それよりはるかに複雑な「技術と自由の調停」ができるはずがない、と彼は考える。つまり彼は、人類の善意や熟議の力をあまり信じていない。社会は理性で設計されるというより、複数の勢力と制度が、自己保存のために動いた結果として変化する。だから、技術システムもまた、人間を幸福にするためではなく、自分の維持と拡張のために人間を作り変えていく。ここで彼のテクノロジー批判は、道具批判から文明批判へ跳ね上がる。

 そして彼の結論は過激で、改革ではなく放棄、つまり工業・技術システムそのものを捨てるしかないというものになる。ここはもちろん、最も危険で最も支持しがたい部分でもある。だが、彼の議論の筋だけを追うなら、ここへ行くのはわりと自然だ。もし技術が本質的に自由を侵食し、しかも一度組み込まれると後戻りできず、悪い部分だけ切り離すこともできないなら、残る答えは「全体を壊す」しかない、という論理になる。賛成するかは別として、彼の思考の芯はここにある。

 要するに、カジンスキーのテクノロジー批判は、「便利になりすぎて人間らしさを失った」という感傷ではない。もっと構造的で、もっと容赦がない。技術は人間を助ける道具ではなく、人間の生活条件を再編し、その再編を通じて人間の自律と自由を吸い上げるシステムだ、というのが彼の見立てである。左翼批判より、右翼批判より、こっちの方がはるかに本丸だと言えるのは、そのためだ。彼が本当に言いたかったのは、政治的立場の優劣ではなく、近代文明そのものが人間をどこへ連れていくかだったのである。

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