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昭和天皇とパワープロセス

 パワープロセスとは、人が自分で目標を持ち、その達成のために努力し、ある程度それを実現するまでの流れを指す言葉である。この考えでは、人間はただ安全に暮らすだけでは足りない。何かに向かって動き、自分の力で現実に手を加えたという感覚を必要とする。目標、努力、達成、そしてある程度の自律性。この一連の流れが切れてしまうと、人は退屈し、空虚になり、時には自尊心まで傷つけられるとされる。昭和天皇の話がここで面白いのは、この理屈を説明する実例として持ち出されている点にある。

 もともとこの議論では、豊かな貴族階級は生活のために苦労しなくて済むため、しばしば退廃や無気力に傾くと考えられている。生きるために働かなくてもよい人間は、目標と努力の回路を失いやすいからである。そこで例外として挙げられるのが昭和天皇だ。テキストでは、昭和天皇・裕仁は退廃的な快楽主義に流れる代わりに、海洋生物学に献身し、その分野で高い評価を得たと述べられている。つまり、与えられた地位の中で腐るのではなく、自分で課題を持ち、研究というかたちでエネルギーを注ぎ込んだ人物として読まれているのである。

 ここで重要なのは、昭和天皇が偉かったという単純な称賛ではない。パワープロセス論において大事なのは、身分や境遇それ自体ではなく、人がどのように自分の生を動かしたかである。天皇という立場は、普通に考えれば、生活の必要に追われることが少なく、退屈や空虚に陥っても不思議ではない。だが、その空白を海洋生物学という対象で埋めた。標本を観察し、分類し、考察し、積み上げていく。そこには目標があり、努力があり、達成もある。だからこの例は、権力や富そのものが人を満たすのではなく、何かへ取り組む過程こそが人を支えるのだという主張を強く印象づける。

 この見方は、昭和天皇という存在を少し違う角度から見せてくれる。一般に昭和天皇は、政治や戦争責任や象徴天皇制と結びつけて語られやすい。もちろんそれは当然のことで、歴史上の位置を考えれば避けられない。しかし、パワープロセスの文脈で見ると、昭和天皇はまず一人の人間として現れる。つまり、巨大な制度の頂点にいながら、それだけでは生きる実感を得られず、自分なりの対象に向かって精神の力を流し込んだ人間である。ここでは政治的評価より先に、人間の構造が見えてくる。

 同時に、この例は「代理活動」という概念とも結びついている。代理活動とは、生きるために本当に必要だからではなく、目標を持ち、努力し、達成する感覚を得るために行う活動のことである。テキストでは、昭和天皇の海洋生物学もこの文脈で読まれている。つまり、衣食住のために研究したのではなく、もっと別の深い欲求、言い換えれば、生きる手応えへの欲求に突き動かされていたという見方だ。この点は少し挑発的である。学問を高貴な知的営みとして称えるのではなく、人間の根本的な欲求の代替回路として捉えているからだ。

 だが、この挑発的な見方には、かなり鋭いところがある。現代人の多くもまた、生きるために最低限必要なものだけなら、昔よりずっと簡単に手に入る。にもかかわらず、なぜか不満が消えない。仕事に追われ、趣味にのめり込み、競争に疲れ、何かを達成してもすぐに空しくなる。その理由を、パワープロセス論は、人は結果だけでは満たされず、過程への参加を必要としているからだと説明する。そう考えると、昭和天皇の海洋生物学は、遠い皇室の逸話ではなく、人間一般の姿を拡大して見せる鏡になる。

 ただし、この見方をそのまま受け入れるのは危うい。第一に、昭和天皇の研究を単純に代理活動と断定してしまうと、学問そのものの価値を見落とすおそれがある。海洋生物学は単なる暇つぶしではなく、知識の蓄積であり、研究共同体の一部でもある。第二に、パワープロセスという概念は、人間の充実をかなり一つの軸で説明しようとするため、歴史、責任、制度、他者との関係を薄くしてしまう面もある。昭和天皇をこの概念だけで読むと、政治史の重みが消え、人間心理の標本のように見えてしまう。

 それでもなお、この例が忘れがたいのは、富や権威の極点にいる人間ですら、ただ地位を持つだけでは足りないと示しているからだろう。人は恵まれれば満たされるわけではない。むしろ、必要が消えたときにこそ、自分で目標を作れなければ崩れる。昭和天皇が海洋生物学へ向かったという描写は、そのことをきわめて端的に伝える。権力ではなく対象へ向かうこと、所有ではなく没頭すること、与えられた身分ではなく、自分の精神を使うこと。そこにパワープロセス論の核心がある。

 昭和天皇とパワープロセスという組み合わせが示しているのは、どんな立場の人間も、生きる実感を外から受け取ることはできないという事実である。身分が高くても、金があっても、周囲に守られていても、それだけでは人は空洞になる。必要なのは、自分で向かう対象を持ち、そこで努力し、手応えを得ることだ。昭和天皇の海洋生物学は、その意味で、特権階級の奇妙な趣味ではない。むしろ、人間が自分の生を支えるために、どこかでどうしても必要とする営みの一例なのである。

 そしてこの話は、昭和天皇という特別な人物を越えて、いまを生きる私たちに戻ってくる。生活が便利になり、最低限の生存が制度によって支えられるほど、人は逆に、自分で目標を作り、自分で努力し、自分で確かめる回路を失いやすい。そうなると、刺激は増えても、生きている感じは減っていく。パワープロセスという言葉が今も刺さるのは、その空白を言い当てるからだ。昭和天皇の例は、その空白が、最も恵まれた人間にすら生じうることを示している。だからこそ、この話は単なる歴史の小話ではなく、人間とは何によって支えられるのかを考えるための、一つの鋭い入口になっている。

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