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なぜユナボマーマニフェストは人を惹きつけるのか

 ユナボマーマニフェストが人を惹きつけるのは、まず第一に、それが現代人の漠然とした不快感に、かなりはっきりした言葉を与えるからである。多くの人は、便利になったのに満たされない、つながっているのに孤独だ、自由なはずなのに息苦しい、といった感覚を持っている。だが、その感覚は普段うまく言語化できない。マニフェストはそこへ、産業社会と技術システムが人間から尊厳と自律を奪ったのだ、という一本の太い説明線を引く。すると読み手は、自分の違和感が偶然ではなく、構造的なものだと感じられる。ここにまず強い引力がある。

 とくに強いのは、彼が「パワー・プロセス」という言葉で、人間が目標を持ち、努力し、達成し、自分で動いている感覚を必要とする、と述べる部分である。人は楽になれば幸せになる、と普通は考えがちだが、マニフェストは逆を言う。楽になりすぎた結果、人は自分の力を使う場を失い、空虚と無力感に沈んだのだと論じる。この説明は、単なる文明批判より一段深い。なぜ便利さの中で不幸になるのか、その心理的な仕組みまで示してくれるからだ。読者はここで、単なる不平不満ではなく、自分の苦しみに理論が与えられたように感じる。

 しかもこの文章は、現代社会の不調を、個人の甘えや失敗へ還元しない。お前が弱いからだ、お前の努力が足りないからだ、とは言わない。むしろ、社会の側が人間の作りに合わなくなっている、と言う。この転換は大きい。自分の中に沈殿していた敗北感が、社会の設計への怒りに変わるからだ。人を惹きつける思想は、しばしば慰めより先に、怒る資格を与える。ユナボマーマニフェストはまさにそこがうまい。読み手の屈辱を、個人の失点ではなく、文明の病理へ変換してしまう。

 第二に、この文章は世界を単純化する能力が高い。現代は複雑すぎる。政治も経済も、格差もメディアも、教育も家族も、原因が絡み合いすぎていて、ふつうは何が悪いのか分からなくなる。だがマニフェストは、その混乱を切り裂いて、元凶は産業技術システムだ、と断言する。もちろん現実はそんなに単純ではない。だが、人は複雑さに疲れているとき、全体を一つの原理で説明する理論に強く惹かれる。しかもその原理が、金でも階級でもなく、日常の隅々に浸透している「技術」なら、説明の射程は非常に広く見える。これが読者に、見取り図を手に入れた感覚を与える。

 第三に、この文章は自分の違和感を、少数派の特権に変える。世の中の大半が便利さを喜び、進歩を当然と思っている中で、自分だけが何かおかしいと感じている。そういう人にとって、マニフェストは「あなたの感覚は狂っていない、むしろ多数派の方が麻痺している」と言ってくれる文章になる。これは危険だが強い。人は孤独な違和感を抱えているとき、それが真実の感覚だったと確認されると、一気に惹き込まれる。マニフェストは、社会不適応者に誇りを与え、周辺にいる者へ、中心よりも深く見えているのだという感覚を与える。

 第四に、文体の力がある。ユナボマーマニフェストは、慎重な学術論文のようには書かれていない。断定が多く、迷いが少なく、全体が異様な確信で貫かれている。この種の文体は、論証の穴を埋める代わりに、読者へ心理的な圧力をかける。これだけ言い切るなら何か見えているに違いない、と感じさせるのだ。しかも彼は、産業社会、左翼心理、社会問題、自由、技術、未来と、話をどんどん接続していく。すると読者は、ただ一つの意見を読んでいるのではなく、巨大な世界観の内部へ連れ込まれていく。この全体性が、一種の酔いを生む。

 第五に、禁書性の魅力もある。ユナボマーマニフェストは、ただの評論ではない。現実の爆弾事件と結びついた文書であり、その事実が文章に異様な緊張を与えている。読者は、単に鋭い文明批評を読んでいるのではなく、命を賭けて世界を告発した人間の言葉を読んでいる、と感じてしまう。もちろん実際には、暴力が思想を保証するわけではないし、むしろ大きく損なう。だが心理的には、危険を冒した書き手の言葉は、それだけで真剣さの証明のように見えやすい。ここに、内容そのものとは別の引力が発生する。

 さらに言えば、この文章は「失われた自然」への郷愁を巧みに呼び起こす。人間は本来、もっと小さな共同体の中で、自分の身体と判断を使って生きていた。それを技術文明が壊した、という物語は、歴史として正確かどうかとは別に、非常に強い原像を持っている。忙しさ、情報過多、過密、監視、ノルマ、広告、そういうものに疲れた人ほど、自然、素朴さ、自律という言葉に救いを感じやすい。マニフェストはそこへ、単なる田園礼賛ではなく、人間の尊厳の問題として意味を与える。だから懐古趣味ではなく、存在論のように読めてしまう。

 ただし、ここで重要なのは、惹きつけられることと、正しいことは別だという点である。ユナボマーマニフェストは、現代社会の病理をかなり鋭く言い当てる部分を持つ。だが同時に、複雑な現実を一つの敵へまとめすぎるし、自分に都合のよい例を選びやすいし、最後には暴力と破壊へ飛躍してしまう。この飛躍は決定的である。どれほど診断が鋭くても、そこから出る処方箋が破滅的なら、その思想は危険物になる。人を惹きつける思想ほど、その魅力の中心と、その危険の中心が同じ場所にある。ユナボマーマニフェストは、その典型に近い。

 ユナボマーマニフェストが人を惹きつけるのは、現代人の言いにくい苦しみを言語化し、個人の屈辱を文明批判へ変え、複雑な世界に一本の説明線を通し、周縁にいる人間へ特別な視力を与えるからである。そしてそれを、異様な確信と、禁断の重みをまとった文体で差し出してくるからだ。つまりこれは、単なる過激文書ではない。現代社会の中で、自分がなぜこんなに生きづらいのかを知りたい人間にとって、非常によくできた誘惑の書なのである。惹きつけられてしまうのは不思議ではない。むしろ怖いのは、あまりにも惹きつけられる理由が、ちゃんとあることの方だ。

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